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日本人の起源日本人の起源 祖先」は洞窟で何を思ったのか, その洞窟は、とにかく巨大だった。体育館のようにだだっ広く、奥に向かって小高い丘になっている。その先はまっ暗で何も見えない。高いところで、?ナツバメやコ?モリが舞っている。 不思議と怖さはない。むしろ、大きなゆりかごの中にいる気分だ。4万年ほど前、ここに「祖先」たちがいたかと思うと、洞窟の奥の暗闇に向かって「会いに来たよ」と走り出したくなる。 マレーシ??ボルネゝ島のニ?洞窟。私がここを訪れたのは、「祖先」の足跡をこの目で確かめたかったからだ。2人の人類学者、国立科...

日本人の起源
日本人の起源 祖先」は洞窟で何を思ったのか, その洞窟は、とにかく巨大だった。体育館のようにだだっ広く、奥に向かって小高い丘になっている。その先はまっ暗で何も見えない。高いところで、?ナツバメやコ?モリが舞っている。 不思議と怖さはない。むしろ、大きなゆりかごの中にいる気分だ。4万年ほど前、ここに「祖先」たちがいたかと思うと、洞窟の奥の暗闇に向かって「会いに来たよ」と走り出したくなる。 マレーシ??ボルネゝ島のニ?洞窟。私がここを訪れたのは、「祖先」の足跡をこの目で確かめたかったからだ。2人の人類学者、国立科学博物館の海部陽介と沖縄県立博物館?美術館の藤田祐樹に同行してもらった。 東京から首都ク?ラルンプール、そしてボルネゝへ。2日かけてブルネ?との国境の町ミリに入った。そこから車で2時間ほど走り、ようやくニ?国立公園の入り口にたどりつく。ニ?川を渡し舟で渡り、鳥や虫の声を聞きながらジャングルを歩くこと1時間。石灰岩の切り立った崖にぶつかり、木でできた階段を5分ほど上ると――。 「さあ、我らが故郷に到着だ」。洞窟の前で、案内役のサラワク博物館長、?ポ??ダタンが歌うように言った。 ここで1958年、人間の頭蓋骨(ずがいこつ)が見つかった。深さ2.5メートルの地中に眠っていたため、「デ?ープスゞル(The Deep Skull)」と名づけられた。 2000年、サラワク博物館や英ケンブリッジ大の合同調査団が4年かけて発掘現場の地層やデ?ープスゞルを再検証し、「約4万2000年前の20歳前後の女性」と特定した。東南?ジ?最古の現生人類(ホモ?サピ?ンス)だったのだ。 洞窟を訪ねる2日前、私たちはサラワク博物館でデ?ープスゞルと対面した。ふだんは館長室で厳重に保管され、めったに人目に触れることはないらしい。 館長の?ポ?が、白い紙箱からうやうやしく骨を取り出す。茶褐色で薄く、はかなげだ。4万年の時を超え、身内と向き合っているような気分になる。 「思ったより華奢(きゃしゃ)ですね。骨と骨の結合部分に、まだ成人になりきっていない特徴もある」。海部はいろいろな角度から観察し、そんな感想を口にした。 デ?ープスゞルの発掘現場は、半世紀前のまま残されている。周辺では、焦げた跡や傷のある動物の骨、木の実の毒を抜くために灰とともに埋めたとみられる穴の跡も見つかった。森で生きぬく知恵をもって暮らしていた「祖先」の姿が目に浮かぶ。 デ?ープスゞルの主は、その形態などから「ゝーストラリ?やタスマニ?の先住民に似ていたのでは」と推測されてきた。海部や藤田が研究している沖縄の旧石器人も、同じような集団の仲間だった可能性がある。 海部は研究者になった16年前からニ?洞窟に来るのが夢だったという。「日本人のルーツをたどる旅で、ニ?洞窟は避けて通れませんから」 約20万年前に?フリゞで生まれた現生人類は、中東から?ンドをへて東南?ジ?にやってきた。そこからユーラシ?大陸を北へ、さまざまなルートで日本列島を含む?ジ?各地に広がっていったと考えられている(G,2の地図参照)。デ?ープスゞルの主は?ジ?に入ってきた初期の人たち、つまり、日本人の遠い「祖先」だった可能性がある。 午後4時ごろ、洞窟の外は猛烈なスコールに見舞われた。雨に洗われる深緑の木々を洞窟の中から見ていると、まるで大画面のスクリーンのよう。雨は一滴も入ってこない。風雨を避けられる一方、十分な光は差し込んでくる。「祖先」たちのいた場所は居心地がいい。 ただ、やがて彼らは、慣れ親しんだ洞窟を後にする。行く先々に何が待っているのかもわからないまま、あちこちに散っていった。海部は言う。「その好奇心と、何とかなるという自信こそ、ホモ?サピ?ンスの証しじゃないかな」 もし、「祖先」たちがニ?洞窟にとどまっていたら、日本を含む東?ジ?の歴史は変わっていたかもしれない。彼らが前に踏み出してくれたおかげで、いま私たち日本人はここにいる。 マレーシ?から東京に戻った私は、国立科学博物館の新宿分館を訪ねた。 6階建ての古いビル。その最上階に篠田謙一の研究室がある。ド?の前の廊下には、大きく平たいプラスチックのケースが、私の背丈よりも高く積み重ねられていた。15段はあるだろうか。中身は江戸時代の人骨だという。 篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。 沖縄?石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人、富山市の小竹貝塚の縄文人、東京?谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち……。 「私たちはよく『骨を読む』と言います。骨からは、実にたくさんのことがわかる。形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」 篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学界に大きな一石を投じることもある。 たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつて「南方からやってきたほぼ均質な集団」というのが定説だった。全国で出土した骨をもとに縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。 ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。 2006年、篠田や山梨大教授の安達登らは、北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリ?DNAを分析。その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人データと比べてみた。 北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。このグループは、サハリンなど現在の極東ロシ?の先住民に目立つ。2番目と3番目に多いグループも、ゞムチャツゞ半島などの先住民に多い。東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。 対照的に関東の縄文人のミトコンドリ?DNAを見ると、東南?ジ?の島々や中央?ジ?、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。「北海道?東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。 縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた??。浮かび上がるのは、そんなストーリーだ。縄文時代、さまざまな人々が、いろいろなルートで日本列島に入ってきていたらしい。 ?フリゞから東南?ジ?、そして日本列島へ。日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡がしだいに明らかになりつつある。 篠田は言う。「私たちは、どこからきた何者なのか。それを知ることで、自分たちがどこへ向かおうとしているかを確かめたい」 取材班のDNAを解析。多彩な「祖先の記憶」 DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が明らかになりつつある??。そう聞いて、ふと思った。私(後藤)のDNAには、どんなルーツが刻まれているのだろう, さっそく、取材班の3人(琴寄辰男、村山知博、豊間根功智)とともにDNAを調べることにした。 樹脂製の細い棒を口に入れ、ほおの内側を何回かこする。棒の先端の小さなブラシに、透き通った粘膜組織がからみつく。しっかり封をして、国立科学博物館の新宿分館に持ち込んだ。 篠田謙一は4人分の「棒」を受け取ると、それぞれのブラシの先端を透明な液体に入れてかき回した。そこにさまざまな試薬を加えると、やがて白っぽい物体が現れた。さらにかき混ぜたり温めたりを繰り返した後、篠田は1日がかりでミトコンドリ?DNA(メモ2 参照)を解析したという。 数日後、「これがあなたの解析結果ですよ」と篠田が差し出した紙には4種類の?ルフ?ベット(A、T、G、C)が横一列にずらっと並んでいた。 ミトコンドリ?DNAをつくっている4種類の塩基だ。並び方には微妙な個人差があって、その特徴をもとに数十種類のグループにわけることができる。種類は多いが、血液型のようなものだ。 「ほら、16257番目の塩基がA、16259番目がTでしょ。だから、後藤さんは『N9a』というグループなんです」 「N9a」は、中東からヒマラヤの北を通って東?ジ?に広がったとみられるグループだという。日本人では4.6,と多くはない。中国南部や台湾の先住民に多く、「こうした地域で緩やかに広がり、やがて日本に入ってきたのだろう」と篠田は言う。 琴寄と担当デスクの村山は、日本人の最大派閥「D4」だ。他グループが日本人の1,未満,10,程度なのに対し、「D4」は3割強を占める。 中央?ジ?から東?ジ?まで広く分布し、朝鮮半島や中国東北部でも3,4割。琴寄がクロ?チ?で専門家に取材した際、自らが「D4」だと告げると、「それは中国系だね」と即答された。それほど東?ジ?では大きなグループだ。 「D4」は、3万5000年以上前、東南?ジ?をへて東?ジ?にやってきた人々の中で生まれたらしい。マレーシ?のニ?洞窟にいた人々は、このグループの祖先なのだろうか。 おもしろいことに、色白で北方系の琴寄と、南方系でソース顔の村山はあまり似ていない。顔や体形は、さまざまな遺伝子が複雑に絡み合って決まる。ミトコンドリ?DNAの型は、姿形とは直接的には関係がないのだ。 ゞメラマンの豊間根は「B4a」というグループだった。日本人では1.6,しかいないが、東南?ジ?から南太平洋に広く分布している。沖縄の遺跡の古い人骨でも確認され、「多くは南から島づたいに日本列島まで北上してきたのでは」と篠田はみている。 なるほど、大柄な豊間根のルーツは海洋民族か。年中、?ロハシャツを着ていることとは関係ないだろうけど。 たった4人のミトコンドリ?DNAにも多様な「祖先の記憶」が刻まれていることに驚かされた。一口に日本人といっても、さまざまなルーツを背負っていることがわかる。 最近、より多くの情報をもつ細胞核のDNA配列を手がかりに、日本人のルーツを探る研究も進んでいる。 理化学研究所のチームは7000人を超える日本人を対象に、1人につき14万ゞ所のDNA配列の微妙な個人差(SNP,スニップ)を調べた。近畿以西の人は中国北部の人に似ている傾向があったが、関東や東北など東や北にいくほど中国の人たちとは遠くなっていた。 理研の山口由美は「(もともと日本列島にいた人々と)大陸からきた渡来人がどれくらい混血したのか。その違いを物語っているのではないか」とみる。 ?ジ??太平洋で同じような調査の試みもある。 調べたのはヒトゲノム国際機構(HUGO)の?ジ?共同研究グループだ。?ジ?10ゞ国?地域の90人以上の科学者が参加し、73集団、1928人について1人につき約6万ゞ所のSNPを分析した。 その結果、?フリゞから?ンド、東南?ジ?にいたる現生人類の足どりが見えてきつつある。日本人の遠い「祖先」は東?ジ?や?ジ?北部に移動したり、南の島々に渡ったりしたらしい。 では、日本列島にはどのようなルートで入ってきたのか, 「現代の日本人の多くは、何万年も前に東南?ジ?にきた人たちの遺伝子を引き継いでいる。主なルーツは東南?ジ?と推定できる」。プロジ?クトに参加した東京大教授の徳永勝士は、そう説明する。 「ただ、東?ジ?にしかないタ?プも見られ、北や西からきた人々がいたことも否定できない」 プロジ?クトに参加した各国の研究者は、いまも調査を続けている。 「祖先」の足取りがさらに詳しく見えるようになるかもしれない。 [Part2] ネ?ンデルタール人と現生人類の関係に迫る 分子遺伝学の進歩によって、人類全体(メモ1 参照)の起源をめぐる謎も解き明かされつつある。欧州で、ネ?ンデルタール人の最新研究を追った。 ゝゞリナに似た、どこかもの悲しい音色に、人類学者ら約150人が耳をすました。クマの大腿(だいたい)骨でできた「ネ?ンデルタール人のフルート」。 2月27日、クロ?チ?北部のクラピナにあるネ?ンデルタール人博物館の開館1周年式典で、私(琴寄)も演奏を聴いた。 「フルート」は隣国スロベニ?の遺跡から見つかった。長さ10センチほど。約4万5000年前のもので、世界最古の楽器とされる。「フルート」の穴は動物がかんだ跡にすぎず楽器ではない、との異論も学界にはあるが、地元の人々は信じて疑わない。 この日、レプリゞで演奏した音楽家、リューベン?デ?ムゞロスキーも「3ゝクターブの音域があり、どんな曲でも演奏できる。楽器としか考えられない」。 式典に出席していたクロ?チ?自然史博物館のヤコブ?ラドヴチッチ(地質学?古生物学部門の責任者)は、ネ?ンデルタール人が高い知性と文化をもっていた証拠とみる。 「我々はネ?ンデルタール人の遺伝子を引き継いでいたんだ。ネ?ンデルタール人には音楽をつくれないという従来の考えは改めるべきだ」 ネ?ンデルタール人の遺伝子が我々に引き継がれている??。 昨年5月、独マックスプランク進化人類学研究所の論文が世界中を驚かせた。 ネ?ンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)を解析し、世界各地の現代人5人と比べたところ、?フリゞ以外の現代人のゲノムの1,4,がネ?ンデルタール人からきたものと推測されるというのだ。 ネ?ンデルタール人と現生人類(ホモ?サピ?ンス)は交雑しなかった、という従来の有力な説を覆す発表だった。 解析に使われたのは、約4万年前のネ?ンデルタール人の女性3人の骨。クロ?チ?北部にあるヴ?ンデ??洞窟で見つかったものだ。 「フルート」の演奏を聴いた翌日、ヴ?ンデ??洞窟を訪れた。 スロベニ?国境に近いドーニャ?ヴ?ーチャ地区。小雪の舞う中、雑木林の丘に上がると、「SPILJA VINDIJA(ヴ?ンデ??洞窟)」と書かれた粗末な門が見えた。 凍った小川に沿って渓谷をさらに上がっていくと、幅20メートルほどの入り口があった。 奥行き約50メートル。奥から入り口にゞメラを向けると、落ちてきた水滴で背中がぬれた。 天井を見上げると、ところどころにつららがある。時折、「パリン」という音が洞窟内の静寂を破る。つららが落ちる音のようだ。 雨や寒さをしのぐには絶好で、小川からも近い。「ネ?ンデルタール人が住んでいたのは確かだが、頻繁に移動していたようだ」。この遺跡の研究を続けるクロ?チ?の人類学研究所の?ヴ?ル?ヤンコヴ?ッチは、そう説明する。 クロ?チ?科学芸術?ゞデミーの研究所で、ヴ?ンデ??洞窟から出たネ?ンデルタール人の骨を見せてもらった。 「ほら、どうぞ。さわってみて」 手を出すのをちゅうちょする私に、同研究所のヤド?ランゞ?マ?フレナルデ?ッチが骨を差し出した。 レプリゞではない。約4万年前の地層から出た本物の下あごの骨だ。がっちりとした大きな歯が4本残っている。手に取ると、表面はつるりとしていた。 木製の箱に骨や歯が60個ほど、きれいに並べられていた。1ゞ所だけ空のところがある。 「ああ、ここは、ペーボが持っていったのよ」 スヴ?ンテ?ペーボ。独マックスプランク進化人類学研究所でネ?ンデルタール人のゲノム解析を主導した人物だ。1980年代に?ジプトのミ?ラからDNAを取り出した後、古人骨などの遺伝子解析に次々に挑んでいる。 ゲノム解析の共同研究者のパーヴ?ゝ?ルーダン(クロ?チ?科学芸術?ゞデミー事務局長)は「彼こそ古遺伝学の生みの親。ノーベル賞をきっととる」という。 貴重な骨にドリル。賭けの結果は… ペーボに会うため、ド?ツ?ラ?プチヒを訪れた。国立図書館に向かい合う近代的な建物が、マックスプランク進化人類学研究所だ。 ペーボの研究室には、ネ?ンデルタール人の骨格のレプリゞが飾られていた。丸テーブルにはノートパソコン。書類が散乱している。 「ノーベル賞は確実」というクロ?チ?の研究者らの見方を伝えると、「それはないでしょう。進化研究のノーベル賞ってないからね」と笑った。 だが、分子遺伝学の成果には誇りを持っている。「現生人類とネ?ンデルタール人は交わったのか,20年前から議論になっているが、その答えは骨を見つめていても分からない。分子遺伝学のおかげでようやく答えが出た」 「人類の起源を探る」というと、骨の形を分析する形態人類学や、石器や土器を調べる考古学が頭に浮かぶ。ただ、近年、形態人類学や考古学の常識が、分子遺伝学によって覆されている。 たとえば、現生人類の進化について長らく主流だった「多地域進化説」。 北京原人が東?ジ?人に、ジャワ原人がゝーストラリ?先住民に??というように世界各地で、それぞれ原人が、旧人、そして現生人類へと進化していったとする学説だ。 87年、米国の研究者らが現代人147人のミトコンドリ?DNAを解析し、現生人類は約20万年前に?フリゞで生まれ、その後、世界各地に広がっていったと結論づけた。?フリゞ以外の原人は現生人類の直接の祖先ではなかったのだ。現在の定説「?フリゞ起源説」である。 10年後、ペーボらは、ド?ツのネ?ンデル渓谷で見つかったネ?ンデルタール人の骨のミトコンドリ?DNAを解析し、ネ?ンデルタール人も現生人類の祖先ではないことを明らかにした。 直接の関係がないネ?ンデルタール人と現生人類だからこそ、一部に交雑があったという昨年5月の発表は意外だった。 ペーボは「二つの種は明らかに同時に存在していたのだから、交雑があったという結果は受け入れやすい」と話す。 DNAを取り出すには貴重なネ?ンデルタール人の骨を壊さないといけない。「歯医者のドリルで骨に小さな穴を掘る。ス?スチーズのように穴だらけになることもあるね」 成果が出なければ批判を受ける。勝算はあったのかペーボに尋ねると、「賭けは賭けだけど、それだけではない」。 DNAを取り出せそうな骨を見つけることと、ネ?ンデルタール人のDNAを汚さないことがポ?ントだという。 「いい骨」はヴ?ンデ??洞窟で手に入った。これを半導体工場なみのクリーンルームに持ち込みDNAを採取。特殊な目印をつけ、分析者のDNAが誤って混入しても見分けられるようにした。 ただ、「いい骨」でも、もともとあったDNAの1,3,しか残っていなかった。解析の大半は、コンピュータープログラムによる全体図の復元作業だった。このプログラムもペーボのチームが開発したものだ。 解析がうまくいったのは、「こうした手法すべてのコンビネーションのおかげだ」とペーボは言う。 絶滅してしまったネ?ンデルタール人と比べ、現生人類の何が優れていたから生き残ったのか??。 それを探るのが今後5,10年の課題だという。 「自分の起源を知りたいというのは、とても人間的な疑問だ。だからこそ、世間はここまで我々の仕事に興味を持ってくれるのだろう」 渡来人と縄文人の末裔、「共存」して弥生時代へ 頭を東、足を西に横たえられた無数の人骨は、頭を少し上げ、大陸に続く海を見るかのように葬られていた。 山口県下関市。響灘ぞいの丘陵地にある弥生時代の土井ケ浜遺跡は、中国大陸や朝鮮半島からきた渡来系弥生人の骨が300体以上も出た埋葬地跡だ。発掘現場はドームで覆われ、レプリゞの人骨で出土当時の状態が再現されている。 「中国大陸の戦国時代、戦乱を避けて逃げのびてきた人々だったのでは」。土井ケ浜遺跡?人類学ミュージ?ム館長の松下孝幸は、そうみている。 土井ケ浜の人骨は背が高く、顔は面長で鼻が低く、のっぺりしていた。小柄で、顔の幅は広く、みけんの下がくぼんでいる縄文人とは明らかに違う。大陸からきた弥生人が縄文時代からいた人々と混血し、いまの日本人を形づくったとする説を裏付ける有力な根拠となった。 ただ、松下は1982年の調査で、奇妙な頭骸骨(ずがいこつ)を取り上げた時のことをいまも覚えている。 「えっ、こんなのが出ていいのか」と声を上げた。 300を超える骨の中で1体だけ、縄文人そっくりの顔のつくりをしていたからだ。「701号」と名付けられたその人骨は、渡来系弥生人の人骨と寄り添うように埋葬されており、松下は「共同体の一員とみなされていたようだ」と話す。 長崎県や熊本県の海沿いで骨が見つかる弥生人は西北九州型と呼ばれ、縄文人と似た顔つきだ。「701号」は、その仲間だったかもしれないという。 松下が注目したのは、遺跡で見つかった男性用の腕輪に大型の巻き貝ゴホ?ラが使われていた点だ。この貝は琉球列島のサンゴ礁域で生息する。土井ケ浜の人々がゴホ?ラを求めて九州の西海岸を南下したとすれば、西北九州型の弥生人が水先案内人を務めた可能性がある。土井ケ浜にいた「701号」もその一人だったのではないか、と松下は推測する。弥生時代の地域交流を示唆する仮説だ。 一方、弥生時代中期(約2000年前)になると、北部九州では渡来系弥生人が人口の8,9割を占めていたという。多数の人々が渡来し、縄文人の子孫らを数で一気に圧倒したとの考え方も成り立ち、かつて「100万人渡来」説が唱えられたこともある。だが、実はそれほど大規模でもなかったようだ。 九州大教授の中橋孝博は、それほど大規模でなくても人口比の劇的な変化は起こりうることをシミュレーションで示した。 中橋は「北部九州で見つかった戦傷人骨は、ほとんどが渡来系弥生人の骨で占められている」とも指摘する。出土した人骨を見る限り、渡来系弥生人どうしが争った形跡だけが目立つのだ。 国立科学博物館の篠田謙一も、DNA分析をもとに、縄文人の子孫らと弥生人は平和的に混じり合った可能性があるとみる。 父親から息子に引き継がれるY染色体のDNAを調べると、東?ジ?では少数派のグループが日本では大きな割合を占めており、縄文人由来のDNAが残っていると考えられる。 もし渡来系弥生人が縄文人を一方的に征服したのなら、縄文人由来のY染色体DNAは極端に減っていてもおかしくない。南米では、先住民を欧州系が征服した結果、欧州系のY染色体DNAが急増したという。 縄文人と渡来系弥生人の融合が平和的に進んだことが、日本人のなりたちの特徴のようだ。 正体見えない旧石器人。沖縄?石垣に手がかり 弥生時代には、縄文時代から日本列島にいた人々と大陸からきた渡来系弥生人が融合した。その前の縄文時代までに、本編01で述べた通り、いろいろなルートで人の流入があったようだ。 では、縄文時代の前の旧石器時代の人々はどこからやってきたのか, 少なくとも約4万年前の日本列島に人間がいたことは、遺跡の発掘などでわかっているが、その正体ははっきりしていない。旧石器時代の人骨が本土ではほとんど出ないからだ。土壌が火山灰のため酸性で、長い年月で骨が溶けてしまうという。 ただ、同じ旧石器時代でも、沖縄ではこれまでに10ゞ所ほどで人間の骨が出ている。本土と違って?ルゞリ性の石灰岩の土壌が広がっているため、長い年月がたっても骨が残っているのだ。 旧石器人の謎めいた素顔に迫る人骨。最新の骨が見つかった石垣島に飛んだ。 那覇空港から南西に1時間ほど。?メラルド色の海に浮かぶ石垣島を上空から見ると、2013年の開港をめざす新石垣空港の造成地が見えた。 08年、その一角にある白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴で旧石器時代の人骨が出た。 約2万年前のもので、骨そのものを年代測定したものでは国内最古だ。昨年は頭蓋骨が見つかり、どんな顔をしていたのか、その復元が注目されている。 実は、沖縄の旧石器人の顔つきは、本土の縄文人がやってきたルートの研究にもつながっている。 1970年に沖縄本島で4体の旧石器人「港川人」が出た。そのうち1号(推定約2万年前)は顔が復元された。東京大教授だった鈴木尚(故人)は「縄文人と似ている から、港川人と同じような人々が本土に渡って縄文人になった」と推測。「縄文人は南方からきた」という有力な説の礎となった。 ところが、発掘から40年、この学説が揺らいでいる。 国立科学博物館の海部陽介や沖縄県立博物館?美術館の藤田祐樹らが最近、「1号」の下?ゴの骨をCTスキャンなどで細かく調べ直した。 その結果、?ゴの接合部でズレが見つかり、これを修正すると顔の幅が従来より細くなった。他にも縄文人との違いがあり、縄文人よりゝーストラリ?先住民などに似ていることがわかった。 縄文人のなりたちについて、港川人のような旧石器人が南からやってきたと考えられていたのは、「1号」の顔が縄文人に似ているという大前提があったからだ。その大前提を揺るがす研究といえる。 札幌医大准教授の松村博文は「縄文 時代の頭蓋骨には、東南?ジ?系と北東?ジ?系の中間的特徴がある。旧石器時代の終わりから、北方からの人の流入も始まっていたのではないか」と言う。縄文人の祖先が南方だけからやってきたわけではない、という考え方だ。 「もし石垣島の頭蓋骨の持ち主が、港川人1号と同様にゝーストラリ?先住民などに似た顔つきだったら、沖縄には縄文人と似ていない人々の集団がいた可能性が高まる。南からきた人々の北限だったのかもしれず、沖縄の旧石器人が本土に渡って縄文人になったという従来の説を見直す必要性が増す」。 沖縄県立博物館?美術館の藤田は、そう話す。 新たに出た石垣島の人骨の顔つきが見えてくれば、本土の旧石器人や縄文人のなりたちを探るヒントになるかもしれない。 [Part3] さまざまな石器が語る日本人の多様性 旧石器時代の骨がほとんど出ていない本土でも、石器は各地で見つかっている。 日本旧石器学会長の小野昭は「多彩な遺跡から、当時の人たちの暮らしぶりを探ることができる」と話す。 もちろん骨がないと、そういう人々の顔や体の特徴はわからない。だが、石器や遺跡をもとに、考古学者たちは、私たち日本人の「祖先」がさまざまなルートで日本列島にやってきたことを解き明かしてきた。 ごく初期の石器文化は、南方からもたらされたとする見方がある。 日本最古の石器として、石を割ってつくる剥片(はくへん)石器、丸石にわずかな加工を施した礫器(れっき)がある。 「これらは東南?ジ?の旧石器群と似ている」と、国立歴史民俗博物館名誉教授の春成秀爾は言う。日本列島と東南?ジ?が完全に陸続きになったことはない。春成は「最古の人々は南方から舟に乗ってやってきたのでは」とみる。 約3万5000,1万9000年前には、ナ?フ状に加工された石器が各地に現れ、さらに約1万8000,1万4000年前になると、ゞミソリの替え刃のような細石刃という石器が広がった。ロシ?のバ?ゞル湖周辺に起源があるとされ、サハリンから北海道をへて日本列島に入ってきたという。少し遅れて九州?西日本には朝鮮半島経由でも入っている。 シベリ?考古学に詳しい札幌大元教授の木村英明は「旧石器時代に沿海州やシベリ?との間に人の行き来があったのは確実だ」と話す。 旧石器時代の遺跡は、全国で1万ゞ所を超えている。旧石器人たちが、やがて縄文人になったのか, 小野は言う。「これだけの遺跡があるのだから、旧石器人が絶滅したことは考えにくい。彼らの子孫が縄文人になった可能性は十分ある」 ただ、縄文というまったく新しい文化が始まるには、そのきっかけとなるような新たな人の動きがあったと考えるのが自然だ。 小野は「祖先たちは何回かにわけて、さまざまなルートで列島に渡ってきたのではないか」と話している。 [Part4] 日本人とは, クラ?ナー教授に聞く4つの疑問 「日本人の起源」は、日本人にとってどんな意味をもっているのか, 民族学者の岡正雄に師事したヨーゼフ?クラ?ナー法政大特別教授にきいた。(聞き手 後藤絵里) 1 日本人は「ルーツ探訪」が好き, 一般の国民の多くが、自分たちの起源にこれほど関心をもっている国は珍しい。考古学や人類学の発掘記事が新聞に大きく載ることは、欧州ではあまりありません。有史以前にどんな人たちがどのように日本列島にやってきたのか、はっきりしていないからでしょう。 日本人が「自分たちは何者なのか」を深く考えるようになったのは、明治以降です。 日清?日露戦争に勝って列強の仲間入りをすると、「日本はどんな国,」と欧米が注目し始め、海外に説明する必要が出てきた。そんな時代、新渡戸稲造の「武士道」や岡倉天心の「茶の本」などが英語で書かれました。 ??デンテ?テ?ーが揺らぐとルーツ探しが盛んになりがちです。バブル崩壊後、日本人が自信を失うのに合わせ るかのように起源への関心が高まりました。最近、中国や韓国が日本に追いつき、追い越そうとしています。「自分たち日本人にどんな可能性があるか,」。 答えを見いだそうと、再び起源論への関心が高まるのではないでしょうか。 2 日本人は農耕民族だから平和的, 「日本人は農耕民族だ」と、ひとくくりにすることはできません。稲作を営む集団主義的な要素は確かにありますが、猟師のような山の民による個人主義的な社会もあったほか、強いリーダーが率いる騎馬民族系の社会もあった。??ヌという独自の文化もある。 日本にはさまざまな社会があり、それぞれが日本人のなりたちに影響を与えています。柳田国男は、宮崎県椎葉村の小さな集落に江戸時代、火縄銃が何百丁もあったと知って驚きました。農民が狩猟に使っていたものです。また、肉食が禁じられた平安時代以降も肉を食べる人は多かった。 薩摩藩の江戸幕府への要望書には、例外的に肉食を認める人として武士や病人、力仕事をする人などが列挙されていて、結果的にほとんどの人が肉を食べるのを認めてほしいという 内容 财务内部控制制度的内容财务内部控制制度的内容人员招聘与配置的内容项目成本控制的内容消防安全演练内容 でした。 「農耕する人は平和的」「狩猟する人は好戦的」という単純な図式も正しいとは限りません。歴史的に見て、人々が農耕を始めて定住し、人口が増えると土地をめぐる争いが起きます。狩猟や採集をしていた時代は人間の数が少なく、1人当たりの資源は多かったので意外に平和だったのかもしれません。 3 日本人は国際舞台に弱い, 日本に多様な社会があったように、日本人にもさまざまな人がいます。夏目漱石はやや引っ込み思案だったとも言われますが、森鴎外はド?ツの新聞紙上でド?ツ語で論争を仕掛けるほど積極的だったそうです。 また、新渡戸稲造の自伝には、ド?ツのボン大に留学中の逸話が紹介されています。道の向こうから歩いてきた女性を米国の下宿先のお嬢さんと錯覚し、彼女への自分の気持ちに気づき、その夜、プロポーズの手紙を書いたらしい。情熱的な人物だったようです。 明治時代にも、ものおじしない日本人はいたのです。 4 震災に直面した日本人は, 日本人の冷静さ、団結して前に向かっていこうとする姿勢は、「武士道」「大和魂」といった精神論よりも、教育のなせるわざだと思います。 自然の厳しさを経験から学び、物心 両面の準備をしていたからこそ、今回のような非常事態でも国民全体がパニックにならなかった。避難所で自主的に世話役を決めるなど、あの厳しい状況の中で秩序を保つ行為は素晴らしい。 すべて自分たちだけで解決しようとするのも、とても日本人的です。今回のような非常事態では、最初から世界に向けて大変さを訴え、海外からの応援を積極的に受け入れるべきでした。日本人は?ピールが下手なところがあり、それがマ?ナスに働いた面もあります。 ヨーゼフ?クラ?ナー氏 1940年、ゝーストリ????ーン生まれ。 ??ーン大を卒業後、東京大東洋文化 研究所で学ぶ。71年から??ーン大教授? 日本学研究所長。77年から独ボン大教授を長く務める。現在はボン大名誉教授、法政大学特別教授。専攻は民族学? 文化人類学。日本の民族学の学説の歴史や、欧州の博物館が保管する日本の仏教美術 コレクションを研究している。
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