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日本史年表★旧石器時代 =更新世=< 氷河 >時代(期)ともいう。    使用された石器・・・( 打製 )石器  1949年、( 相沢忠洋 )氏により( 岩宿 )遺跡が  群馬県で発見。  ★新石器時代=完新世  使用された石器・・・( 磨製 )石器 ★縄文時代(約1万200年前~2300年前) =日本の新石器時代       「特徴」弓矢の出現・磨製石器の出現・縄文土器の出現   交易状況を物語る物・・( 黒曜石 ):長野・熊本・北海道などが産地                  ( ヒスイ ):新潟県姫川流...

日本史年表
★旧石器時代 =更新世=< 氷河 >時代(期)ともいう。    使用された石器・・・( 打製 )石器  1949年、( 相沢忠洋 )氏により( 岩宿 )遺跡が  群馬県で発見。  ★新石器時代=完新世  使用された石器・・・( 磨製 )石器 ★縄文時代(約1万200年前~2300年前) =日本の新石器時代       「特徴」弓矢の出現・磨製石器の出現・縄文土器の出現   交易状況を物語る物・・( 黒曜石 ):長野・熊本・北海道などが産地                  ( ヒスイ ):新潟県姫川流域       ( 貝塚 )・・縄文人のゴミ捨て場       ( 大森貝塚 )・・1887年、モ-スが発見した貝塚       ( アニミズム )・・自然などに霊魂があると信じる信仰       ( 土偶 )・・生殖・収穫などを祈るために作られた土人形       ( 屈葬 )・・縄文人の埋葬形式     アルタイ語・・日本語・ツングース語・モンゴル語などの系統の総称  ★弥生時代弥生土器・・「特徴」( 薄くて硬い )( 赤褐色 )      青銅器と銅器が同時に伝来      ( 銅剣 )・・・・・・瀬戸内地方に普及             ( 銅戈 )・銅矛・・・・九州北部に普及      ( 銅鐸 )・・・・・・・近畿地方に普及   米作りの上手さなどから、米を外敵から守るための組織作りなどから、次第に身分・貧富の差がでる。  様々な墓 ( 支石 )墓・・地上に大石を配す。九州北部によく見られる。  土壙墓・( 方形周溝 )墓・( 甕棺 )墓・( 墳丘 )墓  集落:( 環濠 )集落・・・外敵から防御するため溝で周りを囲んでいる。            唐古・鍵遺跡・・・宣告時に描かれた楼閣の絵で有名な奈良県の遺跡。日本最大級の環壕集落。 B.C.108 漢が( 楽浪 )郡を朝鮮に設置        ここに倭人が定期的に使者を送る(←「漢書」地理志による) A.C.57 倭の奴国王が後漢に使者を送り、光武帝より( 漢委奴国王 )と彫られた金印をもらう      ・・・福岡の( 志賀 )島で発見。 2世紀   邪馬台国の女王卑弥呼を盟主に倭に連合国ができる。          ●注意!:邪馬台国ができたわけではない。 239年  女王( 卑弥呼 )が魏に使者を送り、( 帯方 )郡より返礼の使者が来て       ( 親魏倭王 )の称号と( 銅鏡 )をもらう。(←「 魏志倭人 」伝による) 268年  邪馬台国の女王壱与らしき人物が晋に使者を送る。  ★邪馬台国の身分 制度 关于办公室下班关闭电源制度矿山事故隐患举报和奖励制度制度下载人事管理制度doc盘点制度下载 ・・・( 大人 )と( 下戸 )の2つに分けられる。   以下、詳細な記録が残っておらず、しばらく空白の時代 ★大和時代(古墳時代) 3世紀後半~4世紀初頭 大きな墓( 古墳 )の登場              ・・円墳や方墳、そして( 前方後円 )墳など       ●日本最大の古墳・・・( 大仙陵 )古墳<大阪府堺市>        埴輪2タイプ・・・( 円筒埴輪 )と( 形象埴輪 )                ★朝鮮と倭 朝鮮半島の情勢          北部の( 高句麗 )・馬韓からできた( 百済 )・辰韓からできた( 新羅 )の3国が争う。       倭の朝鮮攻略拠点・・・・( 伽耶 )=任那:存在には疑問の声も         丸都の( 高句麗好太王碑 )・・・倭VS高句麗の碑文       ●倭の5王・・讃・珍・済・興・武(=雄略天皇)  埼玉県の( 稲荷山 )古墳の鉄剣「獲加多支鹵大王」=( 雄略 )天皇        熊本県の( 江田船山 )古墳の鉄刀       ●土器・・弥生土器系の( 土師器 )から5世紀頃渡来系の( 須恵器 )へ       ●大和朝廷の仕組み         大王・・説明略    氏姓制度:( 氏 )・・血縁的結びつき。1族のボス・・( 氏上 )     ( 姓 )・・豪族の大和朝廷内での地位。     ( 臣 )・・皇族の姓。蘇我氏・巨勢氏など。     ( 連 )・・非皇族の姓。伴を率いる。大伴氏・物部氏・中臣氏      ( 君 )・・759年より公と改称。有力地方豪族と小皇族。     ( 直 )・・伴を率いて朝廷に奉仕する首長。     ( 造 )・・地方官。大化の改新後、郡司と改称。     ( 首 )・・5~6世紀に服属した国造に与えられた姓。     ( 県主 )・・県(朝廷の直轄地や要地)の地方官。     ( 屯倉 )・・朝廷の直轄地。     ( 田荘 )・・部曲が耕作する豪族の私有地。       ( 田部 )・・屯倉の耕作。       ( 伴・品部 )・・伴造の部下。       ( 部曲 )・・豪族の私有民。       ( 名代 )・( 子代 )・・大王家に貢納する人々。       ●太占の法・盟神探湯の習慣 479年  雄略天皇死去。後継者争いおこる。 507年  ( 大伴金村 )が越前より男大述王を迎え、( 継体 )天皇として即位させる。 が、この継体天皇は何者? 512年  ( 大伴金村 )が、百済に任那4県を割譲した問題が再燃して失脚する。 513年  ( 五経博士 )が来日して儒教を伝える。 527年  筑紫国造( 磐井 )の反乱。翌年鎮圧される。 538年  百済より仏教伝来。( 仏教公伝 )という本によるとだが。 552年  百済より仏教伝来。( 日本書紀 )や( 上宮聖徳法王帝説<平安中期に成立した聖徳太子の伝記> )という本によるとだが。        ▼仏教をめぐる、蘇我氏と物部氏の死闘の開始。        第1ラウンド 蘇我稲目(仏教好き)VS 物部尾輿(反仏教) 587年   第2ラウンド 蘇我( 馬子 )VS 物部( 守屋 )        結果、物部氏滅亡。   ★飛鳥時代 592年   蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺。( 推古 )天皇が即位。 593年   ( 聖徳太子 )が摂政になる。        ( 四天王 )寺建立。 596年   蘇我氏の寺( 飛鳥寺 )=法興寺建立。 602年   ( 観勒 )が暦を伝える。 603年   才能や功績に応じて冠位が与えられる( 冠位十二階 )が定められる。        太秦(うずまさ)に広隆寺が建立される、とれば半跏思惟像。 604年   憲法17条制定。          ▼狙い2つ  ・役人の心構えをとく。 ・仏教を信じなさい。                           605年   ( 鞍作鳥 )が飛鳥寺釈迦如来像をつくる。 607年   ( 小野妹子 )らが隋に派遣される。 608年   第1回遣隋使派遣。高向玄理・南淵請安・旻などが留学。   610年   高句麗僧の( 曇徴 )が紙・墨などの製法を伝える。  611年   聖徳太子が( 三経義疏 )を著す。 620年   聖徳太子と蘇我馬子が「 天皇記 」と「 国記 」を編纂。 大半は蘇我氏滅亡時に焼失。内容不明。 622年  聖徳太子死去。妃の橘大郎女が( 天寿国繍帳 )をつくらせる。 623年   ( 鞍作鳥 )が法隆寺金堂釈迦三尊像をつくる。          ▼蘇我( 蝦夷 )・( 入鹿  )親子の専横が強まる          *余談:一般にはそういわれていますが、実はそうではなかったという説も最近では有力です。 643年( 蘇我入鹿 )が山背大兄王(聖徳太子の子)を攻め、自害させる。             △さすがに蝦夷もびっくり!! 645年   大化の改新。中大兄皇子、中臣鎌足らにより蘇我入鹿が殺害される。蝦夷は自害。 646年   ( 改新 )の詔。内容4点は、         ・公地公民制                     ・中央集権        ・戸籍・計帳をつくり班田収授法を施行する         ・全国統一的な税制の実施    663年( 白村江 )の戦い。日本・旧百済連合軍が唐・新羅連合軍に大敗。 664年国防のため北九州に( 水城 )をおき、太宰府の北に(大野城)を築城する。 667年   ( 近江京 )に遷都。日本政府首脳陣が、唐が攻めてくるかもと,いかに恐怖していたかがわかる。 668年   中大兄皇子が即位し、( 天智 )天皇となる。        最初の令である( 近江令 )を制定。        余談:この年、石油が越国(こしのくに:新潟の越後のことか)で発見され、献上される。いわゆる、燃える水なり。 669年   中臣鎌足、藤原の姓と大織冠を与えられるが、その翌日に死去。 670年   最初の全国的である( 庚午年籍 )がつくられる。 671年   天智天皇死去。 672年   ( 壬申 )の乱。天智天皇の子、弘文天皇こと( 大友 )皇子が天智天皇の弟である( 大海人 )皇子に敗北し、自害する。        ( 飛鳥浄御原宮 )に遷都。 673年   大海人皇子が即位し、( 天武 )天皇になる。ちなみにこのときから天皇という名前が登場。 680年   ( 薬師 )寺建立。ただし完成は698年。 684年   ( 八色の姓 )が制定。 686年   天武天皇死去。        余談:天智天皇と天武天皇の見分け方。         天武は武力(壬申の乱)で天皇の座をとったと覚えればよい。 689年   ( 飛鳥浄御原宮 )令施行。 690年   持統天皇(天武天皇の后で、天智天皇の娘)即位。 694年   ( 藤原 )京に遷都。 697年   持統天皇の孫、( 文武 )天皇即位。         このころ、歌人( 柿本人麻呂 )が活躍。         高松塚古墳・法隆寺金堂壁画・( 山上憶良 )による「貧窮問答歌」もこのころ。 701年( 大宝 )律令完成。( 刑部親王 )・( 藤原不比等 )らがつくる。          統治組織を定める。          ( 神祇官 )・・神々の祭りを司る。          ( 太政官 )・・一般政務をつかさどり、八省を管轄。          ( 畿内 )・( 七道 )・・全国の行政区分。その下に( 国 )・( 郡 )・( 里 )が設けられる。             郡司・・もとの( 国造 )から任命。            ( 官位相当の制   )の制・・位階に応じた官職に任命すること。            ( 蔭位 )の制・・父や祖父の位階に応じて位階がもらえる。          班田収授法~六年ごとに収公~            ( 計帳  )・・調・庸を取り立てるための台帳。毎年作成。         戸籍・・( 6 )年ごとに作成。         口分田・・( 6 )歳以上の男女に与えられる。         田地は( 条里 )制の形で整然と区分。         租・・田一段につき( 2 )束( 2 )把の稲を納める。         調・・( 地域の特産物を修める )      庸・・都の労役10日か布( 2 )丈( 6 )尺を納める。      雑徭・・地方での労役( 60 )日以下      ( 出挙  )・・国が春に稲を貸し付け、秋に利息とともに徴収。        ( 大学 )・( 国学 )の設置  <教育機関ができる> 704年 この頃から僧の( 行基 )が社会事業で活躍。朝廷はこれを弾圧。 708年 銅銭( 和同開珎 )の鋳造。 その前に富本銭というのもあった。 大日本史年 关于同志近三年现实表现材料材料类招标技术评分表图表与交易pdf视力表打印pdf用图表说话 pdf (奈良時代) 710年   ( 平城  )京に遷都。  711年   銭の普及をねらい( 蓄銭叙位 )令が発布される。銭を貯めたら官位に付けてやる、と。 712年   ( 太安万侶 )が( 稗田阿礼 )の語りを元に「古事記」を編纂する。 713年   諸国に( 風土記 )編纂が命じられる。 718年   藤原不比等らにより( 養老 )律令なる。ただし、施行は757年、藤原仲麻呂の全盛期の頃である。 720年   ( 舎人親王 )らが「日本書紀」を撰上。 722年   百万町歩開墾計画だ!! その名の通り、ひたすら開墾を進める計画。 723年   ( 三世一身 )の法、通称養老7年の格が発布。 724年   ( 聖武 )天皇即位。ストレスのたまりやすいお坊ちゃんである。        陸奥国に( 多賀 )城を築く。 727年   中国東北部の国、渤海より使者が来る(以後滅亡まで34回くる) 729年   ( 長屋 )王の変。藤原4兄弟の策謀により、聖武天皇の子を呪い殺したとして、天皇中心政治を目指す( 長屋 )王は自害においこまれる。        不比等の娘、光明子が皇后となる。 730年   薬師寺東塔、興福寺五重塔建立。        光明皇后の発案で悲田院、施薬院設置。貧しい人にも食料・薬を、という立派な発想。 734年   興福寺阿修羅像(八部衆像)などできる。  737年   藤原4兄弟、流行病で病没。 738年   皇族の( 橘諸兄 )と、吉備真備、僧の( 玄昉 )が重用される。 740年   ( 藤原広嗣 )の乱。聖武天皇ビックリ。遷都を繰り返す。 741年   ( 国分寺建立 )の詔。 743年   ( 墾田永年私財法 )がだされる。田畑の永久私有が認められる、が、位に応じて持てる田畑の広さが異なる。ここも三世一身の法との 大きな違い。         紫香楽宮にて、盧舎那大仏造立の詔がでる。が、途中で大仏造立は中止。翌年、平城京に再遷都し、東大寺で再開。 745年   ( 行基 )が大僧正になり、今度は一転して朝廷に保護される。もちろん、大仏造りのためである。         東大寺不羂索空観音像、日光・月光菩薩像など。 751年   現存最古の漢詩集( 懐風藻 )できる。 752年   大仏できるが、ちょい前に行基は死去。         このころから、藤原仲麻呂が権勢を振るい始める。 753年   唐から僧の( 鑑真 )和上来日し、( 律 )宗を伝える。 756年   光明皇后が聖武天皇の遺品を東大寺へ奉納。( 正倉院 )の初め。 757年   養老律令施行。         橘奈良麻呂の変。橘、大伴一族の多数が刑死。藤原仲麻呂の絶頂期へ。 758年   仲麻呂、( 恵美押勝 )という名を淳仁天皇からもらう。 759年   唐招提寺金堂、講堂できる。 763年   道鏡が孝謙上皇に重用される。 767年   ( 恵美押勝 )の乱。仲麻呂敗死。孝謙上皇の重祚(ちょうそ・再び天皇になること)、称徳天皇に。 770年   称徳天皇没。道鏡追放。光仁天皇即位で、天智天皇系にもどる。         万葉集できる。大伴家持らの編纂か。 781年   桓武天皇即位。 784年   ( 長岡京 )に遷都。         この頃、室生寺できる。神護寺薬師如来像もできる。 792年   ( 健児 )の制。太宰府など一部を除き、軍団を廃止し郡司の子弟を健児とて地方の治安維持にあたらせる。 大日本史年表(平安時代) 794年   平安京に遷都。 797年   勘解由使を設置。 官人の職務交替の円滑化のために、交替完了を証明する解由(げゆ)状を審査する。         坂上田村麻呂が征夷大将軍になる。 802年   田村麻呂、東北に胆沢城を築く。蝦夷の平定。城と言いますが、まあ砦のようなものです。 804年   空海、最澄、橘逸勢らが入唐。 805年   最澄が( 天台 )宗を開く。 806年   空海が( 真言 )宗を開く。 809年   嵯峨天皇即位。 810年   蔵人所設置(つまり、令外の官)。蔵人頭に藤原冬嗣ら任命。        ( 薬子 )の変。平城上皇が藤原仲成・薬子兄妹にそそのかれ、復権をねらい敗北。この時、坂上田村麻呂がまた活躍。        警察官・裁判官とも言える、検非違使設置。 812年   空海の( 風信帖 )。 814年   小野岑守らの( 凌雲集 )。 818年   藤原冬嗣ら ( 文華秀麗集 )撰上。 819年   空海、高野山に( 金剛峰寺 )建立。 820年   藤原冬嗣ら( 弘仁 )格式を撰上、施行。 823年   ( 大宰府 )で公営田制実施。         空海に東寺( 教王護国 )寺が与えられる。 828年   空海、庶民のための学校( 綜芸種智院 )を設立。 833年   清原夏野ら( 令義解 )を撰上、施行。 840年   歓心寺如意輪観音像 842年   ( 承和 )の変。藤原( 良房 )が、伴健岑・橘逸勢らを謀反の嫌疑で流罪にする。 857年   藤原良房が太政大臣になる。(非皇族で初の太政大臣) 858年   清和天皇、9歳で即位。 856年   藤原良房、摂政に。(非皇族で初の摂政) 861年   神護寺両界曼陀羅ができる。 866年 ( 応天門 )の変。( 応天 )門放火容疑で伴義男らが流罪に。 869年   藤原氏宗ら( 貞観 )格を撰上。871年に施行。 887年   宇多天皇即位。        ( 阿衡 )の紛議。( 阿衡 )という官位を与えられた藤原基経がすねる。名誉職という意味合いだったらしい。 894年   ( 菅原道真 )の建議で遣唐使を廃止。唐が滅亡に向けて大混乱状態だったのと、道真が行きたくなかったという説も。 897年   ( 醍醐 )天皇即位。 901年   ( 昌泰 )の変。右大臣菅原道真が大宰権帥に左遷。また、この後に元号を延喜に改元する。(→延喜の治) 902年   延喜の荘園整理令でる。 907年   藤原時平ら延喜格撰上。翌年施行。 914年   三善清行による( 意見封事12箇条 )が提出される。 927年 藤原忠平ら延喜式撰上。967年に施行。40年も何やっとるンじゃい! 935年   ( 承平 )・( 天慶 )の乱。すなわち、関東で( 平将門 )が、939年には瀬戸内で( 藤原純友 )が反乱する。940年に 将門は戦死、941年に純友は死亡し終結。        ( 紀貫之 )による土佐日記が書かれる。 946年   村上天皇即位。彼の改革を( 天暦 )の治という。 958年   皇朝十二銭の最後、( 乾元大宝 )を鋳造。 966年   伊勢物語、蜻蛉日記(作者:藤原道綱母)など成立。寝殿造がブームに。 969年   ( 安和 )の変。左大臣源高明が源満仲により大宰権帥に左遷させられる。これにより、藤原氏は邪魔者がいなくなり全盛期ハッピータ イムを迎える。おめでとう。 988年   尾張の郡司・百姓達が国司・( 藤原元命 )を訴える。 995年   藤原道長が政治の主役になる。翌年ライバルの藤原伊周・隆家(道長の甥たち)は大宰権帥に左遷させられる。 1000年  中宮定子が皇后に、女御彰子(道長の娘)が中宮になる。 1017年  道長の子、( 藤原頼通 )が摂政になる。道長は太政大臣に。 1019年  ( 刀伊 )の入寇。女真族(後に金や清を建国した民族)が九州北部に攻め込んでくる。 大宰権帥・藤原隆家らがこれを撃退するが、朝廷は知らんぷり。隆家は、前述のように道長に左遷された人。左遷先で頑張ったなあ。         頼通、関白になる。 1028年 関東で( 平忠常 )の乱が起きる。源頼信がこれを降伏させる。 1051年  東北で安倍頼時が反乱、すなわち( 前九年 )の役が起きる。源頼義・義家親子がなんとか鎮圧。 1053年  平等院鳳凰堂できる。 1068年  藤原氏と直接は外戚関係のない( 後三条 )天皇即位。 1069年  ( 延久 )の荘園整理令。それにともない( 記録荘園券契所 )を設置。 1083年  東北で清原氏が内紛。( 後三年 )の役が起きる。源義家が介入し、        清原清衡が勝利を収める。ただし、義家はただ働きに終わる。 1086年  ( 白河 )天皇が譲位し、院政を始める。  1095年  初めて宮中を警備する武士、( 北面の武士 )をおく。 1105年  藤原清衡、( 中尊 )寺を建立。 1129年  ( 鳥羽 )上皇が院政を始める。 1156年  ( 保元 )の乱。後白河天皇と崇徳上皇が藤原氏・平氏・源氏を巻き込み戦争。崇徳上皇が敗北。 1159年  ( 平治 )の乱。源義朝・藤原信頼と平清盛・藤原通憲(信西)が戦争。序盤は義朝軍が信西を斬首するなど元気だったが、清盛に逆転満塁ホームランを打たれ2人とも殺される。義朝の子、源頼朝は伊豆に流罪。  1164年 このころ・・・富貴寺大堂、伴大納言絵巻、扇面古写経ができる。 1167年  平清盛が武士で初の太政大臣となる。しかし、武士といっても元々桓武天皇の子孫だから、ねぇ・・・。 1168年  清盛、宋との貿易に向け港である( 大輪田泊 )を築造。 1179年  後白河法皇が( 梁塵秘抄 )を著す。 1180年  ( 以仁王 )の令旨。全国の源氏に決起を促す。彼自身は源頼政と挙兵し、宇治で敗死。         源頼朝が北条氏の援助で伊豆で、義仲が木曽で挙兵。     頼朝、武士を管理する( 侍所 )を設け( 和田義盛 )を別当に。 1181年  重源が東大寺再建にむけ活動開始。 1184年  義仲が、頼朝の弟、源義経・範頼兄弟に討たれる。        頼朝、大江広元を別当とする( 公文所 )と、三善康信を別当とする( 問注所 )をつくる。 公文所は政務関係、問注所は裁判関係。 1185年  ( 壇ノ浦 )の戦い。平氏滅亡。( 安徳 )天皇は8歳で入水して溺死。            頼朝、関東御分国、平氏没官領、関東御領得る。 1189年  義経、頼朝に追われ奥州藤原氏を頼るが、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に殺される。         頼朝、藤原泰衡を滅ぼし、奥州藤原氏滅亡。 1191年  公問所が( 政所 )と改称。 大日本史年表(鎌倉時代) 1192年  頼朝、( 征夷大将軍 )に任命され、鎌倉幕府を開く。写真の辺りが頼朝が幕府を開いた場所で、写真手前をのぼると、頼朝の墓へ。ちなみに死後、幕府の建物の場所は移転している。 1199年  頼朝、落馬がもとで死亡。北条氏による暗殺説も。 1203年  2代将軍、源頼家が追放され殺される。弟の実朝が将軍に、北条時政が( 執権 )となる。  1203年  運慶・快慶による( 東大寺南大門金剛力士 )像が完成。 1205年  時政、実朝を暗殺しようとして失脚し、子の義時が執権に。          ●北条氏による他氏排斥            1.1200年に梶原景時を討つ。            2.1203年に比企能員を謀殺。            3.1205年に畠山重忠を討つ            4.1213年に和田義盛を討つ            5.1246年に三浦泰村を討つ。<( 宝治 )合戦 >            6.1285年に安達泰盛を討つ。<( 霜月 )騒動 > 1205年  藤原定家・家隆ら、( 新古今 )和歌集を編纂。 1212年  鴨長明が( 方丈記 )を著す。 1219年  実朝、鶴岡八幡宮で頼家の子、公暁に殺される。源氏将軍3代で断絶。 1221年  ( 承久 )の乱。( 後鳥羽 )上皇が兵を挙げ、北条氏打倒・朝廷中心の政治を目指すが、頼朝の妻・北条政子の名演説に感動した御家人に敗北。        朝廷を監視する( 六波羅探題 )が設置される。 1223年  上皇方から没収した地に地頭をおく。彼らは( 新補地頭 )と呼ばれる。          諸国に土地関係の書類、( 大田文 )の作成と提出を命じる。 1225年  連署と( 評定衆 )をおき、執権の手助けをさせる。 1227年  道元、( 曹洞 )宗を広める。         加藤景正が( 瀬戸 )焼を始める。 1232年  北条泰時、鎌倉武士の慣例の明文化、裁判の公平な基準を示すため、        ( 御成敗式目 )を制定。 1235年  藤原定家が私撰和歌集( 小倉百人一首 )を著す。 1244年  道元が( 永平 )寺を建立。 1247年  荘園領主が地頭に領地の半分を譲ることで共存をはかる( 下地中分 )がおこる。 1249年  裁判を迅速に進めるため、( 引付衆 )を設置。 1252年  仏教説話集、( 十訓集 )が成立。 1253年  日蓮が( 法華宗 )<または日蓮宗>を開く。 1254年  橘成季が( 古今著聞集 )を著す。 1260年  日蓮が( 立正安国論 )を著す。 1274年  ( 文永 )の役。モンゴル軍が博多に上陸。日本軍は惨敗。しかし、暴風雨が起こり、船が粗悪だったこともありモンゴル軍は壊滅して撤退。ここから神風神話が生まれる(なお、本当のところの勝因はよく解っていない)。         一遍が( 時宗 )を開く。 1280年  阿仏尼が( 十六夜日記 )を著す。 1281年  ( 弘安 )の役。またもモンゴル軍やってくる。が、やっぱり暴風雨と、さすがに今度は準備万端の日本軍の前に敗れ去る。 1282年  無学祖元が( 円覚 )寺建立。 1283年  無住が仏教説話集( 沙石集 )を著す。 1285年  円覚寺舎利殿建立。 1286年  天皇家が皇位継承を巡り二派に分裂。( 持明院 )統と( 大覚寺 )統の二つ。 1293年  九州に( 鎮西探題 )を設置。        ( 蒙古襲来 )絵巻の成立。 1297年  ( 永仁 )の徳政令。御家人の借金が帳消しに。質にとられた土地も帰ってくる。しかし、以後金を貸してもらえなくなり、ますます御家人は窮乏。 1321年  ( 後醍醐 )天皇の親政が開始。 1322年  虎閑師錬が( 元亨釈書 )を著す。 1324年  ( 正中 )の変。後醍醐天皇の倒幕計画が露見して失敗。 1325年  卜部兼好が( 徒然草 )を著す。 1331年  ( 元弘 )の変。後醍醐天皇の倒幕計画が露見して失敗。今度は天皇は隠岐に配流となる。                    楠木正成、護良親王が挙兵。 1333年  足利高氏の裏切り。高氏が幕府から朝廷方に寝返り、六波羅探題が陥落。        ( 新田義貞 )が鎌倉を攻略し、幕府滅亡。         後醍醐天皇、行政・司法などの政務を行う最高機関の( 記録所 )               土地に関する訴訟を担当する( 雑訴決断所 )            京都の警備を担当、新田義貞が長官の( 武者所 )などを設置。 1334年  後醍醐天皇による( 建武 )の新政開始。         日本初の紙幣が発行されるが不評に終わる。         建武の新政を皮肉った( 二条河原落書 )がだされる。 1335年  北条時行が挙兵。いわゆる( 中先代 )の乱がおこる。時行ら敗北し自害。        足利尊氏(後醍醐天皇から尊の字をもらい改名)も挙兵。       1336年  足利尊氏が入京し、光明天皇を立てる。後醍醐天皇は吉野へ移り、南北朝時代が始まる。                  尊氏、( 建武 )式目を制定。室町幕府成立。ただし、実際に幕府が室町に移ったのは3代将軍足利義満の時。 1338年  尊氏、征夷大将軍になる。 1339年  北畠親房が、南朝の正当性を訴えた( 神皇正統記 )を著す。 1340年  夢窓疎石が、( 西芳 )寺庭園を造園。 1341年  尊氏、( 天竜寺 )船を元に派遣。 1342年  五山・十刹の制ができる。 これは、中国南宋の官寺制度に習って、幕府指定のお寺を格式をもって定めた物。京都五山は、( 天竜 )寺、( 相国 )寺、( 建仁 )寺、( 東福 )寺、( 万寿 )寺、鎌倉五山は( 建長 )寺、( 円覚 )寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺、そしてこの下に、京都十刹、鎌倉十刹があり、さらに諸山という格付けになる。 1350年  尊氏と、その弟直義が争う、( 観応の擾乱 )が勃発する。         いわゆる、前期倭寇の活動が盛んになる。 1352年 尊氏 、降伏してきた直義を毒殺、ただし一説によると、であるが。        ( 半済 )令がでる。( 近江 )・( 美濃 )・尾張の3国の本所領の半分が兵粮料所となる。翌年5カ国追加。 1356年  二条良基が( 菟玖波集 )を著す。 1358年  尊氏没。 1362年 伊勢神道を大成した( 度会家行 )<わたらいいえゆき>死去。 1368年  足利義満が3代将軍に。 1371年  今川了俊(貞世)、九州地方を統率する( 九州探題 )に任命される。 1378年  この頃から、農村では惣というグループが形成され、年貢を惣全体で請け負って納入する( 地下請 )がはじまる。 1390年  土岐氏の乱。義満、土岐康行を討つ。          ●足利義満による有力守護大名討伐            1.1390年に土岐康行を討つ。            2.1391年に山名氏清を討つ。( 明徳 )の乱。            3.1399年に大内義弘を討つ。( 応永 )の乱。            4.1400年に今川了俊を降伏させる。         世阿弥が能についての本、( 風姿花伝 )を著す。 1401年  明と国交樹立。 1404年  明と( 勘合 )貿易開始。 1411年  4代将軍義持が、明との国交を断絶。 1419年  朝鮮が、倭寇の根拠地と考えた対馬に攻め込む。( 応永 )の外寇。 1428年  ( 正長 )の土一揆が起こる。 1429年 ( 尚巴志 ) が、北山・中山・南山を統一し、琉球王国を建国。 1432年  6代将軍義教が、明との国交を回復。 1438年  鎌倉公方、足利持氏が幕府に討たれる。( 永享 )の乱。足利持氏はことあるごとに、幕府を批判していた。 1441年  足利義教が、赤松満祐に謀殺される。( 嘉吉 )の乱。これ以後将軍の権威が急速に低下。 1467年  応仁の乱。京都を舞台に将軍家・守護大名家の家督争いを背景とした大合戦が勃発。 大日本史年表(戦国・安土桃山時代) 1493年  伊勢長氏(北条早雲)の台頭。下克上の風潮。 ちなみに、北条という姓を名乗ったのは2代目の氏綱から。当然、昔の北条氏を意識して改姓したものです。 1510年  朝鮮の日本人による( 三浦<さんぽ> )の乱が朝鮮で起こるが鎮圧される。三浦とは、日本人のために設けられた(言い換えれば居住・貿易を制限された)朝鮮の3つの港のことで、代表に富山(今の釜山)がある。  何で反乱が起こったかというと、密貿易の増加などもあって朝鮮側が統制を強化したことに反発したため。 1523年  寧波の乱。日明貿易の主導権を巡り、( 大内 )氏と( 細川 )氏が寧波で争う。結果、( 大内 )氏の勝利に終わる。 1536年  ( 天文法華 )の乱。法華宗徒が延暦寺宗徒と争う。 1541年頃  中国地方で、毛利元就が戦国大名として台頭をはじめる。ちなみに毛利家は鎌倉幕府政所別当、大江広元の子孫である。ちなみにその血は天皇家につながる。ちなみに毛利家の家臣に熊谷氏がいるが、これは平家物語の敦盛の最後でおなじみ、熊谷次郎直実の子孫である。と、まあ こんな感じで登場人物は鎌倉時代から変わってないのである。 同年    甲斐(山梨県)で、武田晴信(信玄)が父・信虎を追放し武田家を相続。        ちなみに武田氏も鎌倉時代からの名族・甲斐源氏。 1543年  ポルトガル人が種子島に漂着。( 鉄砲 )を伝える。 1551年  この頃から倭寇が再び活発化。いわゆる後期倭寇である。が、これは中国人が主流。ゆめゆめ、お間違えでないように。 1553年  川中島の戦い第1回。武田信玄VS長尾景虎(後に関東管領の職と上杉の姓をもらい上杉謙信と呼ばれる)。ちなみに上杉氏は元々藤原氏の流れをくみ、また、長尾家はその家臣。 1555年  ( 厳島 )の戦い。毛利元就が、大内家の重臣陶晴賢を破る。大内家はこの後すぐ滅亡。毛利家の中国地方制覇に王手。 1560年  ( 桶狭間 )の戦い。織田信長が今川義元の大軍を破る。その後、美濃の齋藤氏を破り勢力拡大。 1568年  織田信長、入京。( 足利義昭 )を将軍職に就ける。 1573年  織田信長が、足利義昭を「将軍は自分の言うことを聞かずうるさいやつだ」、との理由で追放。室町幕府が滅亡する。真意は朝廷の方が利用価値があり、害がない、ならば義昭はいらないとの判断らしい。  1575年  ( 長篠 )の戦い。織田・徳川連合軍が武田勝頼率いる騎馬隊を鉄砲でさんざんにうち破る。 1576年  信長、琵琶湖のほとりに安土城を築く。 1582年  天目山の戦い。武田勝頼が自害し、信長により武田氏が滅亡。ただし、武田氏そのものは現在に至るまでしっかり続いています。 ( 本能寺 )の変。信長が重臣の明智光秀に謀殺される。       ●では、なぜ信長は殺されたのでしょうか?    1.光秀が、信長のイジメに耐えかねて殺した。     2.光秀が、天下をほしがった。    3.光秀が働きすぎで気が狂った。    4.信長の新しい考え方についていけず、彼を危険分子とみて殺害。    5.彼の旧主・足利義昭または朝廷の一部勢力の要請で信長を殺した。 さあ、どれでしょう?それともこれ以外でしょうか?真意は光秀のみぞ知る・・。   ( 山崎 )の戦い。羽柴秀吉が光秀を破り、光秀は敗走中に殺される。 1583年 秀吉、織田家筆頭家老、柴田勝家を破り、事実上織田家をしのぐ。       大坂城築城開始。大阪ではありません。大坂です。坂の字に注意。         なお、豊臣時代を意識して作られた現在の天守閣ですが、本来、豊臣時代の天守閣は壁が「黒」でした。         色の雰囲気的には、松本城に近いですね。 1584年  (小牧・長久手)の戦い。家康・織田信雄(信長の子・のちの天童藩初代藩主)と秀吉が闘う。         家康方が戦では勝利するが信雄が秀吉をおそれて講和。家康も渋々それに従う。 1586年  秀吉、太政大臣になり豊臣の姓を賜る。  1587年  鹿児島の島津氏、秀吉に服属。九州平定。 1590年  秀吉、北条氏を滅ぼす。ちなみに鎌倉時代の北条とは関係なし。それにあやかって姓をつけただけです。         伊達政宗ら、東北の戦国大名たちも秀吉に服属し、秀吉は奥州を平定して天下統一。 1592年  ( 文禄 )の役。秀吉、朝鮮侵略を開始する。 1596年  ( サン・フェリペ号 )事件。スペイン船が土佐に漂着。 1597年  ( 慶長 )の役。秀吉、またも朝鮮に出兵。 1600年  オランダ船( リーフデ )号、豊後に漂着。ここで家康と仲良くなったのが( ウイリアム・アダムス )<日本名三浦按針>である。         (関ヶ原)の戦い。徳川家康率いる東軍が、石田三成が実質的な指揮を執った西軍を何とか破る。         実は結構際どい東軍の勝利で、小早川秀秋の裏切りが勝因だったが、さすがに東軍諸将も後味         悪かったようだ。ちなみに、西軍の名目上の総大将は毛利輝元(元就の孫)である。  大日本史年表(江戸時代) 1603年  家康、征夷大将軍に。江戸に幕府を開く。         (写真:現在は皇居となっている江戸城) 1604年  白糸<生糸>の輸入法制定。         →( 糸割符 )制度のはじめ。 1606年  ( 角倉了以 )が山城の大堰川の水路を開く。        以後、彼がこういった事業に大活躍。 1607年  朝鮮から初めての通信使が日本へ来る。        以後、( 将軍の代替わり )ごとに来る。 1610年  通商を求め、京の商人( 田中勝助 )を         メキシコ( ノビスパン )に派遣。 1612年  伊達政宗、家臣の( 支倉常長 )を         ヨーロッパに派遣。         キリスト教の禁止。 1614年  大坂冬の陣。家康、豊臣家に対して攻撃開始。 1615年  大坂夏の陣。豊臣家滅亡。        一国一城令。        武家の規則を定めた( 武家諸法度 )、公家の規則を定めた        ( 禁中並公家諸法度 )を発布。 1616年  家康没。すでに2代将軍となっていた秀忠が、やっと実権を持つ。 1619年  御三家の完全成立。すなわち、( 尾張 )・( 紀伊 )・水戸の3家で、将軍家に跡継ぎがいない場合は        ここから出すことになった。        堺の商人が( 菱垣廻 )船を開始。 1623年  イギリス、対日本貿易をやめる。 1624年  スペイン船の来航禁止。 1633年  鎖国令。老中奉書を持った( 奉書 )船以外、海外渡航を禁止。 1635年  武家諸法度の改正。大名は1年おきに江戸に来なけらばならない、         ( 参勤交代 )制が定められる。 1637年  ( 島原 )の乱。( 天草四郎時貞 )率いるキリシタン農民が反乱。 1639年  鎖国令。今度はポルトガル船の来航禁止。 1641年  オランダ商館を長崎の( 出島 )に移す。鎖国の完成。        だが、実際には中国や朝鮮、そして琉球との交易があり鎖国ではなかった。 1643年  ( 田畑永代売買の禁 )が出され、田畑の売買が禁止になる。 1649年  農民に対して生活や仕事の規範を示した( 慶安の御触書 )が出される。        ただし、この時期には出されていないとの説も有力。 1651年  3代将軍家光没。浪人の( 由井正雪 )の乱。 1671年  宗門改帳作成。       ( 河村瑞賢 )、東廻り海運開設。翌年、西回りも。コースを覚えておこう。 1685年  5代将軍徳川綱吉、お母さんの発案で生き物を大切にしすぎなさいという( 生類憐れみ )の令をだす。 1688年  ( 柳沢吉保 )が側用人となり権勢を振るう。 1694年  ( 江戸 )に十組問屋が成立。( 大阪 )に二十四組問屋が成立。 1695年  綱吉が金を浪費するため、そして金銀の産出量が減り幕府の使える金が減ったため、( 荻原重秀 )        が質の悪い元禄金銀を鋳造し、その分貨幣の量を増やした。     ただし、幕府の財政は一時的に好転したもののインフレが起こる。当たり前じゃ。 1709年  徳川家宣が第6代将軍に就任。新井白石の登用。( 正徳 )の治のはじまり。     オランダ人宣教師シドッチ、屋久島に漂着。( 新井白石 )が彼を尋問し、シドッチから聞いたことを元に        ( 西洋紀聞 )という書物を記す。 1710年  貿易の新たな指針を定めた( 海舶互市新例 )<長崎新例>がでる。 1716年  7代将軍、徳川家継が亡くなり、徳川将軍家の血筋が絶えたことから、        紀伊家の( 徳川吉宗 )が8代将軍に就任。 1717年  大岡忠相(越前)が江戸町奉行に登用される。江戸町奉行とは東京都知事のようなもの。 1719年  金銭関係のトラブルの訴訟お断りという( 相対済まし )令がだされる。 1721年  豊作でも凶作でも年貢は一律よ、という( 定免 )法が制定。実質的に年貢率アップ。 1722年  幕府、財政危機により諸大名に石高に応じて米よこせと( 上げ米 )を命じる。        その代わり諸大名には江戸にいる期間を短くすることを許す。江戸滞在にも結構お金がかかるんです。 1723年  役職に就くために必要な家禄が、在職中なら支給され、実力にあったポストに就くことができる        ( 足高 )の制を定める。 1729年  太宰春台が( 経済録 )を著す。幕政に専門官僚制、能力主義の導入、留守居役の廃止などを求める。        一方で、老荘のように時には無為も大切とも説く。        ( 石田梅岩 )が京都で心学の講席を開く。心学は、心の修練を目的とした禅と陰陽道の融合だが、        一方で農工商の3身分の重要さも説く。そのため睨まれやすかった。 1732年  ( 享保 )の大飢饉がおこり、( 西国 )地域を中心に大凶作となる。 1742年  裁判の規範を示す( 公事方御定書 )が制定される。 1758年  清水家ができ、それ以前にできた田安家・一橋家と合わせて御三卿が成立。          →御三家に代わり、吉宗の血統を将軍家に継がせるための新たな家。 1759年  ( 山県大弐 )が「柳子新論」で幕政を批判。67年に彼は処刑される。 1765年  ( 鈴木春信 )が錦絵を始める。 1771年  ( 与謝蕪村 )・池大雅の2人による「十便十宜図」が描かれる。 1772年  田沼意次が老中に。賄賂政治を行ったといわれるが、保守派による、彼の重商主義政策への批判・デマともいわれる。彼は印旛沼の干拓を行ったり(但し失敗)、長崎俵物会所を設置しうまく貿易を行い、また株仲間を公認する代わりに運上金・冥加金を納めさせることで幕府の収入を増やした。さらに北防のため最上徳内らを蝦夷地の調査に向かわせたり、平賀源内らを保護し学問の充実をさせた。が、浅間山噴火など天災が重なり、飢饉も発生。人々の支持を失い、それみたことかと保守派により失脚させられた。 1775年  危機的財政状況の米沢藩において藩主の( 上杉鷹山<治憲> )が改革を本格的にスタート。 1782年  天明の大飢饉が起こる(~87年) 1783年  ( 司馬江漢 )が銅版画を創製する。 1787年 天明の打ちこわしが起こる。         田沼意次が失脚。        ( 松平定信 )が老中に。         寛政の改革の初め。早速倹約令をだす。 1789年  旗本・御家人の借金帳消しよ、の        ( 棄捐令 )を出される。        米の備蓄などを定めた( 囲い米 )        の制が出される。 1790年  職業訓練施設ともいえる( 人足寄場 )を         江戸の石川島に設立。 1791年  お金をちゃんと積み立てて災害時などに        使おうという( 七分積金 )の制が出される。 1792年  ( 海国兵談 )・「三国通覧図説」の著者、        林子平が蟄居を命じられ本は絶版となる。        ロシアの( ラクスマン )が漂流民・大黒屋光太夫を連れて根室に来航。通商を要求するが、幕府はまた        今度ねと追い返す。なお、光太夫はロシアの情報を幕府に報告した後は、幕府に監視された飼い殺しの        ような状況下におかれる。一般市民にロシアのことを喋るな、とのこと。 1793年  松平定信、老中を辞任。将軍家斉がお金を使いまくる政治を開始。彼は側室も何十人も持ち、        子供の数も55人。この頃から特に、大奥の権勢が強まり改革をことごとく阻害し始める。        倹約が嫌だから、が彼女たちの理由。 1798年  ( 近藤重蔵 )が千島列島を探検。 1800年  ( 伊能忠敬 )が蝦夷地を探検。 1802年  十返舎一九が( 東海道中膝栗毛 )を著し、ヒットする。 1804年  ロシアの( レザノフ )が漂流民送還のため長崎に来航。同時に通商を求めるが拒絶される。 1805年  関東のならず者を取り締まるため( 関東取締出役 )を設置する。 1808年  間宮林蔵が( 樺太 )を探検。翌年、後の間宮海峡を発見。        ( フェートン )号事件。イギリス船が長崎に侵入し、薪水・食料を強要して帰る。長崎奉行は切腹する。 1809年  式亭三馬が「浮世風呂」を著す。 1811年  ( ゴローウニン )事件。ロシアの軍艦艦長( ゴローウニン )を国後島で逮捕。        翌年、ロシアが高田屋嘉兵衛(択捉航路を開いた人) を国後島で逮捕し、その翌年に交換する。 1814年  滝沢馬琴が( 南総里見八犬伝 )の執筆を開始。 1817年  イギリス船が浦賀に来航する。 1821年  伊能忠敬の日本全図が完成。 1822年  大蔵永常が( 農業便利論 )を著す。 1825年  異国船打払令、またの名を( 無二念打払令 )がだされる。 1827年  薩摩藩において( 調所広郷 )が藩政改革を始める。         改革内容は、琉球との密貿易、奄美大島特産のサトウキビの専売(領民を相当しごいた)、借金の返済         期日を無理矢理に長期にわたって延期させたことであり、かなり過激。まさに「痛みを伴う改革」。         頼山陽が( 日本外史 )を著す。 源平2氏から徳川に至るまで、武家が政権を握る過程を著述。          →「史記」を模範とし、尊皇攘夷運動に影響。 1828年  シーボルト事件。伊能忠敬の師匠の息子で、幕府天文方の( 高橋景保 )がオランダ商館医師のドイツ        人シーボルトに日本地図を譲り 処罰をうけ、シーボルトは国外追放となる。なお、シーボルトといえば長崎        で開いた塾( 鳴滝塾 )を覚えておこう。この塾の門下生が日本の近代医学に少なからず貢献することになる。 1829年  葛飾北斎が( 富嶽三十六景 )を描く。 1830年  水戸藩主徳川斉昭が藩政改革を始めるが、藩内は派閥闘争に明け暮れ幕末まで尾を引く。 1832年  ( 為永春水 )が春色梅子誉美~しゅんしょくうめごよみ~を著す。 1833年  歌川広重が( 東海道五十三次 )を描く。海外の画家に大きな衝撃。 1834年  ( 水野忠邦 )が老中となる。41年の大御所家斉の死をもって天保の改革を始める。 1837年  ( 大塩平八郎 )の乱。大坂で元大坂奉行所与力の( 大塩平八郎 )が、貧民を救済しない幕府の態度         に対し反乱を起こす。すぐに鎮圧されるが、幕府内部からの反乱と言うことで衝撃は大きかった。         越後柏崎において国学者の( 生田万 )が( 大塩平八郎 )にならい反乱を起こす。もちろん鎮圧された。         アメリカ商船モリソン号が漂流民を届けに来たところを砲撃される。 1838年  中山みきが( 天理 )教を創始する。        高野長英が( 戊戌夢物語 )、渡辺崋山が( 慎機論 )を著し、密かにモリソン号に対する幕府の        打ち払いの行動など幕政を批判。 ところがこれがばれてしまい処罰。崋山は自殺。長英は牢に入った後、        脱獄し各地を転々とし大名の保護を受けるが、江戸に戻ったところを見つかり、自殺を図り獄中で死亡。        これら、蘭学者に対する弾圧を( 蛮社の獄 )という。 1841年  天保の改革スタート。株仲間が解散させられる。 1842年  天保の薪水給与令。打ち払い令を緩和し、外国船に薪水食料を与えることで穏便に事を済ませることにした。 1843年  人返しの法、上知令が出る。基本なので内容は略。これで忠邦は自滅し辞任。         かわりに福山藩主( 阿部正弘 )が老中首座に。藩主には珍しい賢者だったが残念なことにペリー来航のごたごたの中で病死。 1846年  アメリカの( ビットル )が浦賀に来航し、通商を要求。 1850年  ( 佐賀 )藩で、日本初の反射炉が建設される。工業化の第一歩。 1851年  高知藩の人で漂流民となった中浜(ジョン)万次郎がアメリカより帰国。        ( 本木昌造 )が鉛活字を鋳造。活版印刷を始める。         薩摩藩で藩主の( 島津斉彬 )が改革を始め、製錬所や反射炉を造る。 1853年  ペリーが浦賀に来航。開国しなさいと勧告して帰る。 1854年  ペリーが再び来航。返事はいかにとせまり、仲良くしましょう         という日米和親条約(別名:神奈川条約 )が結ばれる。         各列強もこれにならう。 1855年  蛮書和解御用掛を洋学所とする。これは56年に        ( 蛮書調所 )に、62年に洋書調所に、         63年に( 開成所 )と組織が変更する。           →意外と入試でよく出るから注意。 1856年  アメリカ総領事として( ハリス )が着任。通商を要求する。 1858年  老中首座の堀田正睦~ほったまさよし~が朝廷に        「如何しましょう」と、お伺いを立てたところ、外国と通商などもってのほか!と拒絶され、        幕府の権威を失墜させる。         井伊直弼が大老となり、アメリカと( 日米修好通商条約 )を結ぶ。        ( 安政の大獄 )で、橋本左内、頼三樹三郎<頼山陽の息子>、吉田松陰らが死刑、        徳川斉昭らが謹慎となる。 1860年  条約批准のため、新見正興を正使に勝海舟らがアメリカに行く。        桜田門外の変。井伊直弼、水戸藩浪士らに暗殺される。 1861年  孝明天皇の妹和宮が将軍徳川家茂に嫁ぐ<公武合体>。 1862年  ( 坂下門外 )の変。老中安藤信正が、尊王攘夷派の志士に襲われ傷を負うが逃げ切る。          →しかし「逃げるとは武士の恥」と弾劾され老中を罷免される。 1863年  ( 長州 )藩が外国船を( 下関 )で砲撃。         高杉晋作が( 奇兵 )隊を設立。        ( 薩英 )戦争。生麦事件の報復にイギリスが鹿児島を砲撃。薩摩藩の意外に手強い抵抗に、         イギリスが少し考えを改め、薩摩藩の支援をおこなうことにした。         ( 八月十八日 )の政変。公武合体派の公家達が、三条実美ら長州藩寄りの尊王攘夷派公家を追放。         これを七卿落ちともいう。 1864年   フランスの公使として( ロッシュ )氏が着任。後に徳川慶喜の顧問として全面支援を行う。         ( 池田屋 )事件。尊皇攘夷派志士を取り締まる、新撰組が志士達を襲い、大打撃を与える。           ( 禁門 )の変。長州藩士達が上京し、会津・薩摩藩の連合軍に敗れ去る。蛤御門の変とも。          幕府、第一次長州征伐を開始。          下関砲撃事件の報復として、イギリスなどの四国連合艦隊が下関を砲撃。長州藩、幕府と四カ国に謝罪をする。 1866年   坂本龍馬らの仲介で薩摩藩と長州藩が、秘密裏に軍事同盟を結ぶ。これを( 薩長同盟 )という。 1866年   幕府、第二次長州征討を開始。しかし、将軍徳川家茂の死去と、小倉藩が長州藩に敗北したため         新将軍となった徳川慶喜が中止させる。 しかし、幕府権威は失墜。 1867年   前土佐藩主・山内豊信が、幕府に朝廷に政権を返してはいかがという( 大政奉還 )を建白。         慶喜、これを了承すし、朝廷に奏上する。 ところが、同日に薩長に倒幕の密勅がくだる。         ( 王政復古の大号令 )・・・天皇中心の新政府が樹立が宣言される。同時に小御所会議が開かれ、         慶喜に対し、官位辞退と領地返上を命じる。 大日本史年表(明治時代) 1868年   旧幕府軍が新政府に攻撃開始。          鳥羽・伏見の戦いが起こる。         これにより( 戊辰 )戦争と、くくられるものが始まる。               新政府、徳川慶喜追討令をだす。これに対し慶喜は恭順し。江戸城を開城し、水戸に退去する。          新政府が( 政体書 )を制定し、太政官七官両局の制ができる。          会津藩など周辺各藩が( 奥羽越列藩 )同盟を結成し、新政府に対抗。しかし、敗北。          江戸を東京に改称。          一世一元の制が定められ、天皇1人につき1つの元号とする。そして、明治と元号が改められる。 1869年   東京に遷都。          五稜郭の戦いで反政府軍の総大将( 榎本武揚 )が降伏。ここに戊辰戦争が終結する。         人民と土地を藩から天皇に返しますという( 版籍奉還 )が薩長土肥の4藩主の提案という形で実行される。藩主はそのまま知藩事としてのこる。          蝦夷地を北海道と改称。( 開拓使 )という役人がおかれ、北海道開発を進める。初代は黒田清隆。 1870年   衆議院と工部省ができる。                     平民が名字を名乗れるようになる。         ( 岩崎弥太郎 )が三菱の原型である( 九十九商会 )を設立。 1871年   藩を完全にやめて県をおくという         ( 廃藩置県 )が行われる。          →旧藩主は華族として東京へ行くことに。          初の対等条約である( 日清修好条規 )が          結ばれる。          政府の使節として( 岩倉遣外使節団 )が         欧米各国へ出発する。         ( 前島密 )が郵便制度を開始。          金本位制・円銭厘の十進法を定めた         ( 新貨 条例 事业单位人事管理条例.pdf信访条例下载信访条例下载问刑条例下载新准则、条例下载  )が制定される。  1872年   琉球王国を琉球藩にする。         ( 太陽 )暦を採用する。         ( 田畑永代売買の禁 )を解禁し、田畑の売買を自由化する。          新橋・横浜間に( 鉄道 )が開通する。          官営( 富岡 )製糸場ができる。          国立銀行条例が発布される。 1873年   徴兵令が発布される。          仇討ちの禁止。          岩倉遣外使節団が帰国。          西郷隆盛・板垣退助・江藤新平ら、韓国へ出兵し士族の不満をそらそうという( 征韓論 )を唱え、          岩倉具視の策謀で敗北し、辞職する。なお、西郷隆盛としては韓国の開国をさせたかったという想いが          あったらしいが・・・。一方で、ナショナリストという意見も。          大久保利通の主導で( 内務 )省が設置される。          地租改正。年貢をやめて、土地の評価額の3%を支払うことを命じる。          →これに農民達が各地で一揆を起こす。 1874年   板垣退助ら( 愛国公 )党を結成。また、同時に国会を開けと明治政府に対し( 民選議院設立 )         の建白書をだす。          福沢諭吉らが( 明六 )雑誌を創刊する。         ( 佐賀 )の乱。江藤新平を担ぎ出し、士族が反乱を起こす。敗北して江藤は死刑になる。            板垣退助、今度は( 立志社 )を設立。         ( 征台 )の役。西郷従道(隆盛の弟)ら、沖縄の漂流民が台湾で殺されたことを口実に台湾に出兵する。          北海道において( 屯田 )兵制度が定められる。 1875年   板垣退助、今度はさらに( 愛国 )社を設立。          元老院・大審院ができる。         讒謗律・新聞紙条例が制定。         朝鮮に余計なちょっかいをだした、( 江華島 )事件が起きる。 1876年   ( 日朝修好 )条規が結ばれる。          金禄公債証書発行条例、いわゆる( 秩禄処分 )が行われ、士族に対して俸禄の支給をうち切る。また、廃刀令も出る。          神風連の乱・秋月の乱・萩の乱など士族の反乱が相次ぐ。 1877年   士族に推された西郷隆盛らが鹿児島で反乱。( 西南戦争 )が起こり、鎮圧される。隆盛は自害。          農民反乱を恐れ、地租を( 2.5 )%に軽減。 1878年   ( 紀尾井坂の )変。大久保利通が暗殺される。          日本文化を海外に紹介することになるアメリカ人の( フェノロサ )が、東京大学教授になる。 1879年   琉球藩を沖縄県とする。これを( 琉球処分 )という。         ( 植木枝盛 )が民権自由論を著す。          アメリカ的教育制度を参考に教育令が出る。          モースが大森貝塚についての調査結果を発表する。 1880年    国会を開けという( 国会期成 )同盟が結成される。          ( 集会 )条例が出る。これにより集会がしにくくなる。 1881年    北海道( 開拓使官有物払い下げ )事件がおこる。 つまり、官と民の癒着。不正に官有物をながす。          大隈重信がこれを暴露。これに怒った伊藤博文らにより罷免される。これを( 明治十四年の政変 )という。       国会開設の勅諭がでる。これに呼応して板垣退助らが( 自由 )党を結成。          松方正義蔵相が、歳出削減と増税と紙幣の整理・日本銀行設立などを柱とした、いわゆる( 松方財政 )を行うが、インフレになる。          ハワイ王国が日本との不平等条約を改正し、対等条約にする。日本にとって初めての対等条約。        華族が中心となって( 日本鉄道 )株式会社<今の東北本線>を設立。 1882年    大隈重信が( 立憲改進 )党を結成。( 福地源一郎 )が政府支持の立憲帝政党を結成。         ( 壬午 )事変。朝鮮で反日暴動が起こる。朝鮮政府は日本と( 済物浦 )条約を結び謝罪。          渋沢栄一が( 大阪紡績会社 )を設立。渋沢は、日本のあらゆる産業の基礎を築く。ちなみに、ひょんなことから徳川慶喜の家臣となり、慶喜が将軍の頃、幕府の使節としてヨーロッパに送ってもらったことが大きく影響しているだろう。渋沢自身、朝敵となった慶喜の名誉回復に尽力している。          中江兆民が( ルソー )の著を訳した( 民約訳解 )を出版。          ( 福島 )事件。県令三島通庸が道路工事に強制労働をさせて事に対し、自由党員の河野広中らが抵抗する。 1883年    鹿鳴館が完成。 1884年    外国の憲法などを調査する( 制度取調 )局が設置される。          ( 加波山 )事件。自由党員が県令・三島通庸暗殺を計画し、蜂起するが鎮圧される。          ( 秩父 )事件。困民党を名乗る3000人のグループが蜂起して鎮圧される。          自由党解党。          ( 甲申 )事変。朝鮮で親日派の独立党が蜂起。 1885年    清と( 天津 )条約を結ぶ。          ( 大阪 )事件。( 大井憲太郎 )らが朝鮮の独立党を支援しようとして逮捕される。          初めての内閣、( 伊藤博文 )内閣が成立。          坪内逍遙が( 小説神髄 )・当世書生気質を著す。 1886年    星亨が( 大同団結運動 )を唱える。          ノルマントン号事件。 1887年    保安条例がでる。          二葉亭四迷が( 浮雲 )を著し、言文一致体を提唱。          徳富蘇峰が( 民友社 )を結成。          岡倉天心とフェロノサが( 東京美術 )学校を設立。 1888年    三宅雪嶺・志賀重昂らが( 政教社 )を結成。 1889年    黒田内閣の下で大日本帝国憲法が公布される。同時に黒田首相は、政府は議会に左右されないという( 超然 )主義をとる。 1890年    板垣退助が立憲自由党を結成。翌年自由党に改称。      足尾鉱毒事件。翌年、田中正造が足尾銅山周辺の惨状を天皇に直訴したが失敗。     教育勅語が出る。井上毅<こわし>と( 元田永孚 )<もとだえいふ>が起草。 1891年    大津事件。来日中のロシアの皇太子<後の最後のロシア皇帝・ニコライ2世>が警備の巡査に斬りつけられ負傷。 1892年    北里柴三郎が( 伝染病 )研究所を設立。 1893年    北村透谷ら( 文学界 )を創刊。 1894年   ( 甲午農民戦争 )が朝鮮で起こる。          陸奥宗光外務大臣の下でイギリスと( 日英通商航海条約 )が結ばれ、領事裁判権が撤廃。各国もそれにならう。          ( 日清 )戦争勃発。 1895年    日本の勝利で( 下関条約 )が清と結ばれる。          日本軍が朝鮮でクーデターを起こし、反日派の閔妃を殺害する。   三国干渉で日本は、清から獲た遼東半島を返還することになる。ロシアがそこを租借。 1897年    ( 高野房太郎 )らが労働組合期成会を結成。 1898年    自由党と進歩党(96年に大隈がつくる)が 合同 劳动合同范本免费下载装修合同范本免费下载租赁合同免费下载房屋买卖合同下载劳务合同范本下载 し憲政党を結成。第1次大隈内閣の成立。          しかし、内部がうまく結束できず、尾崎行雄文部大臣が( 共和 )演説<仮に日本が大統領制で          あったら・・・・と、天皇制のない状態の日本を仮定して演説した>こともあり、解党する。          要は、仲が悪かったんです。          ( 片山潜 )らが社会主義研究会を結成。 1899年    横山源之助が( 日本之下層社会 )を著す。 1900年    ( 治安警察 )法が発令。          義和団の乱。清で排外運動が起こり、日本を中心に各国が出兵し鎮圧。           伊藤博文、( 立憲政友会 )を結党し、議会へ乗り出す。           与謝野鉄幹ら雑誌( 明星 )を創刊する。 1901年    片山潜・幸徳秋水ら( 社会民主 )党を結党するも、その日のうちに禁止となる。          田中正造が、足尾銅山鉱毒問題を天皇に直訴するも失敗。          ( 高峰譲吉 )がアドレナリンンの特許を取得。           八幡製鉄所が操業開始。 1902年    第1次( 日英 )同盟が締結される。          木村英<ひさし>が、緯度変化のZ項を発見する。 1904年    日露戦争勃発。           日本が韓国に( 日韓議定書 )を結ばせる。          ( 長岡半太郎 )が原子のモデルを発表。すごいなあ。 1905年    日本海海戦で東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアの( バルチック )艦隊を破る。          日本とアメリカが、それぞれの権益を認めあった( 桂・タフト )協定を結ぶ。          日本とロシアが講和を決めた( ポーツマス )条約が結ばれる。日本側の全権大使は( 小村寿太郎 )で、ロシア側の全権は ( ヴィッテ )である。なお、この人物は世界史でもロシア帝国の首相として登場。           上記の条約内容<賠償金獲得できず>に腹を立てた民衆が( 日比谷焼き打ち )事件を起こす。           第2次日韓協約が結ばれ、韓国の( 外交 )権がなくなる。           韓国を管理する( 韓国統監 )府が設置され、初代統監に( 伊藤博文 )が就任。           夏目漱石が「吾輩ハ猫デアル」を発表。 1906年    堺利彦ら( 日本社会党 )を結党。何故結党できたかというと、時の西園寺首相が社会主義にも          理解があったから。           鉄道国有化法が公布。これにより全国の主要な地方鉄道路線が国有化され、鉄道省の管轄に          おかれる。なお、国鉄の名称になったのは戦後。           満州において( 南満州鉄道 )株式会社が設立され、この地の経済を支配するようになる。           →初代総裁は( 後藤新平 )。 1907年    韓国皇帝がハーグ平和会議に密使を送り、韓国の窮状を訴えたことを問題とし、伊藤博文統監が          韓国政府に責任を追及する。           就学率が( 97 )パーセントを超える。 1909年    伊藤博文がハルピンで韓国の愛国家( 安重根 )に暗殺される。しかし、これが逆に韓国併合へ・・。 1910年    ( 大逆 )事件。幸徳秋水らが天皇を暗殺しようとしたとして逮捕され、処刑。           韓国併合。韓国を朝鮮と改称のうえ、朝鮮総督府が設置される。初代総督は( 寺内正毅 )。 1911年    児童就労などの規制を盛り込んだ( 工場 )法が、資本家の猛反対の中、内容が不十分ながらも           公布される。しかし、それでもある程度の歯止めの効果があった。 1912年    明治天皇没。乃木希典夫妻殉死。
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分类:初中语文
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