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日本語文法、言語学の基礎理論

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日本語文法、言語学の基礎理論日本語文法、言語学の基礎理論 映画の最中に別のものを見続けたこと (2007.9.21) 夜の9時から寝床で白黒映画を見ていた。 静かな映画だったので眠くなったが、それでも完全に眠りはしなかった。 眠りはしなかったが、映画とは別のものを見続けてもいた。 そのほとんどはすでに記憶にないが、図のようなものをはっきり見たことを忘れなかった。下を向いた赤くて鋭い三角だ。 中央になにかあったが、ボタンといったものでなく、ラベルのようなものだった。同じような三角は他にも出てきて、これはその中のひとつ。なにをするものかといえば、...

日本語文法、言語学の基礎理論
日本語文法、言語学の基礎理論 映画の最中に別のものを見続けたこと (2007.9.21) 夜の9時から寝床で白黒映画を見ていた。 静かな映画だったので眠くなったが、それでも完全に眠りはしなかった。 眠りはしなかったが、映画とは別のものを見続けてもいた。 そのほとんどはすでに記憶にないが、図のようなものをはっきり見たことを忘れなかった。下を向いた赤くて鋭い三角だ。 中央になにかあったが、ボタンといったものでなく、ラベルのようなものだった。同じような三角は他にも出てきて、これはその中のひとつ。なにをするものかといえば、自殺をするためのものだった。 「自殺用の三角」という、これを指す言語記号が、しっかりと頭に残った。これ以外の三角は自殺用ではなかったと思う。 なぜ「自殺」かといえば、恐らく映画の内容となんらかの関係があったのではないかと思われるが、映画の内容も一通り記憶しているので、そこからいえることは、映画に「自殺」というキーワードが出てこなかったということだ。もっとも、うとうとしてもいたから、絶対に出てこなかったとも言い切れないのかもしれないが、それは映画が何であるかわかっているから検証可能となる。 いずれにしても、こういうことはよくあることだ。(記憶していてこのように書き記すことは滅多にないが。)目の前に映画という認識の対象が展開しており、それを認識している一方で意識が虚ろになり、まったく別の対象を認識している。映画は客観的に誰にでも等しく認識されるが、この三角は自分だけが認識する。しかし映画も、三角も、自分にとっては共に等しく認識の対象となっている。 『冷血(In Cold Blood)』(1967年 リチャード・ブルックス監督・トルーマン・カポーティ原作) 「る/た」「い/かった」「だ/だった」の原義を特定する10項 (2007.9.1) 1 私たちには相対値は理解しやすく、絶対値は理解しにくい。 私たちの認識そのものが、相対関係の中で成り立っている。 2 テンス・アスペクトの原義はまだ特定されていない。 脳の働きには、思考や記憶のレベルというものがある。論理的な思考や、知識をストックすることがそのレベルにあり、私たちはそれを意識している。 それに対して、感覚的で無意識に使い分ける語というものが確かに存在し、それこそが私たち言語の基本骨格を支配する。 その骨格に、時間の前後を判じ分ける能力が大きく存在しているという理論がある。その理論によって、従来の言語学は支配されてきた。 しかし日本語でも、英語でも、あるいはさらに人工的な中国語でも、「る/た」とそれに相当する一対の語の使い分けを「時間」では説明しきれない。(もし説明しきれる使い分けしかしていない人がいたら、その人はネイティブスピーカーではないということになる。)「時間(テンス)」という理論の力不足を補完すべく「アスペクト」という概念を持ち出してもやはり説明しきれない。 そもそも同一の対の語に「テンス」と「アスペクト」さらに例外という二重三重の基準が複雑に働いているとする理論は単なる空想の産物なのだ。実際、日本語が母語なら誰もそんなことはしていない。それでも「テンス」「アスペクト」に固執するのであれば、それはあくまでもそのような思想への支持 关于同志近三年现实表现材料材料类招标技术评分表图表与交易pdf视力表打印pdf用图表说话 pdf 明でしかなく、一般の私たちの素直な実感とは敵対してしまうことになる。(青字:2007.9.10 訂正) テンス・アスペクトというのは、それら語形変化でそのような客観的意味を伝達可能ということにすぎない。しかし実際の素朴な言語運用において伝達されるのは、それら語形変化の原義なのである。現実の用例が必ずしもテンス・アスペクトに適合しないという厳然たる事実から、誰しも目をそらすべきではないだろう。この事実の表す意味は、テンス・アスペクトより深いところに原義があるということに他ならないのだ。 言語にはもちろん普遍的な文法というものがあることだろう。しかしだからといって、他言語に主眼をおいた研究成果とされるものによって私たちの日本語が支配されるいわれはないだろう。(青字:2007.9.10 加筆) 3 原義は相対関係にある。 テンスにせよ、アスペクトにせよ、そこには絶対基準を仮定し、その基準に従うことが仮想されている。 しかし、絶対基準は、私たちが生まれついて持っている基準ではない。絶対基準というものの存在に納得するのは、相当に成長してからのことであって、それは一人前の大人であっても、日常の思考で十分に活用することができずにいるのが普通である。 その事実からみて、無意識下で選択決定される「る/た」の原義が絶対基準であるとは到底考えられない。それはつまり主観的(主体)基準であり、何らかの相対関係に発するものと見なすのが自然である。(青字:2007.9.10 訂正) 4 主体と対象 認識と発話を行う主体がある。主体による認識は、ありとあらゆる対象を認識する。 主体と対象という、対立する両者があり、そこに相対的な関係が存在する。 5 主体 主体とは、認識と発話を行う主体(認識と発話を実行する脳の分野に指令を出す主体)を指す。 これは、認識者の脳であるとか、脳のどの部分であるといった、客観的観察によって導き出された実体ではなく、私たち一人一人、誰にでもに共有される実感としての主体である。 さらにこれも極めて重要な事実であるが、主体は通常、主体内部に事象の発生や存在はないと認識している。これは、思考や記憶(あるいは思考や記憶の実行)をおこなう脳(脳の中の活動が意識される領域、あるいは脳の中の意識される活動)への指令を出すのが主体であって、主体自身による指令(指令などの行為)は通常、意識のおもてに出ないと内省できるためである。(青字:2007.9.10 加筆修正) 6 対象 対象とは、認識の対象となる事象を指す。 これには、「思う」「気がする」「感じがする」といった言語表現に表れる、認識者自身の思考や感情といった事象が含まれる。これら思考や感情に類する対象(脳内に認識される事象)は、認識者外部の世界に発生するあらゆる事象と同列に認識されているというのが、私たちの実感としての事実である。(「(雷が)光った!」と「(考えが)ひらめいた!」は、共に認識の対象。) 7 認識の成立 主体と対象は対の関係(対立する関係)にある。この対が成り立つところに認識が成り立つ。 主体と対象の対立において、考えられる対立のあり方をおよそ挙げてみれば、(1)優劣、(2)主従、といった感じ方となるあり方が考えられる。(青字:2007.9.10 加筆修正) 8 As 「る/た」における「る」、「い/かった」における「い」、「だ/だった」における「だ」によって伝えられる対立(主体と対象の対立)のあり方は、主体が対象に対して主導的ないし優位であると感じられる対立のあり方であると認められ、そこに例外はない。この対立のあり方を「As」とする。(青字:2007.9.10 加筆修正) 9 Aw 「る/た」における「た」、「い/かった」における「かった」、「だ/だった」における「だった」によって伝えられる対立(主体と対象の対立)のあり方は、対象が主体に対して主導的ないし優位であると感じられる対立のあり方であると認められ、そこに例外はない。この対立のあり方を「Aw」とする。(青字:2007.9.10 加筆修正) 10 「る/た」「い/かった」「だ/だった」の原義:請け合いと受け止め AsとAwは対の関係にある。この対をなす認識形態(意識のおもてに出ない認識の形式)は、あらゆる認識の根幹部分にあると見られる。(青字:2007.9.10 加筆修正) As(Assurance):請け合い Aw(Awareness):受け止め 発話例 Cognitional forms (認識の形態) Assurance (請け合い) Awareness (受け止め) Utterance (発話) omou hanasu nomu aru miru tanoshii aoi genkida jibunda omoeba hanaseba nomeba areba mireba tanoshikereba aokereba genkinara jibunnara himana(toki) omotta hanashita nonda atta mita tanoshikatta aokatta genkidatta jibundatta omottara hanashitara nondara attara mitara tanoshikattara aokattara genkidattara jibundattara himadatta(toki) 生まれついてもっている「文法」 (2007.9.3) 人類が生まれついてもっている「文法」なるものがあるそうだ。 ここではその説を正しいとしておこう。しかしその根本にあるのはやはり「テンス」や「アスペクト」ではなく、(主体と対象の)対立だ。この対立は、なにも人類だけにあるものではなく、犬にもあるし、蟻にもある。極論すれば、風や波にも、小石にもあるだろう。簡単に説明すれば、“押し”と“引き”である。 押しとは、我を押し通すことであり、引きとは我を引っ込めることである。私たち人間どうしのコミュニケーションには、常にこの対立があり、その対立は、無意識の主体内部から、意識される感情や思考、 さらに他者や外部世界にある存在との関係にいたるまで、様々な階層ごとに同じように発生し、存在しているものだ。 客観的と自認しながら相対的に判断を下すのが人間です。 (2007.9.8) 図1 上の図1におけるAとBそれぞれの背景色に関して、私たちが下すのは、次の〈判断1〉です。 〈判断1〉Aの背景色とBの背景色は明らかに異なっている。〈判断1〉で、私たちは以下のように認識しています。 ​ 図1の全体は、1枚のチェック柄であり、そこに影がかかったものである。 ​ Aの背景色はチェック柄全体の中で、相対的に青みが強く暗い方である。 ​ Bの背景色はチェック柄全体の中で、相対的に赤みが強く明るい方である。 ​ Aの背景色は、影がかかっていないためにBの背景色の上下左右に接する背景色よりも 明らかに明るいが、かといってBの背景色と同色と判断することはできない。 およそそんなふうな認識によって、〈判断1〉が導かれます。ところが、これを厳密に比較すべく、図1から「A」と「B」ぞれぞれの正方形部分を切り取って連結してみると、図2になります。 図2 ここで私たちは次のように判断を改めざるを得ないことになります。〈判断2〉Aの背景色とBの背景色は明らかな同一色である。〈判断1〉における誤認、あるいは錯視は、私たちが色というものを相対的に見ていることを証明するものです。後から図2を見せられることによって、私たちは、驚きをもって〈判断2〉へと改めるわけですが、それとても図2のように周辺の色を排除して初めて確認されることですから、私たちが常に相対的な認識によって判断していることは一層確かなこととなってきます。 図1におけるAとBそれぞれの背景色に関わる認識は、私たちにとっては「客観的」と自認したくなるほどに慎重な認識だったのですが、いくら慎重であっても、真の客観性を適用させることは困難だというのが現実なのです。客観的と思っても、なかなかそこで絶対基準に照らした 真に公正な判断をするのは容易でなく、どうしても相対的かつ場当たり的な判断になってしまう。それが私たちの日常(あるいは認識能力の限界)なのです。 日本語文法という認識システムの原理解明へ (2007.9.6) 哲学や言語学などに「時間認識」という前提があるようです。それは私たちの認識の根底に、意識されない時間認識があるという仮説理論ですが、この理論はいつしか疑いなきものであるかのように特別な地位を保証され、そこに踏み込もうとする議論は常に敬遠されているという印象を筆者はもっています。 特に私たちの日本語は、その理論では説明困難な事例に満ちており、過去の歴史において理論に依存した日本語使用者を生み出してきてもいません。これはつまり、主たる研究対象を日本語とすることによって、言語本来の姿に近づく可能性が期待できるかもしれないということです。当サイトでは、日本語の真の姿、ひいては言語本来の姿に近づくための、雑記帳のようなものを公開しています。言語学のどの分野といった枠組みにはとらわれず、ただ単純に、日本語文法という認識システムの原理を解明しようとする試みです。要点を簡単にいえば、「過去形」とか「完了形」といった「意味」は、「〜た」「〜かった」「〜だった」の語形がしばしばそういった意味にもなるというだけのことであって、研究が到達すべき原義は「過去」でも「完了」でもないということです。表層での意味が「過去」とも「完了」ともなるその深奥に、私たちが知るべき本当の意味があるのです。当サイトでは、その本当の意味を明確にしていきたいと思います。 *右ナビゲーションの「本当の意味」は2006年9月に書籍原稿のつもりでまとめることを試みたものですが、決して全容ではなく、未完成でもあります。 認識の主体と認識の対象、そしてその境目 (2007.9.14) 認識の対象とは、目に映り、耳に聞こえ、手や体に感じ、鼻に匂い、舌に味わうといった五官を通しの、肉体外部の事象はもちろんのことだが、それだけでは決してない。木の下を歩いていて落ちてきた毬栗が頭に当たった痛みと、原因の特定できない腹痛とは、ともに痛みであるという点で共通している。二つの痛みにおける差異は、体の表面の痛みと内面の痛みという部位の違いにすぎない。同じようなことだが、私たちはしばしば夢と現実を混同する。悪夢にうなされて「夢であってほしい」と願うことがある。例えば、朝起きてみたら、大事に飼っていたカブトムシが動かず、死んでいた。「朝起きた」これは夢か現実か。「カブトムシが動かない」これは夢か現実か。「死んでいる」これは夢か現実か。夢の中でその判別がつかない。あるいは寝起きの現実の中で判別がつかない。だが同じように、カブトムシの死という認識の対象を前にショックを受けている。私たちはそのような経験をしている。例えば、小説を読んでいる。滞りのない美しい文体によって、見たこともない美しい風景が伝えられる。自分も現実にそこへ行ってみたいと思う。どうしてそう思うかといえば、文章によって疑似体験をし、美しい風景を見たような気持ちになったからだ。しかしそれは本当に見たわけではない。見たような気持ちにさせられただけであって、実地にその風景を見れば、作家が文章で描いた風景とは印象の違うこともありうる。小説を読んで見た風景は、作家の主観という色濃いフィルターを通してのものだったかもしれないというわけだ。しかしそれでも、小説を読んで風景を見たのは確かだ。実際にはなにも見てもいないのに、見たと感じるのだ。死んだカブトムシ(夢)、(見てもいないのに見た)風景。それが現実の対象であろうとなかろうと、私たちはこの両者をともに認識の対象としている。同じことが、日常のあらゆる思考にあり、記憶にもある。思考して見えてくる未来の結末、記憶の中の亡き祖母の笑顔、それらに思いを致すことで、私たちはそれらを認識の対象とする。さらに、もっと曖昧な事象もあるだろう。疲れてひと休み、畳に横になった瞬間、脳裏にふと、「?」が生ずる。それが「いま休むべきかどうか」に関わる疑問であるのか、畳の感触によるものなのか、さっきまでしていた仕事についてなのか、あるいはなにかの虫の知らせか、まだそれはわからない。ただいえそうなことは、得体の知れないそれがどうやら「?」で表すべき脳内の認識対象であったということだけだ。そしてさらに、「?」とも「!」ともつかないほどに曖昧なものを、脳内に認識することだってある。認識の対象に対立してある主体(私たち自身の本質である精神の深奥と思われるところ)とは、以上に見たあらゆる対象を除外した残りの部分である。 そこには事象が発生も存在もしないものと、私たちは感じるともなく感じている。おのれの姿はなきものとして、脳内に去来する事象を含めたあらゆる事象を認識の対象としている。そうしているのが主体なのだ。 脳に平穏を (2007.10.29) 私たちの感覚の基本は、快いか不快かのどちらかを揺れ動く。これはおそらく胎内に小さく未熟な身体ができ始めたころからのことで、母の気分や体調の影響を受けて胎児もなにかを感じていたのではないか。母の腹が目立ってくるころには、胎内で足を伸ばすなどの動作をしていたらしいから、狭くて不快だ、伸ばせば快いといった感覚が、かなりはっきりしていたのではないかと思う。そして産み落とされる。羊水というぬるま湯でプカプカしていたのに突然乾燥した空気に触れ、助産婦の握力で潰されそうになりながら引っ張られるのだからたまらない。肺にも空気が流入し、得体の知れない匂いに包まれたら誰だって声を張り上げて泣きたくなるだろう。この時、不快はかつてなく決定的なものとして私たちを襲ったはずだ。それからいったんは、産湯で胎内に戻ったかのような錯覚に陥りながら最低限度の快さを取り戻し、産着にくるまれたときにはまんざらでもないような顔をしたかもしれない。続いて血糖の低下に不快となり、また母乳を口からのどへ、のどから腹へと流し込んで初めて味わう快感にひたる。こうした快不快の繰り返しに、私たちは死ぬまでずっと翻弄され続けるわけだ。母がすこぶる健康で精神的にも常に満たされた人であった場合の話になるが、この生に暮らす私たちの究極の願望とは、あの母胎の平穏なのかもしれない。下着、服、靴、風呂、寝床なども、そこに帰った感覚を追い求めての製品が理想なのかもしれない。言葉もまた、発達してしまった脳に平穏を与えるためにあるという側面が否定できまい。 複雑な衝動は整理してはじめて落ち着くことができるのだから、種々雑多な衝動をカテゴライズすべく語や語法が活躍する。 原初のカテゴライズにこそ文法を解く鍵がある。 (2008.2.5改訂) 原初には、「ウー。」であるとか、「オー。」であるとかした発声があったはずだ。仮に「ウー」を「押し」とし、「オー」を「受け」としよう。おのれの主張を押し出すという、漠然とした「感じ」がある。 その感じを、力を込めて「ウー」と発してみる。もしそのとき、相手である彼が彼自身の主張で押し返そうとはせず、こちらの発した「ウー」を受けるのみであった場合、彼はたとえば、力なく「オー」と発する。ここに、押しと受けという、相互伝達が成立する。相互伝達は、「ウー」と「オー」という発声を伴ったわけだ。むろん、発声のみではなく、態度、顔の表情、体の動きなどを伴っただろうから、 原初では、発声だけでの伝達ではなかったはずだ。しかしながら、語気や態度、表情などを伴った「ウー」は、いつしか一人歩きを始める。発声以外の要素を別に伴わずとも、「ウー」だけで「押し」という意味をもつようになるわけだ。「ウー」という感じ、「オー」という感じとしかいいようのない「その感じ」は、発声によって表現され、相互伝達されるようになる。これこそが、カテゴライズの最初の一歩であるはずだ。さらに同じようにして、具体的な事物にも、特定の発声が決められていく。水の乏しい環境にある集団が水を発見したときに発した「ウジャ」という音声が「水」という意味になったかもしれない。ただ言えそうなことは、初めに事物の呼称が誕生したわけでは決してなく、「この感じ」を伝えるために音声が使われ始めたということだ。日本語でいうなら、「食べる」という音声のうち、「食べ」という(特定の動作を示す)呼称よりも、「る」ないし「う」という感情的な意味の方が古くから伝達されていたはずなのだ。そんな、考えてみれば当たり前の言葉の生い立ちが、「文法的意味」の研究では除外されているように感じられるのはなぜなのだろう。 悶々とは? (2008.4.8) まったく不本意ながら、「悶々とは」で検索すると、Google で1位にヒットするのがこのサイトになっています。そして毎日のように、その1位をクリックしてここを訪れるお客様がおられます。というわけで、書かざるをえません。「悶々」とは、かなり悩んで苦しむ様子のことですね。その苦しみを「悶」つまり「もだえる」という意味の漢字を重ねて表した言葉です。中国語にもある単語ですが、主に「息苦しい」という意味で使っていると思います。こうした漢語というのは、実は私たち日本の一般庶民には上等すぎる言葉ですから、おじいちゃんおばあちゃんから受け継いできて子供のころから使っている言葉とは違います。もっと賢い人や偉い人が好んで使う言葉です。だから馴染みがなくて、「本当はどういう意味だろう?」と、ふと思って検索するという方が見えるのは当たり前のことです。「悶々として寝られなかった。」というように使うわけですが、当サイトは、客観的に説明可能な語彙について研究する場ではありませんので、ここまでにしておきます。 このサイトの要点。 (2008.6.10) 「食べ た 。」だから「過去形」。あるいは「完了形」。・・・というのがこれまでの説明です。しかしそれではすっきりしないのが日本語。「過去」でも「完了」でもないところで「 た 」は多用されています。 「未来/現在/過去」、「未完了/完了」、「未然/已然」・・・それらのどれでもない、 日本語の本当の意味 を明らかにします。私たちの認識の原理を解き明かすことでもあります。簡単に概略を述べると以下のようなことです。認識という行為が成り立つためには、認識する人の主観(認識の主体)と、その認識の対象(客体)とが対になっていなければなりません。そこには主観と対象の、原初からの対立があるわけですが、両者の境界線の引き方が間違っていると、認識の原理に対する誤解が生じてしまいます。例えば「思考」や「記憶」といった、認識する人自身の内にある事象がありますが、それらを私たちは認識の対象としています。言語の最も深いところでは、私たちは当たり前のこととして、この主観-対象間のやりとりをし、そのやりとり形式の判別が「助詞」「活用語尾」等の選択を決定していると考えられます。つまり、時間であるとか、完了/未完了であるといった、いずれも認識の対象の側にのみある状態の識別だけで、「る/た」の選択を決定してはいないという考え方です。「る/た」のような、「肯定/否定」以上に基本的で説明の難しい、意識の深いところでおこなわれている語(語形)の決定は、「時間」などよりもずっと説明が困難で、ずっと基本的な意識の活動形式によって決まっている、それはこの説明の困難さから見ても自明のことではないかという考え方です。「る/た」の本当の意味については、「る:主観が主導的な認識形式」/「た:対象が主導的な認識形式」というのが、現時点まででの結論ですが、このサイトでは、それを可能な限りわかりやすく解説しているつもりです。是非ご一読ください。 日本語文法|言語が思考を決めています。私たちの日本語文法も、私たちの思考を決めています。 (2008.7.16) 私たちの思考は、蓄えられた概念と、その概念を意味する語、そして、それら語を組み合わせ、また関連づけて発話するための文法とによって、行われています。つまり、思考は言語に依存して行われるものだということです。ところが、輸入された異言語の文法概念をもって、日本語文法を論じようとする試みが、過去には行わわれていたことがあります。語彙レベルで見れば、例えば「稲」に関わる豊富な語彙をもつ日本語と、それが決して豊富ではない英語との違いは明らかです。「稲」「米」「飯」のどれもが、英語では「rice」で表され、日本語に対応した意味を表そうとすれば二語以上の組み合わせによることになります。もちろん、逆に英語では豊富で、日本語ではひとつの語が全てを表すというものもあります。語彙というものは、各言語の行われてきた土壌、文化によって、概念の分類が異なるわけです。 同じように、文法においても、各言語の文化が異なれば、文法範疇(文法的概念)も異なるのが普通です。 ところが、日本語文法の研究が始まった段階、つまり、これから日本語文法の研究を、基礎から積み上げていかなければならなかった段階において、いきなり西洋言語の文法範疇を借りて、その最も基礎となる部分にある「時制」が、日本語にもあると断定してしまったところに、日本語文法研究の悲劇があったのかもしれません。 本サイトの研究は、実は西洋言語にあるとされるテンスやアスペクトについても疑念をもって見る立場です。日本語文法における「時制」が、文法範疇と呼ぶべき原理の類でないことは明らかであると見ております。 「る/た」のペアは、テンスやアスペクトと呼ばれる意味合いを表現する機能を有しながらも、それを表現する機能そのものが、文法範疇ではないのです。 真の文法範疇は、そのさらに深奥にあります。 それが、主観と対象の対立関係であり、主観と対象のどちらが主導的かという、認識の形式なのです。そしてこの認識の形式もまた、言語に依存して行われていると考えられます。文法が、言語によって根本的に異なることは、決して例外的事例ではないからです。 例えば、「わかる/わかった」のペアであれば、「わかり」という認識の対象(話者自身の思考も、外界の事象同様に認識の対象として、私たちの認識は行われています)が主観と対立し、主観が主導的であれば「わかる」となり、対象が主導的であれば「わかった」という発話になります。 日本語文法の、とても単純な原理を説明するサイトです。 (2008.7.7) 日本語文法の真実は何かということは、大昔から色々と研究されてきているようですが、無意識に使われ、使い分けられる深い部分というのがありまして、そこがどうしても説明できないために、ずっと混迷を続けている。それが日本語文法研究だと見ていいのではないでしょうか。 私たちが日常使わずには暮らせないのが日本語文法であり、子供でもちゃんと使えて、誰でも互いに、ちゃんと気持ちを伝え合っています。ですから、極めて単純に説明できなければ嘘なのです。 しかしどうやら、現在までおこなわれてきている日本語文法研究というのは、複雑怪奇で、専門家にしか理解できないもの、みたいですね。 「ああ、そうだね。その通りだ。」 と、誰でも納得できなければ、日本語文法を説明したことにはなりません。それなのに、難しい用語を暗記しないと日本語文法がわかったことにならないなんて話だとすれば、それは日本語文法とは名ばかりで、真実の日本語文法とはちょっとずれているということになるのではないでしょうか。 「日本語には文法なんてない!」という人がけっこういます。どうしてかといえば、それはつまり、学者の先生方が説明してくれる「文法」が、現実の日本語を説明できていないという実感からくる感想なんです。 「説明できていない」というのは、先生方のあらゆる説明に関してではなくて、ちゃんと説明できている部分もあるんです。ただ、日本語文法の、間違いなく一番重要な部分、日本語文法の体系の根幹となる部分に関しては、単純明快な説明がどこにもありません。 その根幹というのが、当サイトで主に扱っている、「見る/見た」の「る」と「た」であり、「見れば/見たら」の「れば」「たら」のような使い分けです。 日本語文法や言語学について、もしなんの予備知識もなく、ただ実際に使われている日本語を観察して分類するなら、「る」と「れば」には共通点があり、「た」と「たら」にも共通点があることがはっきりわかります。「る」と「た」が一対で、「れば」と「たら」が一対になっていることもはっきりわかります。それは明らかなことなんですが、そんな明らかな事実よりも、学者先生たちにはもっと大事なことがあるようで、その「大事なこと」が、どうやら、日本語文法の真実に近づけない最大の障害になっているんでしょうね。 当サイトでは、日本語文法の、とても単純な原則を説明しています。中でも、1冊の書籍原稿として『本当の意味』と題するものを公開しております。学説とか論文とかいった、難しいものではなくて、ちょっと面白い読み物を目指しておりますので、楽しんでいただければ幸いです。 日本語文法|日本語の文法的形態素を説明する新たな枠組み (2008.7.13) 従来の日本語文法の研究が致命的なのは、客観的語義として説明されるべき事柄と、非客観的語義(主観的な認識の形式)としての意味を伝達するものとして説明されるべき事柄とを、ごちゃ混ぜにしてきたことではないかと思います。 いわゆる、意義素(semanteme)と、形態素(morpheme)とを、その説明のアプローチにおいて同等に客観性を保とうとすることは、いたって科学的な姿勢、なんだろうとは思います。 しかしながら、文法的な形態素の伝える意味というのは、話者自身の、主観的で説明できぬ感じ方をそのままに発し、それでいてちゃんと通じ合うものですから、その「主観的で説明できぬ感じ方」とは何なのか、これを追究し、説明できるようになってこそ、問題は解決の方向に向かうはずなのです。 当サイトの研究では、それを便宜的に認識の形式と呼ぶことにしています。 たとえば簡単なものとして、次のようなものです。 何かを考えていて、頭の中に、「!」で表されるような、「発見」ないし「気付き」の類が生じたとき、「あ!」と発話する。 このとき、認識には次のような状態の変化がある。 一定の目標に向けての持続的な思考 → 思考目標へのある種の到達という認識=「あ!」 以上を、認識という行為で説明すると・・・ 持続的な認識 → 到達的な認識 これが認識の形式ですが、この例では、「到達的」とはいっても、思考する人が自ら予測可能だった自発的で能動的な到達ではなく、自分の思考という行為を自分で認識の対象としていて、その認識対象としての思考が急展開して決着する、ないしは目の前が急に開けて次のステージが向こうからこっちに現れるというような意味での「到達」になります。 認識には常に、認識の主体と対象という対立があって、その一方でも欠ければ認識は成り立ちませんが、認識の主体というのが、主体自身以外のあらゆる事象を認識の対象としており、それには記憶や思考といった、認識者の脳内の活動も含まれます。 「わかる/わかった」 「ある/あった」 上の二つのペアでは、「わかり」という思考の事象と、「有り」という外界の事象とを一切区別せず、どちらでも全く同じ「る/た」をもって意味伝達を行っているという事実がありますから、「わかり」も「有り」も、共に等しく認識の対象であるといえるわけです。 “同型で、統語上も同じ用法の形態素は同じ認識形式を表す” という命題を、当サイトでは前提としておりますが、それは、形態素に表わされる意味を、意義素の説明でおこなうような客観的語義(「現在/過去」などがその代表)をもって説明しようとするところに無理があるとする立場です。意義素の意味とは、客観的にカテゴライズされた語義ですが、一方で、文法的形態素の意味とは、話者と話者の属する集団が時に説明困難な意味をもった語そのものによってほとんど無意識に区別している認識の形式であるという考え方です。「る/た」の「る」の意味とは・・・「る!」としか言いようがない。というような意味が、認識の形式です。 日本語文法|感動詞と文法 (2008.7.16) 「まあ!」と言って驚くのが日本語の、女性の発話だとしますと、これとまったく同じ語「Mah!」という感動詞が英語にあるものかどうか、どうやらないのではないかと思われます。 同じように、「Hey!」という呼び掛けや驚きの感動詞が、日本語においても「へい!」という語としてあるものかどうか、それもどうやらなさそうです。 「まあ」や「Hey」といった感動詞に共通するのは、客観的概念を表すものではないということです。 語には、このように、客観的概念を表すものと、表さないものとがあるわけですが、「る/た」などのいわゆる活用語尾や、「は」「が」「を」などの助詞も、感動詞と同じように、客観的概念は表しません。 「る」は現在(非過去、未完了)、「た」は過去(完了)を表す、としてみたり、「は」は主題、「が」は主格を表すとしてみたりするのが、これまでの日本語文法なんですが、客観的概念を表すのは、副次的な機能としてならあるかもしれませんが、その根本的な意味としては、決して客観的概念などではなく、あくまでも、感動詞などと同じような、主観的な、認識の形式を表すとするのが、当サイトの日本語文法の研究です。 日本語文法の最初歩 (2008.7.12) 「文法範疇」という、難しい言葉があります。「文法カテゴリー」ともいわれるものですが、ウィキペディアによれば、 「語を形成する原理の分類であり、同じ文法範疇からはただ一つが選択される。例えば時制は文法範疇であり、日本語の場合、定動詞は必ず過去か非過去のどちらかであり、両方であることはない。」 ということだそうです。やっぱり難しい。 難しいのはなぜか? それは要するに、私たちの実感から、あまりにかけ離れているせいでしょう。 日本語には文法があります。というのは、語彙として説明できない部分が、みんなに共有される法則や意味として、確かに存在しているということです。 「だろ?」「まあな。」 日本語によるこんな会話が、会話としてちゃんと成り立つ(意味や気持ちを相互伝達できている)というのは、「山」「川」「海」などの、意味の説明や翻訳が簡単な語彙の部分以外のところで、「だろ」「な」といった、説明・翻訳が容易でない部分を発話し、聞き取って、互いに気持ちや心を伝え合っているからです。これを説明するのが、日本語文法を説明するということに他なりません。 ところが、先のウィキペディアの説明では、「時制」が「原理」であると、さも既成事実であるかのように書かれています。「時制」を、日本語文法の中の、原理として大事なものであると、さもそれは反論の余地のないことででもあるかのように、言い切ってしまっています。 これが、現状おこなわれている「日本語文法」の研究(あるいは研究の前提)なんですね。 しかしそれ、「時制が文法原理だ」って、いつから真実だと決まったんでしょうか。英語にも「do/did」というように、「現在形/過去形」というのがありまして、それを「時制(テンス)」としているんですけど、イギリスの、英語の本当のネイティブの人たちの話し方の中には、「時制」や「時間」では説明しきれない用法があるんだそうです。 説明できない用法については、「例外」とか、「例外的用法」であるとして、また別の「文法範疇」を仮定して説明するという手法も、文法研究ではおこなわれているようです。ということはつまり、「時制」というのは、原理ではないということになるはずです。 日本語文法でも、「時制」については色々と議論があるはずなんですが、それは英語以上に例外が多すぎるからですね。例外が多すぎる原理が原理でないのは明らかです。ですから、日本語文法の研究でやるべきことは、「時制」よりも深いところにあるはずの、本当の原理を見つけ出すことです。 当サイトの日本語文法に関する研究では、そのさらに深いところにある本当の原理を説明しています。日本語文法の本や研究論文を読んで、どうにも納得がいかないという皆さんには、きっと納得していただけるはずです。 一方で、例外だらけの「時制」を原理だと決めてかかっている人たちというのは、それは決して科学的態度ではなく、単なる「時制信仰」と呼ぶべきものですから、その信仰を改めていただくのは容易ではありません。 日本語文法は決して、「はじめに時制ありき」ではありません。日本語文法で一番はじめにあるのは、あくまでも「する/した」であるとか、「わかる/わかった」であるとか、「ある/あった」という、いずれも同じ意味のペアであるところの、「る/た」の対です。 この対(つい)については、私たち日本語を母語とする者は誰も等しく、なんの問題もなく、意味や気持ちを通じ合っています。動詞の語義が変わると「る/た」の伝える意味が変わるといった、これも日本語文法でよく前提とされる難しい小理屈も私たちの実感とはほど遠く、もっと極めて単純に、「る」を「る」とし、「た」を「た」として、その意味や気持ちを伝え合っているんです。 この対を説明するにはどうしたらいいか、というのが、日本語文法で一番最初に解決しなければならない問題です。「時制」という仮説を絶対視していては、いつまで経っても、一番初歩の、日本語文法の問題は解決しません。 認識の主体と対象 (2008.12.4) 私たちのあらゆる認識は、あらゆる事象を対象としています。あらゆる事象には、私たち自身の思考やひらめきも含まれます。それは自分自身の痛みや感情も含まれ、外界の事象と同列に認識されています。認識をおこなうのは、事象の発生も存在もない(と認識される)認識の主体です。 私たちは、私たち自身の本質部分である認識の主体と、あらゆる認識の対象との関係性を言葉や表情に表します。それはとても明確な表現です。言葉においては、文法的な語や感動詞などにして表しています。 時制でなく「請け合い/受け止め」が文法の原理です。 (2009.2.12) 「する/した」「ある/あった」などなどのペア。これはよく「現在形/過去形」とされていますが、それよりももっと深いところに、文法の本当の意味、日本語文法の本当の意味があります。 「する」「ある」などは、〈 認識の主体 〉と〈 認識の対象 〉という対立において、〈 認識の主体 〉が主役となる認識の形式。これを「請け合い」と呼んでいます。 「した」「あった」などは、〈 認識の主体 〉と〈 認識の対象 〉という対立において、〈 認識の対象 〉が主役となる認識の形式。これを「受け止め」と呼んでいます。 この文法はもちろん仮説ですが、この仮説でないと説明できないのが、日本語の文法です。 たとえば「わかる/わかった」という発話をするとき、あるいは頭の中で「わかる/わかった」と思うとき、「現在(非過去、あるいは未来)」と「過去」といった、「時制」の文法では説明できないからです。「時制(テンス)」という文法も、あくまでも仮説です。「する/した」の文法的な語形変化がどうしておこるのか、仮説としての文法で説明してみようというのが「時制」なんですね。 同じように「請け合い/受け止め」も仮説ですが、上記のような説明で、あらゆる「る/た」や「だ/だった」「(良)い/かった」が説明できますから、時制よりもはるかに、文法の原理を説明していることになります。 また、「請け合い/受け止め」は、日本語ネイティブの私たちが、自分の心の感じ方を自ら観察して、実際に違いを感じ取ることもできます。 たとえば「わかる、わかった、わかる、わかった、わかる、わかった・・・」と、心の中で唱え続けながら、自分の意識がどう変化しているかを観察します。 すると先述のように、「わかる」では、「認識の主体」=「自分の深い部分」が、「認識の対象」=「わかり」という脳内の事象に対して押すような感じが観察できるのではないでしょうか。 逆に、「わかった」では、「認識の主体」=「自分の深い部分」が、「認識の対象」=「わかり」という脳内の事象から押されるような感じが観察できるのではないでしょうか。 この極めて単純な認識の形式が、「る/た」「だ/だった」「い/かった」の語形変化になっていると考えるのが、当サイトの文法です。「いや、そうではない!」とお考えの方は、もっと有力な仮説をご提示いただきたいと存じます。絶対に例外なく説明できる有力な文法が他にもあるのだとしたら、当サイトでも学ばせていただきます。 ▼時制で説明できない発話例いろいろ (1)「明日は火曜だった。」 (2)「19世紀半ばイギリスに渡る。」 (3)同じ時点で:「あ、見えた!」「あ、見える!」ともに発話される。 (4)「わかった?」への回答は「わかる。」「わかった。」ともにある。 (5)「見せものじゃないよ。さあもう帰った帰った!」 ・・・などなど、「時制」で説明できない「る/た」の発話例はいくらでもあります。時制で説明できない場合、別の説明を持ち出すのが従来の文法です。時制が仮に原理だったとすると、それら別の説明との間に矛盾が生じますが、「請け合い/受け止め」では、全てを同じひとつの文法でシンプルに説明します。 また、時制(時間の前後を示すという意味)についても、「請け合い/受け止め」によって、二次的に伝えることが可能です。 「請け合い/受け止め」の仮説を初めて公開させていただいたのは、大修館書店様の月刊誌『言語』1994年12月号です。掲載された原稿の全文を当サイトでも公開しています。 » 月刊『言語』'94.12月号 1994年『〈日本語学習者のための〉新しい日本語文法』 大修館書店 月刊『言語』1994年12月号P.102 【投稿】 一 祈る日本語教師  「動詞の-u形(以下「スル」)が、現在形か未来形かは動詞によって異なる。-タ形(以下「シタ」)は過去形である。ただし、『駅に着いた時また電話するね』という時の『着いた』は、シタであっても過去形ではなく、また、『すみません。さっき私、明日の会議、四時からなんて言っちゃったんですけど、五時からでした。すみませんでした』というときの『五時からでした』も過去形ではない。このような例外は数多く存在するが、それぞれについては、専門的な文法知識が必要となるので、今教室ではあえて触れない。」  このように教わった学習者は、とりあえずスル・シタは、英語と同じテンスによる語形対立であるということを学習することになるのだが、教師がちらりと触れてくれた「例外」とやらを忘れてしまわない限り、それに脅えながら日本語を運用して行くことになる。そして教師の方はといえば、学習者が超人的に鋭敏な勘をもって正しいスル・シタを習得してくれることを、職務に忠実であればあるほど熱心に、祈り続けることになるのである。  本稿は、祈ってばかりもいられないと思った日本語教師が、日本語文法とは案外簡単な原理に基づくものなのでは、という模索を始めたその第一段階である。 二 日本語を支える主観的な視点 (1)「行く/来る」の視点  客観的には同じ事象を表す「行く/来る」という動詞は、発話者である認知者が自己の主観的な視点を基準にすることで、それが相異なる事象であることを識別し、それによって一方の語が選択される。 (2)「やる/くれる」の視点  客観的には同じ事象を表す「やる/くれる」という動詞は、発話者である認知者が自己の主観的な視点を基準にすることで、それが相異なる事象であることを識別し、それによって一方の語が選択される。 (3)「これ/それ」の視点  客観的には同一の座標にある事象をも指しうる「これ/それ」という指示詞は、発話者である認知者が自己の主観的な視点を基準にすることで、それが相異なる座標にある事象であることを識別し、それによって一方の語が選択される。  認知の対象となる事象がどのようなものに変わっても、誰もがそれを絶対の基準とすることのできる「常に変わらない視点」というものがあるからこそ、それを基にした認知行為の表明であるところの言葉によって、正確な意志の疎通が可能になる。  (1)〜(3)の各類義語事項においては、「常に変わらない視点」すなわち「主観的視点」ということになるが、この「主観的視点」を識別の対象であると考えることによって説明が可能になる文法事項や類義語事項は、おそらく相当な数になる。日本語にはどうやら、発話者の主観的な視点を絶対の基準にしての語彙体系が存在し、さらに文法体系にも、あるいはこの基準が原理となって存在している、ということも考えられる。 三 認知の中枢  「何となく違うんじゃないかと思えてくる」等と言うのは、思考や感情の中枢で起こる事象を、認知者内部のさらに“核”に当たるところにある動かぬ視点からみていることを表していると考えられる。認知の対象となる事象がどう変わっても、視点が認知者内部の核に据えられていれば、——そこではあらゆる事象の影響を受けないであろうから——主観的な視点が不動、不変であり続けることも可能になるのである。この不動の主観的視点を、本稿では「認知中枢」と呼ぶことにする。  例えば我々が「来る」と言う時、それは、この語によって言い表されるところの変化ないし移動が、認知中枢に比較的遠いと認識される座標から、比較的近いと認識される座標に向かうと認知される時である。「行く」と言う時には、その方向が反対になる。  「やる/くれる」も「行く/来る」と同じように、相反する二通りの方向のどちらか一方が認知されることによって語が選択される。 四 内と外  認知者は、ある特定の領域をここは自分の領域だと認識することがある。その時自分の領域(以下「内域」とする)が決まれば、当然同時に自分のでない領域(以下「外域」とする)も決まる。内域がその範囲をどこまでとするかは、認知の対象ないし形態等によって変わるのだろうが、さしあたり、不動の認知中枢を中心点とした同心円と考えておく。  以下に幾通りかの内域を見る。 (1)「そのこと/そんなこと」の内域  「なにい?豚が空を飛んだ?[その/そんな]馬鹿なことがあるもんか。」という文では、必ず「そんな」を取ることになる。この場合、[内域=発話者の把握している領域]と考え、「そんな」が指すのは常に外域事象である、とすれば説明ができる。 (2)「する/してしまう」の内域  「してしまう」という言い方は、無責任な感じがすることがある。この場合、[内域=発話者の本意や意向の範囲]と考え、言い換え可能な「する」に対する「してしまう」は外域事象である、と説明できる。 (3)「言う/言いそう」の内域  「《動詞連用形》+そうだ」の文型は、[内域=発話者自身の意志、意向による制御の及ぶ範囲]と考え、《動詞連用形》の部分に使用できる動詞は、外域の事象を指すものに限られる、と説明できる。例えば、「秘密って言われたけど、誰かにうっかり言いそうだ」という時、この「言う」は、発話者自身の行為ではあるが、発話者自身の制御の及ばない領域、つまり外域の事象として発話されていれば文法的に正しい。 五 「来る/来そう/来るみたい/来るかもしれない」  競馬の予想で、一着になると予想される馬を一頭取り立てる時、「この馬が…」に続く語として、(1)来る、(2)来そう、(3)来るみたい、(4)来るかもしれない、…という四通りの発話があるとすると、認知中枢にもっとも近いのが(1)で、以下(2)(3)(4)の順で次第に認知中枢から遠くなる、という説明が可能なようである。少なくとも客観的基準はここにもない。 六 do/did の境界線とスル/シタの境界線  「現在形」「過去形」「例外」といった調子の、冒頭で見たような説明では、平凡な学習者は混乱するか、誤用を続けるかのいずれかである。  [図1][図2]は、一見同じ形をしているようで、実は異なる現れ方をするから同一ではない。英語学習者は、テンスという範疇を学習して do と did の区別を覚える。テンスという範疇の習得によって、 do と did の境界線をわかりやすくまっすぐに引くことができるのである。 七 スル/シタの範疇  事象の発生・存在がない認知中枢を内域とし、それ以外の領域(事象の発生・存在がある領域、以下「事象域」とする)を外域として、説明を試みる。 (1)内域主導の認知「スル」  外域の(現実の)事象の発生・存在を認知するしないにかかわらず、外域に対して内域の方が主導的な関係にある認知形態
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