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端午节日语端午节日语 端午節に言えば、中国でもっとも有名で、伝統な祝日の一つです。その由来について、いくつかの説がありますが、普遍に受けられているのは、屈原の説です。 屈原は中国歴史上でも第一の詩人とも言われ、当時楚と他国が団結して、秦に抵抗しようではないかとも唱えていた人物でした。しかし楚の王は彼の忠言を聞かないで、ついには楚から追放してしまったんです。そして見放されたような爱国心旺盛な屈原は、ついには泪罗江に身を投じてしまいました。このことを聞いた楚の人々は、河に駆け集まり舟を出して屈原の身を探しました。その時、敬愛...

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端午节日语 端午節に言えば、中国でもっとも有名で、伝統な祝日の一つです。その由来について、いくつかの説がありますが、普遍に受けられているのは、屈原の説です。 屈原は中国歴史上でも第一の詩人とも言われ、当時楚と他国が団結して、秦に抵抗しようではないかとも唱えていた人物でした。しかし楚の王は彼の忠言を聞かないで、ついには楚から追放してしまったんです。そして見放されたような爱国心旺盛な屈原は、ついには泪罗江に身を投じてしまいました。このことを聞いた楚の人々は、河に駆け集まり舟を出して屈原の身を探しました。その時、敬愛する屈原の体が魚や蟹に食べられないように粽を河に投げ入れもしました。屈原が河に身を投じたこの日が、旧暦の5月5日だったのです。 それで、毎年の陰暦五月五日は、中国の端午節です。これを祝うために、人はドラゴンボートのレースをし、粽を食べ、雄黄酒を飲んで、屈原を記念します。ほかにも、家の前におとこよもぎをさし、子供に五色の糸を結ぶなどの習慣があります。 伝説では、屈原の死後、楚国の人は非常に悲しんで、みんな江のゆとりにきて屈原を送りにきました。漁夫たちは 1 船に乗って、江のあちごち探して、屈原の遺体 を見つけようとしていました。ある漁夫は、屈原に持ってきたおにぎりや卵を江に投げ込みました、魚などに、これらを食べて、もう屈原の体を食べないよう に。みんなはこれを見て、同じことをしました。あるお医者さんは、雄黄酒を一缶江に流し込みました、ドラゴンを酔わせ、もう屈原に害を与えないためだとい いました。その後、おにぎりがドラゴンに食べられないように、ある木の葉でご飯を包み、外で彩色の糸で結び、粽になりました。今は、木の葉ではなくて、葦 の葉で包んでいます。 篇二:日语论文:比较端午节的不同 要旨: 旧暦の五月五日は中国民間の伝統の祝日----端午の節句であり、それは中華民族の伝統的な祝日である。今でも、端午の節句は非常に盛大で厳かな祝日の,つである。太陽暦の五月五日は日本でも端午の節句であり、日本の伝統的な祝日のひとつである。 両国の端午の節句は起源は同じだが展開が異なり、変化発展する中でそれぞれの伝統文化を体現していったので;両国の祝日の活動に相違が生じた。 キーワード:端午の節句 起源、 記念活動の形式 はじめに:旧暦の五月五日は端午の節句であり、それは中華民族の古い伝統の祝日である。端午の節句は端五とも 2 端陽とも呼ばれる。それ以外にも、端午の節句にはたくさんの別称がある。例えば:午日節、重五節、五月節、浴蘭節、娘の節、天中節、地蝋、詩人の節、竜の日など、名称は異なっているが、各地の人民は祝日を祝う習わしにはやはり相異が多い。中国人民に長く続けられてきた伝統の祝日なので、今では国家の法定の祝日と休日になっている。日本の伝統の祝日の中でも [端午]という祝日がある。ただ時期がちがい、太陽暦5月5日である。その上、呼び方も異なって、 「子供の日」といい、日本の「五節句」の一つである。 二.本論 1、端午の節句の由来 1.1中国の端午の節句の由来 中国の端午の節句の由来に関して、非常に多くの言い伝えがある。たとえば:屈原を記念した言伝え、伍子胥を記念したという言い伝え、 曹娥を記念したと言伝え、三代夏至節に起源し、悪月悪日を避け、呉越民族のトーテムを祭り、女娲を記念するなどがある。以上は、その起源をそれぞれ説明している。学者の聞一多先生は『端午考』と『端午の歴史教育』で百数条の古典籍の記録を列挙し専門家の考古の考証を書き、端午の起源は中国の古代南方の呉越の民族がトーテムの弔いをする祝日を行ったもので、屈原よ 3 り更に古いとする。しかし千百年来、屈原の愛国精神と人を感動させる詩は、すでに深く人の心に染込み、故人を惜しんで悲しみ、何世代もその意味を議論し、伝えるようになった。そのため、屈原を記念するためというのが、最も広くて深い影響を及ぼした。 民俗文化の領域では、中国の民衆は端午の節句に竜船で競漕して、ちまきなどを食べることなどは、すべて屈原を記念することと関連がある。 1.2日本の端午の節句の由来 端午の節句の起原は、古代中国に遡る。古くから中国では、物忌みの月(5月)には厄払いの行事が盛んに行われていた。端午の「端」は文字通 り「はじめ/最初」の意味で、「午」は「うま」である。つまり端午とは、五月の最初の午の日に行われると言う意味である。最初は必ずしも五月五日ではなかったようである。午と五のゴロが同じであるから、その後、この行事は、やがて重五の日、つまり5月5日が大切な厄払いの日として定着する。日本でも奈良?平安時代には五節句(人日?上巳?端午?七夕?重陽)が取り入れられ、当時五節句は貴族の間では、それぞれ季節の節目の身のけがれを祓う大切な行事として、よもぎ?菖蒲などの薬草を摘みに野に出たり、その薬草を臣下に配ったり、悪鬼を退治する為に午から弓矢を射たりしたそうであ 4 る(流鏑馬の原型)。その中の一つ「端午の節句」が後に「子供の日」となった。 2、端午の節句の祝賀活動 2.1中国の端午の節句の祝賀活動 2.1.1竜船を競う 「端午の節句」は中国の名称ではある程度異なっているが、そのことは各地の人民の祝日を祝う習わし にもやはり相異があると全体的に言うことが出来る。 端午の節句には、中国人の二千数年来の伝統的習慣や、地域が広大なためや、民族が多いため、たくさんの伝説を加えられた。そのため民間に様々の異なる節句名を生んだだけではなく、それに应じ各地でもそれぞれそれに関連した習わしを生んでいる。その 内容 财务内部控制制度的内容财务内部控制制度的内容人员招聘与配置的内容项目成本控制的内容消防安全演练内容 は主に:娘は実家に帰り、鍾馗の写真を壁に掛かけて、鬼船を迎えて、正午を避け、書き付けの正午の葉符、ショウブ、よもきを掲げて、香の袋を身につけ、いけにえに甘酒を用意し、竜船を競い、武芸の試合をし、ボールを打ち、ぶらんこをこぎ、子供に鶏冠石を塗ったり、雄黄を入れた酒を飲む、ショウブの酒を飲む、5つの毒の餅、塩漬け卵、ちまきと季節の新鮮な果物などを食べるなど、色色な活動を盲信して多くは次等に消滅していったが、今なお中国各地に広く伝わって海外諸国にも残っているものもある。一部の活動、例えば竜船レ 5 ースは新しい発展をとげて、時間、地域の境界線を突破して、国際的なスポーツのレースが行われるようになった。 2.1.2端午は粽を食べる 端午の節句に粽を食べることは中国人民の伝統的習慣である。粽はまた「角のキビ」とか、「筒の粽」とかを昔から叫ばれ、種類は非常に多い。 記載によると、春秋の時期に、マコモの葉(マコモダケの葉)を使ってキビの粒をウシの角の形に包みこみ、これを「角のキビ」と言っている。,メートル位の竹筒に密封してあぶって火を通す。これを「筒の粽」と言っている。後漢の晩期、草木灰の水でキビの粒を液体に浸し、水の中で塩基をくわえ、マコモの葉を使ってキビの粒を四角形に包み、煮ると広東の塩基の水のちまきになる。 晋代になると、粽は正式に端午の節句の食品になる。その頃、もち米以外のちまきを包んで、また漢方薬の益智の仁を添加して、煮て火を通すちまきを「益智のちまき」と言っている。 時人の周処は『岳陽の風土記 』に次のように記載している。「俗にマコモの葉でキビを巻いて、……煮て、5月5日から夏至に食べる。」また、南北朝の時期、様々な粽が現れる。米に禽獣の肉、クリ、赤いナツメ、?ズキなどを混ぜて、食材が増える。粽はまた友人への贈り物として用られるようになる。 6 唐代に至り発展した、粽は米を使って、「白瑩の玉」と称され、その形は円錐形、菱形が現れる。日本の文献では「大唐の粽」と記載されている。宋の時代、「砂糖漬けの粽」がすでにあって、つまり粽は菓子類に入れられる。詩人の蘇東坡は「时于粽里见杨梅」の詩句がある。宋代には粽を食べることがすでにフ?ッション化したと説明する。元、明時期、粽の包みはすでにマコモの葉から小さな竹の葉になったと推測され、後にまた?シの葉を使って包む粽が現れて、原料をふんだんに使っていてすでに?ズキあん、ブタ肉、マツノミ、ナツメ、クルミなどが使われたことに加えて、食材は更に多彩になった。今日に至るまで、中国人民が端午の節句にこれらの粽を食べる習慣は一貫して維持されている。 2.2日本の端午の節句の祝賀活動 2.2.1伝説 日本の端午の節句に関して次のような伝説がある。昔、平舒王と叫ぶ君主がいて、一人の不忠実な臣を誅殺した、この奸臣が死んた後、一匹の毒ヘビに変わって、絶えず人を害した。一人の知謀にたけた大臣がいて、頭に赤色のスネークヘッドをつけて、ショウブの酒を手にしての激戦の末、これをまいて、最後に毒ヘビを制圧した。それから、端午の節句に、ショウブを挿し、艾葉をいぶし、ショウブ 7 の酒を飲む風習が広く伝わり始め、伝統になって、日本人は“ヨモギの旗は百福を招き、ショウブの葉を千切るのはよくないという”。 2.2.2端午は粽を食べます 「端午の日には粽や柏餅を食べる風習もある。粽を食べるのは、中国戦国時代の楚の愛国詩人屈原の命日である5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた汨羅江に粽を投げ入れて供養したこと、また、屈原の亡骸を魚が食らわないよう魚の餌としたものがちまきの由来とされる。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。また、中国語圏では現在も屈原を助ける為に船を出した故事にちなみ、龍船節として手漕舟(龍船あるいはドラゴンボート)の競漕が行われる。 なお、男の赤ん坊をもつ家庭にとっては「初節句」となるため、親族総出で祝われることも多い。5月5日が祝日であり、さらに前後に祝日を伴うゴールデンウ?ーク期間中にあるため、雛祭り以上に親族総出で祝われる。 ,、 中日両国の端午節の関係 3.1時間の関係 日本の端午の節句は平安時代以後中国のから入って来たのである。端午の節句はもともと中国では陰暦の五月初 8 五で、日本で独自の発展と変化を通じて太陽暦の5月,日に落着いた。したがって、日本の端午の節句と中国の端午の節句は時期の設定の上で一定の類似性と関連性がある。 3.2祝賀活動の関係 中国では、端午の節句に、屈原を記念するためにちまきを食べて竜船を競い、同時に、この日にヨモギを魔よけとして挿す風習がある。日本ては、端午の節句は主に魔よけのためにちまきとコノテガシワのかしわ餅を食べるのである。しかもショウブに挿して魔よけとする(ショウブの葉の形が剣に似ている、これを用いて魔よけとする)。日本はまさに万物の生長するこの時期は同時に万病の発生するかもしれない季節である。よって、端午の節句によって万病を避けるのである。ショウブはまた「尚武」と「勝負」の意味もあり、武士道精神と関係つけられている。ショウブ(转 载 于:wWw.zAIdian.cOM 在 点 网:端午节日语)は漢方薬で、また悪魔を取り除くことができるを信じられていた。両国が祝賀の方式の上である程度の連関を見出すことができる。この日にちまきを食べることはすべて魔よけと祝福の意味がある。 4、中日両国の端午節の違い 4.1時間の上の違い 端午の節句中国では旧暦の5月初五である、日本では後 9 に太陽暦の5月5日の「子供の日」になった。相違の原因は端午の節句が日本に入った後のその自身の発展と変化の結果である。 4.2祝賀活動の違い 中国の祝賀活動の中で、竜船を競うのはおそらく最も代 关于同志近三年现实表现材料材料类招标技术评分表图表与交易pdf视力表打印pdf用图表说话 pdf 的行事で、広範な民間活動であり、最も刺激に富み、壮観な活動である。中華民族の団結と協力を徹底することにも注意する必要がある。日本の祝日では竜船の活動をともなっていないが、その代わりに武士の??ドル、甲冑を飾り、子供の健康な成長を期待祝福する。このように、日本の武士道精神を代代伝えている。それぞれの祝賀活動は両国の文化の相異性を表している。 4.3意義の違い 中国の端午の節句は主に中国の2千年余りの長い歴史に記憶されている中国の愛国詩人、中華民族の民族的英雄と伝統文化の美徳に対する尊重と継承を体現したものである。日本の場合、この祝日が中国から入って来て、発展と変化を経て、意義に変化が生じた。今は主に子供の祝福と期待を表現している。更に、日本の伝統の武士道の文化に対する継承と尊重もある。魔よけのため、ショウブを軒の下で挿し、あるいはショウブで入浴して健康で幸せな生活することに対するあこがれとその追求を表現している。 10 三(おわりに 本論の目的は両国の端午の節句の由来、両国の祝賀活動の違いと関連を研究することにあって、端午の節句が両国の文化に占める意義と役割を理解することにある。祝日が体現している民族文化の相違の分析を通じ、更に両国の文化の関連と相違を探究したものである。 中国では、端午の節句の意義は主にその意義を記念するところにある。一説には端午の節句に竜の祝日である。今一つは愛国主義詩人の屈原が逝去したことを記念するものと言われる。または春秋の時代の晋国の忠臣を記念するのと言われ、山西一帯がに流行している。第四は春秋の時代の将軍の軍隊の子胥を記念するためだと言われ、呉楚の両地の風習に属する。第五は孝行娘の曹娥を記念する催しと言われ、浙江の会嵇の風習に属する。第六は端午の節句の起源が,月,日が不吉な月、不吉な日なので俗事をすべてやめると言う。以上の言い伝え方はすべて道理があるが、しかしすべて地域的制限がある。ただ第 1、第2の例は全国的に影響が見られ、そして人々にあまねく受け入れられている。しかし起源か竜の崇拝なのにも関らず、またある種の道徳的な内容を提唱しているところに ,すべてその積極的な意義がある。屈原の国家?人民のために心を砕くこと、喜捨の精神に基づき、伍子胥の忠 11 実なことと率直さ称賛すること、曹娥の孝義を記念することなどそれぞれ中華民族の伝統の美徳を体得している。竜船を競って、ちまきを食べる。これらの祝日はすべて中華の伝統的美徳を体現し発揚している。 日本の端午の節句はまた[子供の日]とも称されているが、本来男の子の祝日である。この日家に男の子いれば、鯉のぼりを立てて、ちまきとコノテガシワの葉の餅を食べて祝賀します。この日の意義は鯉は力はあるが、いざとなれば、命を惜しまない魚を考えられ、鯉のように子供の健康な成長と出世を望むもので、中国の息子の出世を願う”のと共通する。ショウブを挿し、艾葉をいぶし、ショウブの酒を飲む風習が、広く伝わり、伝統となって、日本人は“ヨモギの旗は百福を招き、ショウブの葉が千切るのは日常よくないことというようになった。 よって日本の端午の節句は子供に対する多く期待を託し祝福するものである。 参考文献: 1.《中日韩对照现代日本事情》大连理工大学出版社 2005年8月 2.《新编日语泛读》外语教学与研究出版社 2006年1月 3.《现代日本人风俗习惯》 马凤鸣著 大连理工大学出版社 2001年3月 12 4.《日本风俗习惯》 马兰英著 大连理工大学出版社 2006年8月 5.《日本文化概论》 南开大学出版社 2003年12月 6.《日语阅读》冉毅著 湖南师范大学出版社 2005年1月 7.《中国八大传统节日》傅德民著 重庆出版社 2005年9月 8.《岁时佳节古今谈》 季鸿崑 著 山东画报出版社2007年5月 9.「明解古語辞典」 金田一京助 10.「 都道府県別冠婚葬祭大事典」 主婦と生活社 平成,年,月 11.「大辞林」 篇三:鲁迅《端午节》日文版 日语文学作品赏析《端午節》 ほうげんしゃく方玄綽は近頃「大差ない」とい う言葉を愛用しほとんど口癖のようになった。それは口先ばかりでなく彼の頭の中にしかと根城を据えているのだ。彼は初め「いずれも同じ」という言葉をつ かっていたが、後でこれはぴったり来ないと感じたらしく、そこで「大差ない」という言葉に改め、ずっとつかい続けて今こんにち日に及んでいる。 13 彼はこの平凡な警句を発見してから少からざる新しき感慨を引起したが、同時にまた幾多の新しき慰安を得た。たとえば目上の者が目下の者を抑えつけているのを見ると、以前は癪に障ってたまらなかったが、今はすっかり気を更えて、いずれこの少年が子供を持つと、大概こんな大見栄を切るのだろうと、そう思うと何の不平も起らなくなった。また兵隊が車夫を擲ると以前はむっとしたが、もしこの車夫が兵隊になり、兵隊が車夫になったら大概こんなもんだろうと、そう思うともう何の気掛りもなかった。 そういう風に考えた時、時にまた疑いが起る。自分はこの悪社会と奮闘する勇気がないから、ことさら心にもなくこういう逃げ路を作っているのじゃないか。はなはだ「是非の心無き」に近く、好きに改めるに如かざるに遠しというわけで、この意見が結局彼の頭の中に生長して来た。 彼がこの「大差無し」説を最初公表したのは、北京の首かみえなぐよペキンしゅぜんがくこう善学校の講堂であった。何でも歴史上の事柄に関して説いていたのであったが、「古今の人相遠からず」ということから、各色人種の等しき事、「性相近し」に説き及ぼし、遂に学生と官僚の上に及んで大議論を誘発した。 「現在社会で最も広く行われる流行は官僚を罵倒することで、この運動は学生が最もはなはだ甚しい。だが官僚は 14 天のなせる特別の種族ではない。とりもなおさず平民の変化したもので、現に学生出身の官僚も少からず、老官僚と何の撰ぶところがあろう。『地を か易えれば皆然り』思想も言論も挙動も風采も元より大した区別のあるものではなく、すなわち学生団体のあらた新に起した許多の事業は、すでに弊害を免れ難く、その大半はきょた 線香花火のように消滅したではないか。全く大差無しである。ただし中国将来の考慮すべき事はすなわちここにあるので……」 講堂の中には二十名余りの学生が散在していた。ある者はいかにもそうだ、というような顔付した。この話を好いと思ったのだろう。ある者は憤然とした。青 年の神聖を侮辱すると思ったのだろう。他の幾人は微笑を含んで彼を見た。おおかた彼自身の弁解とこれを見たのだろう。方玄綽は官僚を兼ねていたからであ る。 しかしこの推定は皆誤りであった。実際これは彼の新不平に過ぎないので、不平を説いてはいるが、彼の分にやすん安ずる一種の空論にしかあり得ない。彼は自分では気がつかないが、怠け者のせいか、それともまた役に立たないせいか、とにかく運動を ないで、分に安じがえん肯じおのれ己を守る人らしく見 15 えた。大臣は彼に神経病があるのを罪無きものに思い、彼の地位に動揺を来さないから、彼は一言も言い出さないのだ。教員の月給が半年ほど渡らないが、一方には官俸を取って支持しているから、彼は一言も言い出さないのだ。教員が聯ごんれんごう合し て月給の支払を要求した時、彼は内心大人げないことだ、騒々しいことだと思ったが、官僚が度を越えて教員を疎外したという話を聴き及んでいささか感ずると ころあり、その後一転して自分もちょうど金に困り、そうしてほかの官僚は教員を兼任していないという事実を確めたので初めてなるほどと感づいたのである。 彼は金に差支えたが教員の団体には加入しなかった。しかし衆が罷みなひぎょう業すれば講堂には出ない。政府は「授業をすればお金をやる」と声明したが、この言葉は彼にとっては非常に恨めしかった。まるで果実を見せびらかして猿を使うようなものである。それにある大教育家の説得がはなはだ気に食わなかった。 「片手に書物を抱えて片手に銭を要求するのははなはだ高尚でない」 と、彼はこの時、初めて彼の夫人に対して不平を洩した。 「おい、たった二皿だけか, どういうわけなんだえ、これは」 高尚でないという説を聞いたその日の晩、彼はお惣菜を 16 眺めてそう言った。 新教育を受けたことのない奥さんには学名もなければ雅号もなかった。だから別に何と言いようもなかった。旧例に拠れば「夫人」と呼んでいいのだけれど、 彼は古臭いのが嫌いで、「おい」という一語を発明した。夫人は彼に対して「おい」という一語すらも所持せず、ただ面と向って話すだけである。それでも習慣 法に拠って、その言葉が彼に対して発せられるということが解るのである。 「だけど、先月の分は一割五部しかないのですもの、みんな遣い切ってしまいました。きのうのお米はそれやもう、ようやくのことで借りて来たんですよ」 彼女は卓の側に立って彼と顔を合せた。 「そら見ろ、本を教えて月給取るのが卑しいか。これは皆連絡のあることで、人は飯を食わなければならん、飯は米で作らなければならん、米は銭で買わなければならん。こんな些細のことを知らないのか……」 「全くそうよ、お金なしではお米が買えません、お米なしでは御飯が焚けません……」 彼女の両方の頬ぺたがふかふか動き出した。この怒ったような答案は、ちょうど彼の「大差無し」にほとんどぴったり符号するものである。続いて彼女は頭をくるりと向うへむけて歩き出した。習慣法に拠れば、これは討論中止の宣告を表示したものであ 17 る。 そばせいふうれいう凄風冷雨のこの一日が来 てから、教員等は政府に未払月給を請求したので、新華門前の泥々の中で軍隊に打たれ、頭を破り、血だらけになった後で、たしかに何程かの月給が渡った。方 玄綽は手を一つ動かさずにお金を受取った。古い借金を少し片づけ たがまだなかなか大ものが残っていた。それは官俸の方がすこぶる停滞していたからで、こう なるといくら清廉潔白の官吏でも、月給を催促しないではいられない。ましてや教員を兼ねた方玄綽は、自然教育会に同情を表することになった。だから衆が罷業の継続を主張すると、彼はまだ一度もその場に臨んだことはないが、しんから悦服して公共の決議を守った。 それはそうと政府は遂に金を払った。学校もまた開校した。ところがその二三日前に、 學生聯盟は政府に一文を上程し、「教員が授業しなかったら未払月給を渡す必要はない」と言った。これは少しも効力がなかったが、方玄綽は前の「授業すれば お金をやる」という政府の言葉を思い出し、「大差無し」の一つの影が眼の前に浮び出し、どうしても消滅しない。そこで彼は講堂の上で公表した。 右の通りこの「大差なし」を煎じ詰めると、そこに一種の私心的不平が伴うていることがわかり、決して自分が官 18 僚を兼ねていることを弁解したものではな い。ただいつもこういう場合に彼は常に喜んで、中国将来の運命というような問題を持出し、慎みを忘れて自分が立派な憂国の志士であるように振舞う。人々は 常に「自ら知るの明」なきを苦しむものである。 しかし「大差無し」の事実はまたまた発生した。政府はまず人の頭痛の種を蒔く教員をみなぜんほ放ったらかしたが、あとではあっても無くてもいいような役人どもを放ったらかした。ほ 未払いまた未払い、さきに教員を軽蔑していた役人どもは、そのうち幾人かは月給支払要求大会のぎょうしょう驍将となった。二三の新聞には彼等を卑み笑う文字がはなはだ多く現われたが、方玄綽はこれを少しも不思議とは思わない。何となれば彼の「大差無し」説に依って、新聞記者はまだじゅんぴつりょう潤筆料の支払いが停止しないから、こういう呑気な記事を書くので、万一政府もしくは後援者が補助金を断つに至ったら、彼らの大半は大 会に赴くだろうと認識したからである。 彼は既に教員の月給支払請求に同情したので、自然同僚の月給支払請求にも賛成した。しかし彼は衆と 一緒に金の催促にはゆかない。やはりいつものようにお役所の中に坐り込んでいる。彼は一人偉がっているのじゃないかと疑 19 う人もあったが、それは一種の誤解 に過ぎない。彼自身の説に拠ると、生れてこの方、人は彼に向って借金の催促をするが、彼は人に向って貸金の催促をしたことがない。だからこの点においては 「長ずる処にあらず」。その上彼は手に経済の権を握る人物が大嫌いだ。この種の人物はいったん権勢を失って、大乗起信論を捧げ、仏教の原理を講ずる時にはもちろんはなはだ「藹然親しむべき」ものがある。けれど未だ宝座の上にある時には結局一つの閻魔面で、他人は皆奴隷のように見え、自分ひとりがこの見すぼらしい奴の生殺の剣を握っていると思っている。そういうわけで彼はこの種の人物を見るのもいやだし、また見たいとも思っていない。この気癖が時に依ると、自分ながらも一人離れて偉く見えるが、同時に実は本領がないのじゃないかと疑うことがある。 誰も彼も左を求め右を求め、一節期一節期を愚図々々に押し通して来たが、方玄綽などは以前に比べるととてもあがきが取りにくくなって来た。だから追い使いのボーイや出入の商人にはいうまでもなく、彼の奥さん、方みなささいまえんまづらきぐせせつきぐずぐずフ?ンタイタイ太太ですらも彼に対してだんだん敬意を欠くようになって来た。彼女は近頃調子を合せず、いつも一人極めの意見を持出し、押しの強い仕打ちがあるのを見てもよくわかる。 20 五月四日の午前に迫って彼は役所から帰って来ると、彼女は一攫みの勘 今までにないことである。 「すっかり〆め上げると百八十円。この払いが出来ますか」 彼女は彼に目も呉れずに言った。 ぎかんじょうがき定書を彼の鼻先に突きつけた。これはく 21
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