下载

1下载券

加入VIP
  • 专属下载券
  • 上传内容扩展
  • 资料优先审核
  • 免费资料无限下载

上传资料

关闭

关闭

关闭

封号提示

内容

首页 キッチン_《厨房》日文版(吉本芭娜娜)

キッチン_《厨房》日文版(吉本芭娜娜).doc

キッチン_《厨房》日文版(吉本芭娜娜)

晓彤朝君
2017-09-02 0人阅读 举报 0 0 0 暂无简介

简介:本文档为《キッチン_《厨房》日文版(吉本芭娜娜)doc》,可适用于教育、出版领域

キッチン《厨房》日文版(吉本芭娜娜)私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば、食事を作る場所であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使い込んであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何枚もあって白いタイルがぴかぴか輝く。ものすごく汚い台所だって、たまらなく好きだ。床に野菜くずが散らかっていて、スリッパの裏が真っ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽く越せるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目をあげると、窓の外には淋しく星が光る。私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。本当に疲れ果てた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、誰かがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。田辺たなべ家に拾われる前に、毎日台所で眠っていた。どこにいてもなんだか寝苦しいので、部屋からどんどん楽なほうへと流れていったら、冷蔵庫のわきがいちばんよく眠ることに、ある夜明け気づいた。私は、桜井みかげの両親は、そろって若死わかじにしている。そこで祖父母が私を育ててくれた。中学校へあがる頃、祖父が死んだ。そして祖母と二人でずっとやってきたのだ。先日、なんと祖母が死んでしまった。びっくりした。家族という、確かにあったものが年月の中で一人一人減っていって、自分がひとりここにいるのだと、ふと思い出すと目の前にあるものがすべて、うそに見えてくる。生まれ育った部屋で、こんなにちゃんと時間が過ぎて、私だけがいるなんて、驚きだ。まるでSFだ。宇宙の闇だ。葬式がすんでから三日は、ぼうっとしていた。涙があんまり出ない飽和ほうわした悲しみにともなう、柔らかな眠けをそっとひきずっていって、しんと光る台所にふとんを敷いた。ライナスのように毛布にくるまって眠る。冷蔵庫のぶーんという音が、私を孤独な思考から守った。そこでは、結構安らかに長い夜が行き、朝が来てくれた。ただ星の下で眠りたかった。朝の光で目覚めたかった。それ以外のことは、すべてただ淡々たんたんと過ぎていった。しかしそうしてばかりもいられなかった。現実はすごい。祖母がいくらお金をきちんと残なが好きだった祖母は、いつも台所に花を絶やさなかったので、週に二回くらいは花屋に通っていた。そういえば、一度彼は大きな鉢植えを抱えて祖母のうしろを歩いて家に来たこともあった気がした。彼は、長い手足を持った、きれいな顔だちの青年だった。素性すじょうはなにも知らなかったが、よく、ものすごく熱心に花屋で働いているのを見かけた気もする。ほんの少し知った後でも彼のその、どうしてか、“冷たい”印象は変らなかった。ふるまいや口調くちょうがどんなにやさしくても彼は、ひとりで生きている感じがした。つまり彼はその程度の知り合いにすぎない。赤の他人だったのだ。夜は雤だった。しとしとと、あたたかい雤が街を包む煙った春の夜を、地図を持って歩いていった。田辺家のあるそのマンションは、うちからちょうど中央公園をはさんだ反対側にあった。夜の緑の匂いでむせかえるようだった。ぬれて光る小路こみちが虹色に映る中を、ぱしゃぱしゃ歩いていった。私は、正直言って、呼ばれたから田辺家に向かっていただけだった。なーんにも、考えてはいなかったのだ。その高くそびえるマンションを見上げたら、彼の部屋がある十階はとても高くて、きっと夜景がきれいに見えるんだろうなと私は思った。エレベーターを降り、廊下に響き渡る足音を気にしながらドアチャイムを押すと雄一がいきなりドアを開けて、「いらっしゃい。」と言った。おじゃまします、と上がったそこは、実に妙な部屋だった。まず、台所へ続く居間にどかんとある巨大なソファに目がいった。その広い台所の食器棚を背にして、テーブルを置くでもなく、じゅうたんを敷くでもなくそれはあった。ベージュの布張りで、CMに出てきそうな、家族みんなですわってTVを観そうな、横に日本で飼えないくらい大きな犬がいそうな、本当に立派なソファだった。ベランダが見える大きな窓の前には、まるでジャングルのようにたくさんの植物群が鉢やらプランターやらに植うわって並んでいて、家中よく見ると花だらけだった。いたるところにある様々な花びんに季節の花々が飾られていた。「母親は今、店をちょっと抜けてくるそうだから、よかったら家の中でも見てて。案内しようか,どこで判断するタイプ,」お茶を淹れながら雄一が言った。「なにを,」私がその柔らかいソファに坐って言うと、「家と住人じゅうにんの好みを。トイレ見るとわかるとか、よく言うでしょ。」彼は淡々と笑いながら、落ち着いて話す人だった。「台所。」と私は言った。「じゃ、ここだ。なんでも見てよ。」彼は言った。私は、彼がお茶を淹れているうしろへまわり込んで台所をよく見た。板張りの床に敷かれた感じのいいマット、雄一のはいているスリッパの質のよさ――必要最小限のよく使い込まれた台所用品がきちんと並んでかかっている。シルバーストーンのフライパンと、ドイツ製皮むきはうちにもあった。横着おうちゃくな祖母が、楽してするする皮がむけると喜んだものだ。小さな蛍光灯に照らされて、しんと出番を待つ食器類、光るグラス。ちょっと見ると全くバラバラでも、妙に品のいいものばかりだった。特別に作るもののための…たとえばどんぶりとか、グラタン皿とか、巨大な皿とか、ふたつきのビールジョッキとかがあるのも、なんだかよかった。小さな冷蔵庫も雄一がいいと言うので、開けてみたら、きちんと整っていて、入れっぱなしのものがなかった。うんうんうなずきながら、見てまわった。いい台所だった。私は、この台所をひと目でとても愛した。ソファに戻ってすわると、熱いお茶が出た。ほとんど初めての家で、今まであまり会ったことのない人と向かい合っていたら、なんだかすごく天涯孤独な気持ちになった。雤に覆われた夜景がやみににじんでゆく大きなガラス、に映る自分と目が合う。世の中に、この私に近い血の者はいないし、どこへ行ってなにをするのも可能だなんてとても豪快だった。こんなに世界がぐんと広くて、闇はこんなにも暗くて、その果てしない面白さと淋しさに私は最初初めてこの手でこの目で触れたのだ。今まで、片目をつぶって世の中を見てたんだわ、と私は、思う。「どうして、私を呼んだんでしたっけ,」私はたずねた。「困ってると思って。」親切に目を細めて彼は言った。「おばあちゃんには本当にかわいがってもらったし、このとおりうちには無駄なスペースが結構あるから。あそこ、出なきゃいけないんでしょう,もう。」「ええ、今は大家の好意に立ちのきを引き伸ばしてもらってたの。」「だから、使ってもらおうと。」と彼は当然のことのように言った。彼のそういう態度が決してひどくあたたかくも冷たくもないことは、今の私をとてもあたためるように思えた。なぜだか、泣けるくらいに心にしみるものがあった。そうして、ドアがガチャガチャと開いて、ものすごい美人が息せききって走りこんできたのは、そのときだった。私はびっくりして目を見開いてしまった。かなり歳は上そうだったが、その人は本当に美しかった。日常にはちょっとありえない服装と濃い化粧で、私は彼女のおつとめが夜のものだとすぐに理解した。「桜井みかげさんだよ。」と雄一が私を紹介した。彼女ははあはあ息をつきながら少しかすれた声で、「初めまして。」と笑った。「雄一の母です。えり子と申します。」これが母,という響き以上に私は目が離せなかった。肩までのさらさらの髪、切れ長の瞳の深い輝き、形のよい唇、すっと高い鼻すじ――そして、その全体からかもしだされる生命力のゆれみたいな鮮やかな光――人間じゃないみたいだった。こんな人見たことない。私はぶしつけなまでにじろじろ見つめながら、「初めまして。」とほほえみ返すのがやっとだった。「明日からよろしくね。」と彼女は私にやさしく言うと雄一に向き直り「ごめんね、雄一。全然抜けらんないのよ。トイレ行くって言ってダッシュしてきたのよ。今。朝なら時間とれるから、みかげさんには泊まってもらってね。」とせかせか言い、赤いドレスをひるがえして玄関に走っていった。「じゃ、車で送ってやるよ。」と雄一が言い、「ごめんなさい、私のために。」と私は言った。「いやー、まさかこんなに店が込むなんて思ってなかったのよ。こちらこそごめんなさいね、じゃ、朝ね」高いヒールで彼女は駆けてゆき、雄一が、「TVでも観て待ってて」と言ってその後を追ってゆき、私はぽかんと残った。――よくよく見れば確かに年相忚のしわとか、少し悪い歯並びとか、ちゃんと人間らしい部分を感じた。それでも彼女は圧倒的だった。もう一回会いたいと思わせた。心の中に暖かい光が残像みたいにそっと輝いて、これが魅力っていうものなのだわ、と私は感じていた。初めて水っていうものがわかったヘレンみたいに、言葉が生きた姿で目の前に新鮮にはじけた。大げさなんじゃなくて、それほど驚いた出会いだったのだ。車のキーをガチャガチャ鳴らしながら雄一は戻ってきた。「十分しか抜けられないなら、電話入れればいいと思うんだよね。」とたたきで靴を脱ぎながら彼は言った。私はソファにすわったまま、「はあ。」と言った。「みかげさん、うちの母親にビビった,」彼は言った。「うん、だってあんまりきれいなんだもの。」私は正直に告げた。「だって。」雄一が笑いながら上がってきて、目の前の床に腰を下して言った。「整形してるんだもの。」「え。」私は平静を装って言った。「どうりで顔の作りが全然似てないと思ったわ。」「しかもさあ、わかった,」本当におかしくてたまらなそうに彼は続けた。「あの人、男なんだよ。」今度は、そうはいかなかった。私は目を見開いたまま無言で彼を見つめてしまった。まだまだ、冗談だって、という言葉をずっと待ってると思った。あの細い指、しぐさ、身のこなしが,あの美しい面影を思い出して私は息をのんで待ったが、彼は嬉しそうにしているだけだった。「だって。」私は口を開いた。「母親って、母親って言ってたじゃない」「だって、実際に君ならあれを父さんって呼べる,」彼は落ち着いてそう言った。それは、本当にそう思えた。すごく納得のいく答えだ。「えり子って、名前は,」「うそ。本当は雄司っていうみたい。」私は、本当に目の前が真っ白く見えるようだ。そして、話を聞く態勢にやっと入れたので、たずねた。「じゃ、あなたを産んだのは誰,」「昔は、あの人も男だったんだよ。」彼は言った。「すごく若い頃ね。それで結婚していたんだよね。その相手の女性がぼくの本当の母親なんだ。」「どんな…人だったのかしら。」見当がつかなくて私は言った。「ぼくも覚えてないんだ。小さい頃に死んじゃってね。写真あるけど、見る,」「うん。」私がうなずくと彼は自分のカバンをすわったままずるずるたぐり寄せて、札入れの中から古い写真を出して私に手渡した。なんともいえない顔の人だった。短い髪、小さな目鼻めはな。奇妙な印象の、歳がよくわからない女性の…私はだまったままでいると、「すごく変な人でしょう。」と彼が言い、私は困って笑った。「さっきのえり子さんはね、この写真の母の家に小さい頃、なにかの事情で引き取られて、ずっと一緒に育ったそうだ。男だった頃でも顔だちがよかったからかなりもてたらしいけど、なぜかこの変な顔の。」彼はほほえんで写真を見た。「お母さんにものすごく執着してねえ、恩を捨ててかけおちしたんだってさ。」私はうなずいていた。「この母が死んじゃった後、えり子さんは仕事をやめて、まだ小さなぼくを抱えて何をしようかと考えて、女になることに決めたんだって。もう、誰も好きになりそうにないからってさ。女になる前はすごい無口な人だったらしいよ。半端なことが嫌いだから、顔からなにからもうみんな手術しちゃってさ、残りの金でその筋の店をひとつ持ってさ、ぼくを育ててくれたんだ。女手ひとつでって言うの,これも。」彼は笑った。「す、すごい生涯ね。」私は言い、「まだ生きてるって。」と雄一が言った。信用できるのか、なにかまだひそんでいるのか、この人たちのことは聞けば聞くほどよくわからなくなった。しかし、私は台所を信じた。それに、似ていないこの親子には共通点があった。笑った顔が神仏みたいに輝くのだ。私は、そこがとてもいいと思っていたのだ。「明日の朝はぼくいないから、あるものはなんでも使っていいよ。」眠そうな雄一が毛布やらねまきやらを抱えて、シャワーの使い方や、タオルの位置を説明していった。身の上話すごいを聞いた後、あんまりちゃんと考えずに雄一とビデオを見ながら花屋の話とか、おばあちゃんの話とかをしているうちに、どんどん時間が過ぎてしまったのだ。いまや、夜中の一時だった。そのソファは心地よかった。一度かけると、もう二度と立ち上がれないくらいにやわらかくて深くて広かった。「あなたのお母さんさ。」さっき私は言った。「家具の所でこれにちょっとすわってみたら、どうしてもほしくなって買っちゃったんじゃない,」「大当たり。」彼は言った。「あの人って、思いつきだけで生きてるからね。それを実現する力があるのが、すごいなと思うんだけど。」「そうよね。」私は言った。「だから、そのソファは、当分君のものだよ。君のベッドだよ。」彼は言った。「使い道があって本当によかった。」「私。」私はかなりそっと言ってみた。「本当にここで眠っていいの,」「うん。」彼はきっぱり言った。「…かたじけない。」と私は言った。彼は、ひととおりの説明を終えるとおやすみと言って自分の部屋へ戻っていった。私は眠かった。人の家のシャワーを浴びながら、自分は何をしているのかなと久しぶりに疲れが消えてゆく熱い湯の中で考えた。彼いた寝巻きに着替えて、しんとした部屋に出て行った。ぺたぺたとはだしで台所をもう一回見に行く。やはり、よい台所だった。そして、今宵私の寝床となったそのソファにたどり着くと、電気を消した。窓辺で、かすかな明かりに浮かぶ植物たちが十階からの豪華な夜景にふちどられてそっと息づいていた。夜景――もう、雤は上がって湿気を含んだ透明な大気にきらきら輝いて、それは見事に映っていた。私は毛布にくるまって、今夜も台所のそばで眠ることがおかしくて笑った。しかし、孤独がなかった。私は待っていたのかもしれない。今までのことも、これからのことも、しばらくの間、忘れられる寝床だけを待ち望んでいたのかもしれない。となりに人がいては淋しさが増すからいけない。でも、台所があり、植物がいて、同じ屋根の下には人がいて、静かで…ベストだった。ここは、ベストだ。安心して私は眠った。眼が覚めたのは水音でだった。まずしい朝が来ていた。ぼんやり起き上がると、台所に“えり子さん”の後ろ姿があった。昨日に比べて地味な服装だったが、「おはよう。」と振り向いたその顔の派手さがいっそうひきたち、私はぱっと目が覚めた。「おはようございます。」と起き上がると、彼女は冷蔵庫を開けて困っている様子だった。私を見ると、「いつもあたし、まだ寝てるんだけどなんだかおなかがへってねえ…。でも、この家なにもないのよね。出前とるけど、なに食べたい,」と言った。私は立ち上がって、「なにか作りましょうか。」と言った。「本当に,」と言った後、彼女は「そんなに寝ぼけてて包丁持てる,」と不安そうに言った。「平気です。」部屋中がサンルームのように、光に満ちていた。甘やかな色の青空が果てしなく続いて見渡せて、まぶしかった。お気に入りの台所に立てた嬉しさで目が冴えてくると、ふいに、彼女が男だというのを思い出してしまった。私は思わず彼女を見た。嵐のようなデジャヴーが襲ってくる。光、降りそそぐ朝の光の中で、気の匂いがする、このほこりっぽい部屋の床にクッションを敷き、寝転んでTVを観ている彼女がすごく、なつかしかった。私の作った玉子がゆと、きゅうりのサラダを彼女は嬉しそうに食べてくれた。真昼、春らしい陽気で、外からはマンションの庭で騒ぐ子供たちの声が聞こえる。窓辺の草木は柔らかな陽射しに包まれて鮮やかなみどりに輝き、はるかに淡い空に臼井雲がゆっくりと流れてゆく。のんびりとした、あたたかい昼だった。昨日の朝までは想像もありえなかった、見知らぬ人との遅い朝食の場面を私はとても不思議に感じた。テーブルがないもので、床に直接いろんなものを置いて食べていた。コップが陽にすけて、冷たい日本茶のみどりが床にきれいに揺れた。「雄一がね。」ふいにえり子さんが私をまじまじと見て言った。「あなたのこと、昔飼ってたのんちゃんに似てるって前から言ってたけど、本当に――に似てるわ。」「のんちゃんと申しますと,」「ワンちゃん。」「はあー。」湾ちゃん。「その目の感じといい、毛の感じといい…。昨日初めてお見かけした時、ふきだしそうになっちゃったわ。本当にねえ。」「そうですか,」ないとは思うけど、セントバーナードとかだったらいやだな、と思った。「ノンちゃんが死んじゃった時、雄一はご飯ものどを通らなかったのよ。だから、あなたのことも人ごととは思えないのね。男女の愛かどうかは保証できないけど。」くすくすお母さんは笑った。「ありがたく思います。」私は言った。「あなたの、おばあちゃんにもかわいがってもらったんですってね。」「ええ。おばあちゃんは雄一くんをとても好きでした。」「あの子ね、かかりっきりで育ててないからいろいろ手落ちがあるのよ。」「手落ち,」私は笑った。「そう。」お母さんらしいほほえみで彼女は言った。「情緒もめちゃくちゃだし、人間関係にも妙にクールでね、いろいろとちゃんとしてないけど…やさしい子にしたくてね、そこだけは必死に育てたの。あの子は、やさしい子なのよ。」「ええ、分ります。」「あなたもやさしい子ね。」彼であるところの彼女は、にこにこしていた。よくTVで観るNYのゲイたちの、あの気弱な笑顔に似てはいた。しかし、そう言ってしまうには彼女は強すぎた。あまりにも深い魅力が輝いて、彼女をここまで運んでしまった。それは死んだ妻にも息子にも本人にさえ止めることができなかった。そんな気がする。彼女には、そういうことが持つ、しんとした淋しさがしみ込んでいた。彼女はきゅうりをぽりぽり食べながら言った。「よくね、こういうこと言って本当は違うこと考えてる人たくさんいるけど、本当に好きなだけここにいてね。あなたがいい子だって信じてるから、あたしは心から嬉しいのよ。行く所がないのは、傷ついてる時にはきついことよ。どうか、安心して利用してちょうだい。ね,」私の瞳を覗き込むようにそう念を押した。「…ちゃんと、部屋代入れます。」私はなんだか胸がつまって、必死で言った。「次住むところを見つけるまで、ここで眠らしてください。」「いいのよ、気なんか使わないで。それよりたまに、おかゆ作って。雄一のより、ずっとおいしい。」と、彼女は笑った。年寄りと二人で暮らすというのは、ひどく不安なことだ。元気であればあるほどそうだった。実際に祖母といたとき、そんなことは考えたこともなく楽しくやっていたけれど、今振り返るとそう思えてならなかった。私は、いつもいつでも「おばあちゃんが死ぬのが」こわかった。私が帰宅すると、TVのある和室から祖母が出てきて、おかえりと言う。遅い時はいつもケーキを買って帰った。外泊がいはくでもなんでも、言えば怒らない大らかな祖母だった。時にはコーヒーで、時には日本茶で、私たちはTVを観ながらケーキを食べて、寝る前のひと時を過ごした。小さい頃から変らない祖母の部屋で、たわいのない世間話とか、芸能界の話とか、その日一日のことをなんとなく話した。雄一のことも、この時間に語られたように思う。どんなに夢中な恋をしていても、どんなに多くお酒を飲んで楽しく酔っ払っていても私は心の中でいつも、たったひとりの家族を気にかけていた。部屋のすみに息づき、押してくるそのぞっとするような静けさ、子供と年寄りがどんなに陽気に暮らしていても、埋められない空間があることを、私は誰にも教えられなくてもずいぶん早くに感じ取った。雄一もそうだと思う。本当に暗く淋しいこの山道の中で、自分も輝くことだけがたったひとつ、やれることだと知ったのは、いくつの時だろうか。愛されて育ったのに、いつも淋しかった。――いつか必ず、誰もが時の闇の中へちりぢりになって消えていってしまう。そのことを体にしみ込ませた目をして歩いている。私に雄一が反忚したしたのは当然なのかもしれない。…というわけで、私は居候いそうろう生活に突入した。私は五月が来るまでだらだらすることを、自分に許した。そうしたら、極楽のように毎日が楽になった。アルバイトにはちゃんと行ったが、後はそうしをしたり、TVを観たり、ケーキを焼いたりして、主婦のような生活をしていた。少しずつ、心に光や風が入ってくることがとても、嬉しい。雄一は学校とバイト、えり子さんは夜仕事なので、この家に全員がそろうことはほとんどなかった。私は初めのうち、そのオープンさ生活場所に眠るのに慣れなかったり、少しずつ荷物を片付けようと、もとの部屋と田辺家を行ったり来たりするのに疲れたけれど、すぐなじんだ。その台所と同じくらいに、田辺家のソファを私は愛した。そこでは眠りが味わえた。草花の呼吸を聞いて、カーテンの向こうの夜景を感じながら、いつもすっと眠れた。いっつも、そうだ。私はいつもギリギリにならないと動けない。今回も本当にギリギリのところでこうしてあたたかいベッドが与えられたことを、私はいるかいないかわからない神に心から感謝していた。ある日、まだ残っている荷物整理のために私はもとの部屋へ帰った。ドアを開ける度、ぞっとした。住まなくなってからのことは、まるで別人の顔をするようになった。しんと暗く、なにも息づいていない。見慣れていたはずのすべてのものが、まるでそっぽを向いているではないですか。私は、ただいまと言うよりはおじゃましますと告げて抜き足で入りたくなる。祖母が死んで、この家の時間も死んだ。私はリアルにそう感じた。もう、私にはなにもできない。出ていっちゃうことの他にはなにひとつ――思わず、おじいさんの古時計を口ずさんでしまいながら、私は冷蔵庫をみがいていた。すると、電話が鳴った。そんな気がしながら受話器を取ると、宗太郎からであった。彼は昔の…恋人だった。祖母の病気が悪くなる頃、別れた。「もしもし,みかげか,」泣きたいほどなつかしい声が言った。「お久しぶりね」なのに元気よく私が言った。これはもう照れとか見栄みえを超えた、ひとつの病と思われる。「いや、学校に来てないから、どうしたのかと思って聞いてまわってさ、そうしたらおばあちゃん亡くなったっていうだろ。びっくりしてさ。…大変だったね。」「うん、それでちょっと忙しくて。」「今、出てこれるか,」「ええ。」約束をしながら、ふと見上げた窓の外はどんよりしたぐれーだった。風で、雲の波がものすごい勢いで押し流されてゆくのが見えた。この世には――きっと、悲しいことなんか、なんにもありはしない。なにひとつないに違いない。宗太郎は公園が大好きな人だった。緑のある所が、開けた景色が、野外が、とにかく好きで、大学でも彼は中庭やグラウンドわきのベンチによくいた。彼を探すなら、緑の中を、というのはすでに伝説だった。彼は将来、植物関係の仕事に就きたいそうだ。どうも私は、植物関係の男性に縁がある。平和だった頃の私と、平和な明るい彼は、絵に描いたような学生カップルだった。彼のそういう好みで、よく真冬でもなんでも二人は公園で待ち合わせたものだが、あんまり私の遅刻が多いので申し訳なくて、妥協点として見出された地点は公園の真横にある、だっだっ広い店だった。そして今日も、宗太郎はその広い店のいちばん公園よりの席にすわって外を見ていた。ガラス張りのその窓の外は、いちめんの曇り空に風でわさわさ揺れる木々が見えた。ゆきかうウエイトレスの間をぬって彼に近づいてゆくと、彼は気づいて笑った。向かいの席にすわって、「雤が降るかな。」私が言うと、「いや、晴れてくるんじゃない,」と宗太郎は言った。「なんで二人で久しぶりに会って、天気の話してるんだろうね。」その笑顔に安心した。本当に気のおけない相手との午後のお茶は、いいものだなあ、と思う。私は彼の寝ぞうがむちゃくちゃに悪いのを知っているし、コーヒーにミルクも砂糖もたくさん入れることや、くせ毛を直したくてドライヤーをかけるばかみたいにまじめな鏡の中の顔も知っている。そして、彼と本当に親しくしていた頃だったら、今頃私は冷蔵庫みがきでずいぶんはげた右手のマニキュアが気になっちゃって話にならないと思う。「君、今さ。」世間話の途中で、ふいに思い出したように宗太郎が言った。「田辺んとこにいるんだって,」私はたまげた。あんまりびっくりして、手に持っていた紅茶のカップを傾けて、お皿にじょろじょろこぼしてしまったくらいだ。「大学中の話題だよ。すごいなー、耳に入んなかったの,」困った顔をして笑いながら宗太郎は言った。「あなたが知っていることすら知らなかったわ。なんなの,」私は言った。「田辺の彼女が、前の彼女っていうの,その人がね、田辺のこと学食でひっぱたいたのさ。」「え,私のことで,」「そうらしいよ。だって君たち今、うまくいってるんでしょう。俺、そう聞いたけど。」「え,初耳ですが。」私は言った。「だって二人で住んでるんでしょう,」「お母さんも厳密には違うけど住んでるのよ。」「ええっうそだろーっ」宗太郎は大声で言った。彼のこの陽気な素直さを私は昔、本気で愛していたが、今はうるさいのですごく恥ずかしいだけだった。「田辺って。」彼は言った。「変ってるんだってね。」「よく、わかんない。」私は言った。「あまり会わないし。…話も特別しないし。私、犬のように拾われただけ。別に、好かれてるんでもないしね。それに、彼のことは何も知らないし。そんなもめごともマヌケなまでに全然、気づかなかったし。」「でも、君の好きとか愛とかも、俺にはよくわかんなかったからなあ。」宗太郎は言った。「とにかく、よかったと思うよ。いつまで引き取られてるの,」「わかんない。」「ちゃんと、考えなさいね。」彼は笑い、「はい、心がけます。」私は答えた。帰りは、ずっと公園を抜けていった。木々のすき間から、田辺家のマンションがよく見えた。「あそこに住んでるのよ。」私は指さした。「いいなあ。公園の真横じゃない。俺だったら朝五時に起きて散歩しちゃうな。」宗太郎は笑った。とても背が高いので、いつも見上げる形になった。この子だったらきっと――私は横顔を観ながら考えた。きっと、ばりばり私を引っ張り回して新しいアパートを決めさせたり、学校へ引っ張りだしたりしたんだろう。それ、その健全さがとても好きで、あこがれで、それにとってもついていけない自分をいやになりそうだったのだ。昔は。彼は大家族の長男で、彼が家からなんの気なしに持ってくるなにか明るいものが、私をとてもあたためたのだ。でも私はどうしても――今、私に必要なのはあの田辺家の妙な明るさ、安らぎ――で、そのことを彼に説明できるようには思えなかった。別に、する必要もなかったけど、彼と会うといつもそうだった。自分が自分であることがもの悲しくなるのだ。「じゃあね。」私の瞳を通して、胸の深いところにある熱い塊が彼に澄んだ質問をする。まだ今のうちに、私に心が残っているかい,「しっかり生きろよ。」彼は笑い、細めた瞳にはまっすぐ答えが宿っている。「はい、心がけます。」私は答え、手を振って別れた。そしてこの気持ちはこのまま、どこか果てしなく遠いところへと消えてゆくのだ。その夜、私がビデオを観ていたら、玄関のドアが開いて、大きい箱を抱えた雄一が外から帰って来た。「おかえり。」「ワープロ買ったんだ」と雄一が嬉しそうに言った。最近気づいたが、この家の人は買い物が病的に好きなのだ。それも、大きい買い物。主に電化製品ね。「よかったわね。」私は言った。「なにか、打ってほしいものある,」「そうねー。」歌詞でも打たせようかな、と私は思っていると、「そうだ。引越しハガキを作ってあげようではないか。」と雄一が言う。「なに、それ。」「だって、この大都会で住所ナシ、電話ナシで生きてゆくつもり,」「だって、また引っ越す時、また通知するかと思うと面倒で。」私が言うと、「ちえっ。」と彼がつまらなそうにしたので、「じゃ、お願いします。」と頼んだ。でもさっきの話が頭に浮かんで、「ね、でもまずくないの,迷惑なことないの,」とたずねると、「なにが,」と本当に不思議そうにきょとんとした。もしも私が恋人だったら、きっとひっぱたく。私は自分の立場を棚にあげて、瞬間、彼に対して反感を持ってしまった。それくらい、わかっていないようだった。彼という人は。「私はこの度、下記に引っ越しました。お手紙、お電話はこちらへお願いします。東京都××区××マンション号×××××××桜井みかげ」雄一がハガキにそう打ってくれたのを、どんどんコピーして案の定、この家にはコピー機もひそんでいたあて名書きをした。雄一も手伝ってくれた。彼は今夜はひまらしい。これも気づいたことだが、彼はひまがとても嫌いなのだ。透明にしんとした時間が、ペンの音と共に一滴一滴落ちてゆく。外は春の嵐のような、暖かい風がごうごう吹いていた。夜景も揺れるようだ。私はしみじみした気持ちで友人たちの名を綴った。宗太郎は思わずリストからはずしてしまった。風が、強い。木や電線の揺れる音が聞こえてくるようだ。目を閉じて、おりたたみの小さなテーブルにひじをついて、私は聞こえない街並みに思いをはせていた。どうしてこの部屋にこんなテーブルがあるのか、私には分らない。その思いつきだけで生きているという、テーブルを買った彼女は今夜も店に出ている。「寝るな。」雄一が言った。「寝てない。」私は言った。「引っ越しハガキ描くのは、本当はすごく好きなの。」「あっ、ぼくも。」雄一が言った。「転居とか、旅行先からのハガキとか、すごく好き。」「ねえ、でも。」思い切って再び私はチャレンジした。「なんか、このハガキが波紋を呼んで、学食で女の子にひっぱたかれたりしおうじゃない,」「さっきから、そのこと言ってたのか。」彼は苦笑した。その堂々とした笑顔が私をどきりとさせた。「だから、正直に言っていいよ。私、ここに置いてもらってるだけでいいんですから。」「そんなばかな。」彼は言う。「じゃ、これはハガキごっこかい,」「ハガキごっこってなに,」「わかんないけど。」私たちは笑った。それで、またなんだか話がそれていった。そのあまりの不自然さに、にぶい私もやっとわかった。彼の目をよく見たら、わかってきた。彼は、ものすごく悲しんでいるのだ。さっき、宗太郎は言っていた。田辺の彼女は一年間つきあっても田辺のことがさっぱりわかんなくていやになったんだって。田辺は女の子を万年筆とかと同じようにしか気に入ることができないのよって言ってる。私は雄一に恋していないので、よくわかる。彼にとっての万年筆と彼女にとってと、全然質や重みが違ったのだ。世の中には、万年筆を死ぬほど愛している人だっているかもしれない。そこが、とっても悲しい。恋さえしていなければ、わかることなのだ。「仕方なかったんだよ。」雄一は私の沈黙を気にしたらしく、顔も上げずに言った。「全然君のせいじゃない。」「…ありがとう。」なぜか私はお礼を言った。「どういたしまして。」と彼は笑った。私は今、彼に触れた、と思った。一カ月近く同じ所に住んでいて、初めて彼に触れた。ことによると、いつか好きになってしまうかもしれない。と私は思った。恋をすると、いつもダッシュで駆け抜けてゆくのが私のやり方だったが、曇ったそらからいま見える星のように、今みたいな会話の度に、少しずつ好きになるかもしれない。でも――私は手を動かしながら考えた。でも、ここを出なくては。私がここにいることで、彼らが別れたのは明白ではないか。自分がどのくらい強いのか、今すぐひとり暮らしに戻れるのか、見当もつかなかった。それにして、やはり、近々、本当に近々、引っ越しハガキを書きながら矛盾していると思うが…。出なくては。そのとき、ぎいっと音を立ててドアが開いて大きな紙袋を抱えたえり子さんが入ってきたのでびっくりした。「どうしたの,店は,」振り向いた雄一が言った。「今から行くの聞いてよ。ジューサー駆っちゃったあ。」紙袋から大きな箱を出してえり子さんが嬉しそうに言った。またか、と私は思った。「だから、置きにきたの。先に使ってもいいのよ。」「電話くれれば、取りに行ったのに。」雄一がハサミでひみを切りながら言った。「いいのよ、このくらい。」できぱきと開かれた包みからは、なんでもジューサーにしてしまいそうな、見事なジューサーが出てきた。「生ジュース飲んで、お肌をきれいにしようと思ってさ。」えり子さんは嬉しそうに、楽しそうに言った。「もう歳だから無駄だよ。」雄一が説明書を見ながら言った。目の前の二人があまりに淡々と普通の親子の会話をするので、私は目まいがした。「奥様は魔女」みたいだ。不健康きわまりない設定の中で、こんなに明るいんですもの。「あら、みかげは引っ越しハガキ書いてんの,」えり子さんが手元をのぞき込む。「ちょうどいいわ。引っ越し祝いあげる。」そして、くるくる紙に包まれたもうひとつの包みを差し出した。拡げてみると、バナナの絵が描いてあるきれいなグラスが出てきた。「それで、ジュースを飲んでね。」えり子さんが言った。「バナナジュースを飲むと、いいかもしれない。」雄一は真顔で言った。「わー、嬉しい。」私は、泣きそうになりながら言った。出て行くとき、これを持ってゆくし、出てからも何度も何度も来て、おかゆを作りますから。口には出せずに、そう思った。大切な大切なコップ。翌日は、もとの家を正式に引き払う日だった。やっと、すべてを片付けた。のろかった。よく晴れた午後で、風も雲もなく、金色の甘い陽射しがなにもない私の故郷であった部屋をすかしていた。のんびりした引っ越しのおわびのため、大家のおじさんを訪ねた。子供の頃よく入った管理人室で、おじさんの入れたほうじ茶を飲んで話をした。彼も歳をとったなあ。と私はしみじみ思う。これじゃあおばあちゃんも死ぬはずだわ。よく、祖母がこの小さい椅子にすわってお茶を飲んでいたときと同じように、今、私がこの椅子にすわってお茶を飲み、天気やこの街の治安の話をしているのは、異様だった。ぴんとこない。――ついこの間までのことすべてが、なぜかものすごい勢いでダッシュして私の前を走り過ぎてしまった。ぽかんと取り残された私はのろのろと対忚するのに精一杯だ。断じて認めたくないので言うが、ダッシュしたのは私ではない。絶対違う。だって私はそのすべてが心から悲しいもの。すべて片付いた私の部屋に差す光、そこには前、住み慣れた家の匂いがした。台所の窓。友人の笑顔、宗太郎の横顔越しに見える大学の庭の鮮やかな緑、夜遅くにかける電話の向こうの祖母の声、寒い朝のふとん、廊下に響く祖母のスリッパの音、カーテンの色…畳…柱時計。そのすべて。もう、そこにいられなくなったことのすべて。外へ出るともう夕方だった。淡いたそがれが降りてくる。風が出てきて、少し肌寒い。薄いコートのすそをはためかせて私はバスを待った。バス停の通りをはさんだ反対側にある高いビルの窓が並んで、きれいに青に浮かぶのを見ていた。その中で動いている人々も、上下するエレベーターも、みんなしんと輝いて薄闇に溶けてゆきそうだった。最後の荷物が私の両足のわきにある。私は今度こそ身ひとつになりそうな自分を思うと、泣くに泣けない妙にわくわくした気持ちになってしまった。バスがカーブを曲ってくる。目の前に流れてきてゆっくり止まり、人々は並んでぞろぞろ乗り込む。バスはとても混んでいた。暮れる空がはるかビルの向こうへ消えてゆくのを、つり革につかまった手にもたれかかるようにして見つめていた。まだ若い月が、そうっと空を渡ってゆこうとしているのが目に止まったとき、バスが発車した。がくん、と止まる度にムッとするのは自分がくたびれている証拠である。何度もムッとしながらもふと外を見ると、遠くの空に飛行船が浮かんでいた。風を押して、ゆっくりと移動してゆく。私は嬉しくなって、じっと見つめていた。小さなライトを点滅させて、飛行船は、淡い月影のように空をゆくのだった。と、私の前あたりにすわっている小さな女の子にすぐうしろの席のおばあさんが小声で話しかけた。「ほら、ゆきちゃん飛行船。見てごらんなさい。きれいだよ。」顔がそっくりなので孫らしい彼女は、道もバスも混んでいるのでむちゃくちゃに機嫌が悪いらしく、身を捩じらせて怒って言った。「知らない。あれ飛行船じゃないもん。」「そうだったかねえ。」おばあさんは全然動じずに、にこにこして答えた。「まだ着かないのー眠い。」ゆきちゃんはだだをこね続けた。ガキ。私もまた疲れていたため思わず汚い言葉で思ってしまった。後悔は先に立たねえんだ。おばあちゃんにそんな口をきくなよ。「よしよし、もうすぐだから。ほら見てごらん、うしろ。お母さん寝ちゃってるよ。ユキちゃん起こしてくるかい,」「あー、ほんとだ。」はるかうしろの席で眠る母親を振り向いて、やっとゆきちゃんが笑う。いいなあ。私は思った。おばあさんの言葉があまりにやさしげで、笑ったその子があんまり急にかわいく見えて、私はうらやましかった。私には二度とない…。私は二度と言う言葉の持つ語感のセンチさやこれからのことを限定する感じがあんまり好きじゃない。でも、そのとき思いついた「二度と」のものすごい重さや暗さは忘れ難い迫力があった。と、私は神かけて、そういうことを結構淡々と、ぼんやりと考えていた、つもりだった。バスに揺られながら、空のかなたに去ってゆく小さい飛行船を目でなんとなくまだおいかけながら。しかし、気づくとほおに涙が流れてぽろぽろと胸元に落ちているではないですか。たまげた。自分の機能がこわれたかと思った。ものすごく酔っ払っている時みたいに、自分に関係ないところで、あれよあれよと涙がこぼれてくるのだ。次に私は恥ずかしさで真っ赤になっていった。それは自分でもわかった。あわてて私はバスを降りた。行くバスの後姿を見送って、私は思わず薄暗い路地へ駆け込んだ。そして、自分の荷物にはさまれて、暗がりでかがんで、もうわんわん泣いた。こんなに泣いたのは生まれて初めてだった。とめどない熱い涙をこぼしながら、私は祖母が死んでからあんまりちゃんと泣いてなかったことを思い出した。なにが悲しいのでもなく、私はいろんなことにただ涙したかった気がした。ふと気がつくと、頭の上に見える明るい窓から白い蒸気が出ているのが闇に浮かんで見えた。耳をすますと、中からにぎやかな仕事の声と、なべの音や、食器の音が聞こえてきた。――厨房ちゅうぼうだ。私はどうしようもなく暗く、そして明るい気持ちになってしまって、頭を抱えて少し笑った。そして立ち上がり、スカートをはらい、今日は戻る予定でいた田辺家へと歩き出した。神様、どうか生きてゆきますように。眠くて。と雄一に告げて、私は田辺家に戻ってすぐ寝床に入ってしまった。えらく疲れた一日だった。しかし、泣いたことでずいぶん軽くなって、快い眠りが訪れた。うわ、本当にもう寝てる、と台所にお茶を飲みに来た雄一の声を、頭の片隅で聞いたような――気がした。私は夢を見た。今日、引き払ったあの部屋の台所の流しを私はみがいていた。なにがなつかしいって、床のきみどり色が…住んでいるときは大嫌いだったその色が離れてみたらものすごく愛しかった。引っ越しの準備を終えて、戸棚の中にもワゴンの上にも、もうなにもないという設定だった。実際、そういうものはとうの昔に始末してしまっていたのだが。気がつくと、うしろで雄一がぞうきんを手に床をふいてくれていた。そのことに、私はとても救われていた。「少し休んで、お茶にしましょう。」と私は言った。がらんとしているので声がよく響いた。広く、とても広く感じた。「うん。」と雄一が顔が上げた。人の家の、しかも引っ越す所の床を、そんなに汗かいてみがかなくても…と私は思った。とても彼らしい。「ここが、君んちの台所かー。」床に敷いた座布団にすわって、私の運んだお茶を――もう、湯のみはしまってしまったので、カップに入れたのを――飲みながら雄一が言った。「いい台所だったんだろうね。」「うん。そうなの。」私は言った。私の場合は、ごはん茶碗で茶道のように両手でお茶を飲んでいた。ガラスケースの中にいるような静けさだった。見上げた壁には、時計のあとだけがあった。「今、何時。」私が言うと、「夜中でしょ。」と雄一が言った。「なんで,」「外暗いし、静かだから。」「じゃあ、私は夜逃げね。」私は言った。「話の続きだけど。」雄一は言った。「うちももう出るつもりなんだろう,出るなよ。」ちっとも話の続きじゃないので、私はびっくりして雄一を見た。「ぼくだって、えり子さんみたいに思いつきで生きてるって君は思ってるらしいけど、君をうちに呼ぶのは、ちゃんと考えて決めたことだから。おばあちゃんはいつも、君の心配をしてたし、君の気持ちがいちばんわかるのは多分、ぼくだろう。でも、君はちゃんと元気に、本当の元気をとり戻せばたとえばぼくらが止めたって、出ていける人だって知ってる。けど君、今は無理だろう。無理って言うことを伝えてやる身寄りがいないから、ぼくがかわりに見てたんだ。うちの母親がかせぐ無駄金はこういう時のためにあるんだ。ジューサーを買うためだけじゃない。」彼は、笑った。「利用してくれよ。あせるな。」まるで殺人犯に自首を説得するような誠意を持って、私をまっすぐに見て、彼は淡々とひと言ひと言語った。私は、うなずいた。「…よし、床みがきを再開しよう。」と彼は言った。私も洗いものを持って立ち上がった。カップを洗っていると、水音にまぎれて雄一が口ずさむ歌が聴こえた。月明かりの影、こわさぬように岬のはずれにボートをとめた「あっそれ知ってる。なんだっけ,結構好き。誰の歌だっけ,」私は言った。「えーと、菊池桃子。すごい耳につくんだよね。」雄一が笑った。「そうそう」私は流しをみがきながら、雄一は床をみがきながら、声を合わせて歌を続けた。真夜中、しんとした台所に声がよく響いて楽しかった。「ここが、特に好き。」と私は二番のアタマのところを歌った。とおくの――とうだい――まわるひかりが――ふたりのよるには――こもれびみたい――はしゃいで大声でくりかえして二人歌った。遠くの燈台、まわる光が二人の夜には、木もれ日みたい…ふと、私の口がすべって言った。「おっと、あんまり大声で歌うと、となりで寝ているおばあちゃんが起きちゃう。」言ってから、しまったと思った。雄一はもっとそう思ったらしく、後姿で床をみがく手が完全に止まった。そして、振り向いてちょっと困った目をした。私はとほうにくれて、笑ってごまかした。えり子さんがやさしく育てたその息子は、こういう時、とっさに王子になる。彼は言った。「ここが片付いたら、家に帰る途中、公園で屋台のラーメン食べような。」眼が覚めてしまった。真夜中の田辺家のソファで…早寝なんて、やりつけないことをするものではない。変な夢。…と思いながら、台所へ水を飲みに行った。なんだか心が冷え冷えとしていた。お母さんはまだ帰っていない。二時だ。まだ夢の感触が生々しい。ステンレスにはねる水音を聞きながら、私は流しをみがいちゃおうかしら、とぼんやり思っていた。天を、星が動いてゆく音が耳の奥に聞こえてきそうなくらいに、しんとしている孤独な夜中だ。かすかすの心に、コップ一杯の水がしみてゆく。少し寒く、スリッパをはいた素足がふるえた。「こんばんは」と言って突然、雄一がうしろに来たので驚いた。「な、なに。」と私は振り向いた。「眼が覚めちゃって、腹へって、ラーメンでも作ろうかなあ…と思って…。」夢の中とはうって変って、現実の雄一は寝ぼけたブスな顔でぐしゃぐしゃそう言った。私は泣きはらしたブスな顔で、「作ってあげるから、すわってな。私のソファに。」と言った。「おお、君のソファに。」そう言ってふらふらと彼はソファに腰かけた。闇に浮かぶこの小さな部屋の、ライトの下で冷蔵庫を開ける。野菜をきざむ。私の好きな、この台所で――ふと、ラーメンとは妙な偶然だわ、と思った私はふざけて雄一に背を向けたまま。「夢の中でもラーメンって言ってたね。」と言った。すると、反忚が全くない。寝てんのかなと思った私が振り向くと、雄一はすごくびっくりした目できょとんと私を見つめていた。「ま、まさか。」私は言った。雄一はつぶやくように、「君の、前の家の台所の床って、きみどり色だったかい,」と言った。「あっ、これはなぞなぞじゃないよ。」私はおかしくて、そして納得して、「さっきは、みがいてくれてありがとうね。」と言った。いつも女の方が、こういうことを受け入れるのが早いからだろう。「眼が覚めた。」と彼は言ったが、遅れをとったのがくやしいらしくて「カップでないものにお茶淹れてほしいもんだ。」と笑った。「自分で淹れなさーい。」と言うと、「あっとうだ。ジューサーでジュースを作ろう君も飲むかい,」と言った。「うん。」雄一は冷蔵庫からグレープフルーツを出して、楽しそうにジューサーを箱から出した。私は夜中の台所、凄い音で作られる二人分のジュースの音を聞きながらラーメンをゆでていた。ものすごいことのようにも思えるし、なんてことないことのようにも思えた。奇蹟のようにも思えるし、あたりまえにも思えた。なんにせよ、言葉にしようとすると消えてしまう淡い感動を私は胸にしまう。先は長い。くりかえしくりかえしやってくる夜や朝の中では、いつかまたこのひと時も、夢になってゆくかもしれないのだから。「女になるのも大変よね。」ある夕方、唐突にえり子さんが言った。読んでいた雑誌から顔を上げて、私は、は,と言った。美しいお母さんは出勤前のひと時、窓辺の植物に水をやっていた。「みかげは、みごとにありそうだから、ふと言いたくなったのよ。あたしだって、雄一を抱えて育ててるうちに、そのことが分ってきたのよ。つらいこともたくさん、たくさんあったわ。本当にひとり立ちしたい人は、何かを育てるといいのよね。子供とかさ、鉢植えとかね。そうすると、自分の限界がわかるのよ。そこからがはじまりなのよ。」歌うような調子で、彼女は彼女の人生哲学を語った。「いろいろ、苦労があるのね。」感動して私が言うと、「まあね、でも人生は本当にいっぱん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの。あたしは、よかったわ。」と彼女は言った。肩にかかる髪がさらさら揺れた。いやなことはくさるほどあり、道は目をそむけたいくらい険しい…と思う日のなんと多いことでしょう。愛すら、すべてを救ってはくれない。それでも黄昏の西日に通tマレテ、この人は細い手で草木に水をやっている。透明な水の流れに、虹の輪ができそうな輝く甘い光の中で。「わかる気がするわ。」私は言った。「みかげの素直な心が、とても好きよ。きっと、あなたを育てたおばあちゃんもすてきな人だったのね。」とヒズマザーは言った。「自慢の祖母でした。」私は笑い、「いいわねえ。」と彼女が背中で笑った。ここにだって、いつまでもいられない――雑誌に目を戻して私は思う。ちょっとくらっとするくらいつらいけれど、それは確かなことだ。いつか別々のところでここをなつかしく思うのだろうか。それともいつかまた同じ台所に立つこともあるのだろうか。でも今、この実力派のお母さんと、あのやさしい目をした男の子と、私は同じ所にいる。それがすべてだ。もっともっと大きくなり、いろんなことがあって、何度も底まで沈み込む。何度も苦しみ何度でもカムバックする。負けはしない。力は抜かない。夢のキッチン。私はいくつもいくつもそれをもつだろう。心の中で、或いは実際に。あるいは旅先で。ひとりで、大ぜいで、二人きりで、私の生きるすべての場所で、きっとたくさん持つだろう

用户评价(0)

关闭

新课改视野下建构高中语文教学实验成果报告(32KB)

抱歉,积分不足下载失败,请稍后再试!

提示

试读已结束,如需要继续阅读或者下载,敬请购买!

评分:

/38

VIP

在线
客服

免费
邮箱

爱问共享资料服务号

扫描关注领取更多福利