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羅振玉的新学和経世 羅振玉における「新学」と「経世」 銭     鴎 まえがき 羅振玉(1866~1940)の名は、殷墟甲骨文字をはじめとして、敦煌写本、 漢・晋木簡、内閣大庫明清資料など、20世紀中国のいわゆる四大発見のすべ てと深く関わった唯一の学者として、また甲骨、銅器、石刻、陶器、明器、 書画、古籍の収集家としても、広く知られている。王国維がかつて「参事夙 以収藏雄海内、其天津之嘉樂里第有殷時甲骨数萬枚、古器物数千品、魏晋以 降碑誌数十石、金石拓本及経籍各数万種、實三古文化学術之淵薮」(「庫書楼 記」、19...

羅振玉的新学和経世
羅振玉における「新学」と「経世」 銭     鴎 まえがき 羅振玉(1866~1940)の名は、殷墟甲骨文字をはじめとして、敦煌写本、 漢・晋木簡、内閣大庫明清資料など、20世紀中国のいわゆる四大発見のすべ てと深く関わった唯一の学者として、また甲骨、銅器、石刻、陶器、明器、 書画、古籍の収集家としても、広く知られている。王国維がかつて「参事夙 以収藏雄海内、其天津之嘉樂里第有殷時甲骨数萬枚、古器物数千品、魏晋以 降碑誌数十石、金石拓本及経籍各数万種、實三古文化学術之淵薮」(「庫書楼 記」、1922年、『観堂集林』巻23)と述べたように、羅振玉の一生は文物・古 籍の発見、収集、研究など、一人の人間の仕事とは信じられないほど広い範 囲に及び、130種余りの著書、400種余りの公刊書を残した。 羅振玉は、明治の終わり頃(1911)日本に渡り、当時の日本の学術界とも 大きな関わりをもち、また彼が日本に渡る前においても、実は明治日本の学 術文化と密接な関わりがあったのである。それについて筆者はほかの論文の 中ですでに検討したことがあるから、ここでは直接に触れないつもりである。 この論文では、まず務農会と『農学報』(1)から書き始め、羅振玉という学者 の人生を渡日前の時期まで追跡しながら、そこに清末の学術文化と社会改革 の相関関係を探り、中国近代文化変容のありかたを考察してみる。 羅振玉における「新学」と「経世」 71 「言語文化」1-1:71-103ページ 1998. 同志社大学言語文化学会 ©銭  鴎 第一章 務農会・『農学報』の成立の諸要素  第一節 日清戦争後における学会・新聞・訳書のブーム 1815年、イギリス宣教師 Robert Morrison がマレーシアで創刊した月刊誌 『察世俗毎月統記傳』は、近代最初の中国語雑誌として知られている。続い て1827年、ポルトガル商人がマカオで発行した中文英文合巻の『依¯雑説』 は、中国領土で出された最初の新聞である。また、1833年、中国大陸で出版 された最初の中国語雑誌も、やはりドイツ宣教師 Charles Gützlaff が広州で 發刊した『東西洋考毎月統記傳』であるという(2)。このように、中国の近代 的新聞雑誌の歴史の開始は、すべて外国の宣教師あるいは商人の手によるも のである。言い換えれば、近代的な新聞雑誌というものは、まず近代の西学 東漸の気運に従って現れたといえよう。 アヘン戦争(1840)の後、『南京条約』などの不平等条約によって、宣教 師たちの活動は南洋から香港、広州、廈門、上海、寧波へと広がり、それに 従って西洋書籍の翻訳と新聞雑誌の刊行も盛んになった。1860年代、清政府 の対外政策が大きく変化し、かの有名な洋務運動が勢いよく展開されること になった。新式学校、新聞雑誌及び西洋書籍の翻訳出版機構は、それまで宣 教師たちの手によるものしかなかったが、60年代に入ってから中国人の手に よるものも次第に現れた。そして西洋書籍の翻訳・出版も従来の教会系統の 廣学会、美華書館、益智書会などのほか、中国国立、公立系統の上海江南製 造局翻譯館、京師同文館などが設立された。清政府のこうした方針は西洋の 学問の輸入に拍車をかけ、新しい知識と学問も次第に通商貿易港から付近の 地域の基層にまで影響を及ぼしていった。これは1890年代の変法維新の運動 にとっても、西学の社会的浸透にとっても、意義深いものである。 アヘン戦争以来、もはやゆっくり眠っていられなくなった中国は、日清戦 争という青天の霹靂によって、やっと目醒めたのである。国家の運命に対す る危機意識は、光緒帝をはじめとする統治集団から知識階層の下層にまで広 72 銭     鴎 がっていく。すでに暗中模索を始めていた中国の改革は、いきなり舞台の正 面に押し出されることになった。 1895年4月、『下関条約』調印の知らせが伝わってくると、当時北京での 「会試」に参加していた康有為・梁啓超などは、各省からきた挙人の千三百 人を集め、かの有名な「公車上書」を上奏し、「拒和」「遷都」「変法」を要 求する。こうして康有為・梁啓超・厳復などを代 关于同志近三年现实表现材料材料类招标技术评分表图表与交易pdf视力表打印pdf用图表说话 pdf とする維新派は、皇帝に 上奏して上から下への政治改革を図ろうとしながら、他方民間においては、 新聞雑誌及び学会の創設を懸命に主張していた。同年、康有為・梁啓超らは 北京で「強学会」を作り、『万国公報』、『中外記聞』などの雑誌を刊行し、 また当時開明派と見られた、地方で実力をもつ大臣張之洞を説得して、上海 にも「上海強学会」を発足させ、更に『強学報』を創刊し、大いに「達民隠、 開民智」を主唱した。1896年8月、上海における維新運動の中で言論の主役 を演ずることになった『時務報』の創刊は、その高潮を代表する。学会・新 聞・雑誌に関して維新派の主張は、『時務報』の主筆を担当する梁啓超の論 が最も代表的である。例えば、国事に対する新聞の重要性について、梁啓超 が 去塞求通,厥道非一,而報館其導端也。無耳目無喉舌,是曰廢疾。今 夫萬国並立,猶比鄰也;斉州以内,猶同室也。比鄰之事而吾不知,甚 乃同室所為不相聞問,則有耳目而無耳目;上有所措置不能喩之民,下 有所苦患不能告之君,則有喉舌而無喉舌。其有助耳目喉舌之用,而起 天下之廢疾者,則報館之為也。(「論報館有利於国事」『時務報』第一冊、 1896年8月9日) と論じ、また西洋の新聞の内容と形式を「言政務者可閲官報,言地理者可閲 地学報,言兵学者可閲水陸軍報,言農務者可閲農学報,言商政者可閲商會報, ……」と紹介している。つまり学会にせよ新聞雑誌にせよ、その役割は則ち 羅振玉における「新学」と「経世」 73 情報の流通である。それによって政治的には官民間の通達(主に民の国家政 治への参加を意味する)を図り、学問的には相互の刺激(主に知の新たな交 流)を促すというのである。維新派にとっては、学会・新聞雑誌などの文化 事業は、直接に軍事・経済などの発展には役に立たないものの、政治の刷新、 国家の富強、民衆の啓蒙、知識の進歩のすべてと関わる「智」における「自 強」策として考えられている。 『時務報』の提唱する「変法」「自強」の議論は、士大夫、読書人の間に 多大な反響を呼び起こし、直ちに世に広がった。『万国公報』・『強学報』 などは間もなく発禁されたが、維新・自強の思想は人心に染み込み、多くの 人々が漸く中国の危機は「物質」ではなく、「人間」にあるのだと悟った。 そして学会・新聞雑誌及び翻訳出版は、それに有効かつ重要な手段と見られ るようになる。こうした気運の中で、学会の設立・新聞雑誌の刊行と翻訳出 版がブームとなって全国に広まっていった。 たちまちのうちに上海は全国に於ける新しい学問の中心地となったのみな らず、維新変法運動の重要な発信地ともなったのである。羅振玉が期せずし て足場を上海に求め、やがて学会・雑誌を志向したのも、まずそうした時代 の気運に応じて出発したものと考えられる。このような歴史的な大きな変動 の時期にあたって、科挙のみしか可能性のなかった時代には想像もできない ような大きな世界が、彼のような科挙に門前払いされた知識人の眼前に広が ったのである。 第二節 羅振玉の「経世」・「新学」の志向とその時代 羅振玉は、少年時代から経史・考証学・古器物に対して深い興味をもって いた。19歳の年、2回目の「郷試」に合格できず、故郷の淮安で家庭教師を しながら、余暇を利用して経史・金石学・考証学を研究し、早くも『讀碑小 箋』『存拙斎札稿』などの著述を著した。『存拙斎札稿』は、当時碩学として 知られた兪¢によって、その『茶香室筆記』に引用されたこともある(3)。 74 銭     鴎 30歳になるまで家庭教師の職に就かざるをえなかったのは、16歳の時から 家庭の経済状態が悪くなったためである。しかし羅振玉は家庭教師のかたわ ら研究に従事するというような生き方に満足できる人物ではなかった。後年 顕著になる古籍・文物に対する「傳世之志」に劣らないほどの「経世之心」 を、彼は青年時代から抱いていたのである。晩年、彼は自伝『集蓼編』の中 で、青年時代の自分を次のように述べている。 然是時年少氣盛,視天下事無不可為,恥以經生自u,頗留意当世之故, 雖處困,志不稍挫,好讀杜氏『通典』及顧氏『日知録』,間閲兵家言及 防河書。(6頁) しかし、当時の中国において、羅振玉のように科挙にも合格できず、官位 を買う資金も持たない無名の青年たちは、たとえ「経綸満腹」であっても、 「士」の列に加えてもらうことさえできず、つまりは「経世」の資格すら与 えられなかったのである。 ところがこのような局面は、彼の30歳の頃に大きな変化のきざしがあらわ れた。ちょうど30歳の時に日清戦争が終結したが、その戦争における中国の 敗北は、知識階層を中心とした多くの人々に、自分がなんとかして国家の運 命と関わっていきたいという「経世」の願望を強く刺激することになった。 故郷でしがない家庭教師をしていた羅振玉にも、時代の新たな動きに乗じて、 新たな可能性が開けてきたのである。1896年5月、彼が父に送った手紙には 兒自前年從事輿地時務各学,功夫未深,深恨後時……徐州地方僻甚, 銅山竟設学堂,陶仲翁(陶名未詳、銅山知県)可謂知所「当務」。刻紹 郡亦設学,兒前致書越中友人徐以 孝廉(維則)、蔡鶴 太史(元培) 等,勧其請於当道,設法開創。渠等果以兒説進紹守霍子芳,近霍太守 已鳩資将集事矣,……人材日衰,皆由於不立学堂之故。(羅継祖『庭聞 羅振玉における「新学」と「経世」 75 憶略――回憶祖父羅振玉的一生』13頁、吉林文史出版社、1987年) と述べている。彼は自らも「輿地」「時務」などを学び、自分と同じ思いを もつ青年達を糾合し、故郷で西学の学堂の設立、つまり新式教育の実践を企 てようとしている。そのことについて、後に孫の羅継祖氏が次のように紹介 している。 這時淮安地方上也随着時局有了新的変化,計劃開設一個西学書院,開 算学・輿地・時務・外国語文四科,聘劉渭清教算学・外文,祖父教輿 地・時務,原擬両教習各歳脩四百金,後以無従籌費,僅設一算学義塾, 應付場面。(同上) そもそもこの時代に於ける「経世」は、どういった課題に直面しているの であろうか。アヘン戦争のころから次第に顕在化して、日清戦争後にいっそ う著しさを加えてきた植民地化によって、中国は「亡国滅種」の危機に直面 していた。旧来の伝統を守るだけの「保国」は、もちろん中国を救う手だて にならない。洋務運動による軍事・工業の「近代化」の夢も日清戦争によっ て泡のようにはかなく消えた。そこで、中国はもっと大胆な、洋務運動の反 省に裏付けられた新しい改革の構築に迫られていた。この「新しい改革」こ そは、すなわちこの時代の「経世」の大きな課題にほかならない。羅振玉が 故郷で西学の学堂を設立しようとした構想は、正にこうした時代の課題に即 した「経世」の試みであった。 この新しい改革、すなわち「新政」としての「経世」には、それを担う人 材が必要であり、その人材を育成するためには新しい学問、すなわち「新学」 が必要である。羅振玉はこうした「必要」に応じてまず「新学」を志向した のである。それについて、『集蓼編』には日清戦争直後のこととして、 76 銭     鴎 時我国兵事新挫,海内人心沸騰,予亦欲稍知外事,乃從友人借江南製 造局譯本書讀之。……予窃意西人学術,未始不可資中学之助,時窃讀 焉。(9頁) と書かれている。前の手紙と合わせて、羅振玉の西洋学問への注目、そして それを自分の志向する「経世」の中に取り入れようとする意志は、これら二 つの資料の時期から分かるように、やはり日清戦争の終結した頃から始まっ たと考えてよいだろう。さらに上記の手紙とほぼ同じ時に父に宛てた他の一 信には、 浙省徐季和(致祥)宗師為守旧党之翹楚,談及西学,輒斥為用夷変夏, 以前劾合肥張孝帥,皆以其崇尚西学。其不達世情如此,兒春間即往就 試亦必遭斥也。(出所同上信) と、浙江省の学使徐致祥という洋学を排斥し、時勢に通じない頑迷固陋な保 守派を批判し、たとえ自分が試験(科挙)に応じたとしても排除されるに違 いないだろうといっている。ここにおける羅振玉は、従来の科挙制度に反発 し、西洋の学問知識を主とする「新学」や、変法・維新に憧れていた一人の 青年であり、彼の中・晩年におけるイメージとはかなり異なる。 アヘン戦争の終わった頃から広まりつつあった西学は、日清戦争を機とし て、格段の高まりが見られるようになった。しかし、一部分の開明的士大夫 及びそれに影響された読書人を除けば、その高まりは量的にも質的にも、一 体どの程度までに浸透したものであったかは、まだ十分に明らかでない。例 えば、『集蓼編』の上記の「乃從友人借江南製造局譯本書讀之」に続いて、 「先妣斥之曰,汝曹讀聖賢書,豈尚有不足,何必是,且我幼年聞長老言五口 通商事,至今憤痛,我實不願汝觀此等書也」(9頁)と述べ、西洋の学問を 学ぶことは母に反対されたから、西学の訳書をひそかに読んでいたというこ 羅振玉における「新学」と「経世」 77 とも記されている。また、上記の彼が父に送った手紙の「近霍太守已鳩資将 集事矣」の後にも、「近人談及洋人,恨之至骨,絶不知西人法制之美,学業 之精,安於固陋」と、当時の一般的情況に言及している。つまり新学を志向 した羅振玉は、それをこころよく思わない人々に囲まれていたことになる。 そうした情況のなかにあって、羅振玉は近代に目覚めた最もはやい先覚者と はいえないものの、やはり時代の最前列に立った一人であった。 では、ここで羅振玉の思う「未始不可資中学之助」の「西人学術」は、具 体的にどのような方向のものであったのか、それをさらに探求しなければな らない。上に引用した自伝の記載から、羅振玉が読んだ西洋学術の訳書は江 南製造局の翻訳した系統のものであることが分かる。よく知られているよう に、江南製造局の訳書とは、1860年代の洋務運動の中で、主に軍事工業に応 じるために企てられた翻訳事業である。その翻訳の内容は、軍事工業と関わ る自然科学技術の書が圧倒的な量を占め、ほかに農業・歴史地理関係のもの も少量ながらある。そのことから羅振玉が関心をもった方向はおのずから明 らかであろう。西洋の学問に彼がはじめて触れた時には、自然科学・農業・ 歴史地理関係の翻訳しかなかったのだ。また、上記の父に送った手紙にも、 日清戦争の直後に「輿地」「時務」の学を学んでいたと記している。「輿地」 というのは、当時にすでに紹介されつつあった西洋の地理・地誌の学を指し ていると推測される。「時務」は、いうまでもなく、時の現実に役に立つ学 問知識や仕事のことである。つまり羅振玉が志向したのは、新しい実学とし ての「新学」にほかならない。 西洋との最初の出会いがこのようであったことは、彼の西洋受容のかたち を決定したとさえいえるかもしれない。以後も彼は西洋の学問、文化を全体 として理解することはついになく、実学としての面しか受け入れなかった。 中国の学問に対しては伝統の総体を受容した彼にとって、西洋の学問は中国 と同等にはなりえないものだったのである。 羅振玉が故郷の淮安で西学学校を設立しようとした構想は、結果としては 78 銭     鴎 経費の問題のために実現することができなかった。しかし実学としての「新 学」を以て近代的な知識の啓蒙を図ろうとする「経世」志向は、明確な意志 として彼のなかに根付き、実現のための別の機会を待つことになる。 第三節 維新運動における農業近代化の要求 ひたすら軍事・工業の近代化を強調した洋務運動に比べて、維新運動期の 「富強」策は、もっと幅広い範囲にまで及んでいた。そこでは農業近代化の 課題も検討にのぼってきたのである。例えば、康有為の「上清帝第二書」 (1895年)では、農業に対してもかなり重視している。 養民之法,一曰務農,二曰勧工,三曰恵商,四曰恤窮。天下百物皆出 于農,……外国講求樹藝,城邑聚落,皆有農学会……吾地大物博,但 講之未至。宜命使者擇其農書,遍於城鎮設為農會,督以農官,農人力 薄,国家助之。 ここに表れている農業重視は、伝統的な農業を「本」と見る発想だけでは なく、西洋の先進的農業科学技術の吸収によって中国農業の近代化を図ろう としたもので、つまり農業を維新変法・近代化改革の一環とみなしているの である。維新運動のもう一人の思想的リーダー梁啓超も、「西書提要農学總 叙」(『時務報』第七冊、1896年10月)を草し、 今之譚治国者,多言強而寡言富。即言富国者,亦多言商而寡言農。舎 本而圖末,無惑乎日即於貧,日即於弱也。西人言農学者,国家有農政 院,民間有農学会,農家之言,漢牛充棟。中国悉無譯本,祇有『農学 新法』一書,不及三千言,…… と、大いに欧米の農学書籍を翻訳し、欧米の先進的農業技術を導入すること 羅振玉における「新学」と「経世」 79 によって、中国の農業を振興しようと主張している。ここに明らかに述べら れているように、維新派が農業振興を唱えているのは、中国と違って西洋に おいては農業がはなはだ活発であることに刺激を受けたのである。そしてそ の西洋に関する情報は、先に述べたように教会を中心に盛んに発行されてい た雑誌を通して得られたものであった。ここから西洋人の刊行物が中国の近 代化に与えた力を知ることができる。それは日清戦争に敗北したことがもた らした刺激と相並ぶ、重要な影響を与えたのである。 維新運動の農業近代化の主張は、当時「新学」「新政」に憧れていた青年 羅振玉が農学の啓蒙事業に身を投じるのにも、大きな影響を与えたに違いな い。 しかしながら、羅振玉は晩年に書いた自伝『集蓼編』の中で、 予既至上海,見士夫過滬江者,無不鼓掌談天下事,而時務報専以啓民 智伸民権為主旨。予與伯斧私議,此種議論,異日於国為利為害,是未 可知。且当時所謂志士者,多浮華少實,顧過滬時,無不署名於農社以 去,是宜稍遠之。 (9頁) と、上海時代に維新思想、維新派たちに対して自分が如何に対立的な感情を もっていたか、しきりに強調している。確かに時間の推移につれ、彼と維新 思想との差異は次第に明らかになるのであるが、しかし日清戦争の直後の、 変法維新の気運が高まっていった時期において、実際の羅振玉は『集蓼編』 の中に描かれた自画像とはかなり異なる「時務」青年であった。その最大の 証明は、彼が故郷を離れ、新学を求めて上海に向かい、当時の維新事業に参 加したことである。羅振玉のこのような姿は、その時父に送った手紙の中の 「穣卿與兒旧交、所著『時務報』切中時弊、為中国最佳之報紙、留心時事者 必不可不讀」(羅継祖の前掲書14頁)という一段にも反映しているし、また 当時上海の『時務報』総理の汪康年に宛てた手紙からも、その一斑を窺うこ 80 銭     鴎 とができる。 竊以中国千餘年之積習,皆坐人心錮蔽,才智不出。今欲開錮閉,則興 学校為要圖,而開学校之先聲,則報館為尤急。竊以閣下此挙實握開風 氣之樞紐,為之驚喜欲狂。比報張出,得讀偉論,曁梁卓如先生諸議, 辭理併優,三長兼擅,沈痛深摯,語語中肯,奇才奇才,能毋拜服。弟 流庸淮浦,録録無寸長,行年三十,精力半耗於經史考據之中,比来憬 然有悟,已有遅暮之慨。……昨與敝友蒋伯斧参軍議中国百事皆非措大 力所能為,惟振興農学事,則中人之産,便可試行。……(『汪康年師友 書札』3、3152頁、上海古籍出版社、1987年) つまり、故郷で家庭教師をしていた羅振玉は、高揚していく維新運動に鼓 舞され、当時の「啓民智」「興実学」「訳書」「設学会」などの変法自強の主 張に共感し、それまで続けてきた経学や史学などの古い学問とはまったく性 格の異なる方向へ歩み出そうとしていたのである。このように見てくれば、 後年の羅振玉がみずからを語ったのとはまったく違う、やはり時代の子とし ての青年羅振玉の姿が浮かび上がってくる。 第四節 羅振玉にとっての農業  農学に志向することについて、『集蓼編』では次のように記述している。 予少時不自知其_劣,抱用世之志,繼思若世不我用,宜立一業,以資 事畜。念農為邦本,古人不仕則農,於是有学稼之志,……又讀欧人農 書譯本,謂新法可増収穫,恨其言不詳,乃與亡友蒋君伯斧協商,於上 海創学農社,購欧美日本農書,移譯以資考究。(9頁) ここでは、自分が農学に身を投じたことには、「農為邦本」を具体的内容 羅振玉における「新学」と「経世」 81 とする「用世之志」と、「欧人農書譯本」に代表される「新学」の啓蒙、そ れに加えて「宜立一業、以資事畜」という考えも、その契機の一つになった ことが語られている。かつて羅繼祖氏が、祖父の農学志向に就いて次のよう に説明したことがある。 祖父又念「農為邦本」的古訓,中国以農業立国,農業不振是国家貧弱 的主因。……這是為国家打算;又念古人「不仕則農」,自己於科挙已經 絶望,為了仰事俯畜,也要找一個進身之路,這是為自己打算。(羅継祖 前掲書第13頁) つまり、羅振玉の農学志向の中には、国家のためと個人のためという二層 構造が明らかに存在していたのである。 羅振玉16才の時から家の経済は父の質屋経営が破産して膨大な債務を負 い、特に父が亡くなってから、羅振玉は多病且つ無能の兄の代わりにその家 の家計の責任を背負わなければならなくなった。一族の生計を立てるために も、科挙の道が絶たれた自分のためにも、「事畜に資すべき」一業を立てる 必要があった。彼の「経世」の志にせよ、「新学」の志向にせよ、彼の志す 「事業」は、同時に経済的な益ももたらす「職業」でなければならなかった のである。 職業とする事業には、当時他の人々の手によって行われていたように鉱山 を開く、銀行を興す、鉄道を敷設するなど、さまざまな道がありえた。しか しそれらには膨大な資本が必要となる。学校開設ですら、羅振玉は経済的理 由のために断念せざるをえなかったのである。その点、農業は他の実業ほど に大きな利益を得ることは望めないにせよ、彼のような条件にあった人にと って、現実的に可能なことであった。羅振玉自身、そのことは先の手紙(第 三節)のなかで述べていた。「農業を振興する」ことなら、「中人之産」にも 実行できたのである。 82 銭     鴎 かつて(1896年)、同郷の劉鶚が、自分が山西巡撫に謀り、山西に外資で 鉄道を敷かせて、30年後に国有に帰せんと計画していることを書いて、羅振 玉に手紙を送ったことがある。それに対して、羅振玉は「君請開晋鉄,所以 謀国者則是矣,而自謀則疏。万一幸成,而萋菲日集,利在国,害在君也,君 不之審於是。事成,而君漢奸之名,大噪於世」(『五十日夢痕録』、『羅雪堂先 生全集』3編20、8438頁)と述べ、「利は国にあり、害は君にあり」とはっ きり判断を下している。当人のためにならぬというのである。ここからも一 斑を窺えるように、羅振玉は、同じ「時務」・「新政」の業を興すとしても、 決して机上の空論を唱えるような、現実感覚のない人間ではなかった。 また、日清戦争の直後に確かに維新変法の声は一時期言論界をリードし、 朝野を沸かしていたものの、同時に帝党后党の闘争が裏で激しく進み、保守 派の反抗も強いものであった。康有為・梁啓超などが発起した北京強学会・ 『万国公報』・『中外記聞』・上海『強学報』などは次々と閉鎖され、変法 を唱える官吏も続々弾劾され、官を剥奪されたという情報があちこちで流さ れていた。中国の政治状況を熟知していたであろう羅振玉が、自分の行動に 慎重でなかったはずはない。彼が言論界・学界においてほかでもなく農学を 専門とすることを決め、しかも『農学報』に「以明農為主」「不及他事」、ま た「並無論説」といい、もし論議があっても「必有關農学者」と、専門分野 に限定することを強調していることも、上述の「自ら謀る」ことと決して無 関係ではなかろう。農業振興は政治的に「安全」な道だったのである。 このように羅振玉が農業振興に歩みだしたことは、実学、ことに農業の重 視という当時の全体的な気運、そして彼自身においては「新学」「新政」へ の意欲、そして経済的に着手可能であり且つ生計を立てることもでき、さら にそれによって名を挙げることも可能になるといった、様々な要因が働いた 結果であった。羅振玉が農学雑誌発刊に踏み切ったのは、決して偶然の結果 ではなかったのである。 羅振玉における「新学」と「経世」 83 第二章 『農学報』の創刊とその影響 第一節 務農会と『農学報』の開始 羅振玉らが汪康年に上記の手紙を出した約1ヶ月後の1896年の冬、務農会 は汪氏の様々な協力を受け、『時務報』(第13冊、1896年12月5日)に最初の 広告――「務農会公啓」を掲載し、その運営を開始した。「務農会公啓」に は、まず秦漢以来農学は講じらることがなく、農業不振の深刻な状態を述べ、 続いて現在に至っても「近年西学大興、有志之士鋭意工商諸政、而於農学絶 不購求」という偏った近代化方向に不満を表して、自ら「創設務農会以開風 気、以濬利源」との志向を明らかにしている。 それに続いて、「簡要章程」10条を発表する。その「簡要章程」によれば、 務農会の最初の意図は、外国の機械農具を購入し、技師を招き、江浙両省で 農田を購入して実験農業を試みることが主であって、毎年収入の余裕ができ たら農書を翻訳し、『農学報』を刊行することになっている。しかし、この 「務農会公啓」を掲載した翌年4月の『時務報』(第22冊、1897年4月2日) に、また「農会報館略例」を公表した。その中に、 蒙等召集同志創設務農会,本擬開会以後再行設立報館,惟現在經費未 集,同志未多,曠日持久,殊非善策。茲擬先設農会報章,以通消息, 以廣見聞,一俟同志日多,款項稍裕,然後詳訂会中章程,定期開°。 と、最初の方針が改められている。つまり経費と技術の困難が克服できなか ったために、もともと先行するはずだった務農会の定期的な開会と実験農業 の実行は、結局『農学報』の刊行に先を譲ることになった。その経緯につい て、羅振玉の汪康年宛の手紙には次のように書かれている。 今此会欲挙行,誠如尊諭所謂經費難籌及無以取信両端。鄙意莫如先譯 84 銭     鴎 書報,……計一歳之需,不過両千金左右,当可敷衍。書報既出,消息 可通,我輩今日所諮詢於人而各執一詞者,異日可自於所譯書中得之, ……冬月廿五日巳刻。(1896年と推測、『汪康年師友書札』3154頁) つまり羅振玉は、まず農業関係の雑誌を起こし、外国の農書を訳し、各国 及び国内各地の農務情報を伝えるといった、知識の啓蒙教育から始めようと 提言したのである。上の提案直後の1897年3月、羅振玉・蒋黼らが農書の購 入、日本語・英語・フランス語の翻訳担当などの準備を整え、相次いで上海 へ向かって出発した(4)。 羅振玉・蒋黼が上海に着いた翌月、前記の「農会報館略例」を『時務報』 に公表した。その「略例」の中には、次のような四条の「刊報凡例」がある。 一、本報之設,以明農為主,兼及蠶桑畜牧,不及他事。 二、本報用第三号字模,毎月刊報両次,装訂成冊,毎次約三十頁。 三、本報専譯東西農学各報及各種農書。将来開会以後,詳載本会°事 情形,如報章日多,即添人専譯農書,不附報後,以期出書迅速。 四、本報並無論説,如海内同志以撰述見教者(必有關農学者),当擇尤 録登,以備衆覧。 その後また「籌款章程」に「本会銀銭出入統由汪君穣卿主政、凡諸君助款 請逕寄本館、由本館填給本会収条、並送請汪君籤字、以昭憑信」の一条が載 る。それによって、少なくとも次のいくつかの点が確認できる。第一、『農 学報』は創刊当初から専ら農業を研究する純粋な農学専門誌を志向すること。 第二、雑誌の内容に関してはもとより翻訳を中心とする穏健な方針をとるこ と。第三、『時務報』の信用と販売ルートを大いに利用すること。 務農会・『農学報』の開始時期における羅振玉は、交遊も経験も乏しい、 無名の田舎青年である。彼が上海の新聞界・学界に足場を築くために、同志 羅振玉における「新学」と「経世」 85 の糾合、資金の調達、外国情報源の保有、翻訳者の招聘、地方上層官僚の支 持の獲得などを行うには、すべて汪康年を中心とする『時務報』グループに 負わなければならなかった(5)。のみならず、務農会・『農学報』が西洋近代 の先進的な農業科学と技術を導入し、中国農業の近代化を図ろうとする理念 は、『時務報』の変法維新の精神と共通するものであり、康有為・梁啓超な どが主張していた農学振興の全体的な方向とも合致する。『農学報』第一冊 の冒頭に置かれた梁啓超の「序」に、『農学報』の創刊を「在開廣風氣、維 新耳目、譯書印報、實為権輿」と述べているところにも、それは明らかであ る。務農会が最初に発布したあらゆる原稿はすべて『時務報』によって公表 され、しかもそれには度々汪康年の支持的なコメントが附されていたのであ る。それについては、すでに大川俊隆氏が指摘しているとおりである。「そ れよりもやはり羅氏達が、自分達の農学と農業の振興事業を、『時務報』が 進めていた変法自強運動の一環としてとらえていたからであろうと推察され る。汪氏もそのようにとらえたからこそ、自誌を通じての全面的バック・ア ップ体制をとったのであろう。」(注(1)参照)。 かくして1897年5月、羅振玉・蒋黼が発起人となって、汪康年など『時務 報』グループの強い協力を受け、中国における最初の農学専門誌――『農学 報』が、上海で誕生することになった。 第二節 『農学報』の反響 『農学報』は、諸外国、とりわけ日本の農業関係の書籍の翻訳と、農業に 関する制度、教育及び農業技術の紹介を主な内容とし、また国内の農政に関 する諭旨、上奏、及び各地の農事情況の紹介もしていた。『農学報』の形式 は大体『時務報』と同じであるが、ただ内容は農業分野に厳しく限定し、時 事政治を一切議論しない、つまり『時務報』と違って一定のイデオロギーの 主張を含まない。論説を押さえて、翻訳を中心とした、専門性・知識性の強 い雑誌であった。この点においても、羅振玉の見識が窺われよう。このよう 86 銭     鴎 な或る一つの専門分野だけに限定した雑誌は、当時の中国にはほかになかっ た。 務農会の発足、『農学報』の発刊は、たちまちのうちに各界の反響を呼び 起こしたようだ。1896年12月「務農会公啓」が公表された当初、そこに名を 連ねていたのは羅振玉・蒋黼・徐樹蘭・朱祖栄の4人しかなく、出資者とし て挙げられているのも羅振玉・蒋黼の2人にすぎなかった。1897年4月「農 会報館略例」が掲載された際、また4人の出資者が増えた。以後、『農学報』 の「農會題名」「続題名」(6)によると、務農会の会員・出資者は三百人あま りに達した。そこに見える務農会の会員には、汪康年・梁啓超・譚嗣同・黄 遵憲などの維新派のほか、洋務派官僚を代表する人物李鴻章・馬建忠、また 洋学に通ずる名士の徐維則・馬良、旧学碩儒の沈曽植・繆ò孫なども入って いる。更に両湖総督の張之洞・湖南巡撫の陳宝箴など地方の実力派大臣の名 も続々と見えるようになった。このように幅広く政見・系統・学派の異なる 代表的な人物を見事に糾合した民間の学会は、新聞・学会がはなはだ興隆し ていた当時においても、ほかに例を見ない存在であった。 一方では、このような支持層を確保することによって、『農学報』の販売 量は、『時務報』には比べられないものの、徐々に伸びていった。一般の読 者のほか、長江中・下流を中心とした各府・県の地方官僚による公費購入の 命令も次第に多くなった。例えば、『農学報』第五冊(1987年7月)に「杭 州府林太守飭各属購閲農学報並分給各書院札」という記事があり、その中に 茲『時務報』外,又新出『農学報』,討論農田水利,樹藝牧畜,兼取古 今中外良法,最為切實有用。西人之講礦学,費鉅而事難,非有大力不 °,不若農学一門,各郷各鎮,可以挙行。……按月報出,由府封寄, ……此外該県各書院各紳士,並各郷分講善書之処,均勧令廣閲,期以 裨補地方。 羅振玉における「新学」と「経世」 87 と述べ、所属地方・機関に購入及び閲覧を命じていた。また両湖総督張之洞 も 又上海『農学報』,大率皆教人務農養人之法,於土性・物質・種植・畜 牧……確有實用。其一有裨士林,其一有關民生,均為方今切要。(「両 湖督院張咨会鄂撫通飭各属購閲湘学報農学報公牘」、『農学報』第12冊、 1897年10月) と評価している。ほかにも両江総督の劉坤一など、同じ趣意の「購閲」訓令 が多く出されている。 また、当時の士大夫・知識人の残した日記や書簡などに度々『農学報』の 名が見えるのも、一般読者への浸透ぶりを示している。例えば、鄒代鈞の汪 康年宛ての書簡に、 『農学會報』二十一冊都収到,回郷後即可代銷。此報甚好,所譯極佳。 祈為我致意蒋、羅両君,容緩即覆書也。……初十(五月十四到)(新暦 1898年6月28日、『汪康年師友書札』2732頁) と賞賛している。また、葉瀚の汪康年に送った手紙にも「聞古城帯到農学書 甚多、乞示細目、想是農学会所置譯者、此盛業也。」(同上2587頁)と書かれ、 ”性深の汪氏に宛てた手紙に「今晨鐘春翁(善後局委員)邀弟前去,嘱将管 派『農学報』添發四百四十三分,是以特函上達。」と、『農学報』の増購を羅 振玉・蒋黼に伝えるよう汪康年に依頼している。 ここまでの記述からも分かるように、『農学報』は創刊後ほどなく、長江 の中下流を中心とした地域において、かなりの反響を呼び起こしていたに違 いない。 88 銭     鴎 第三節 『農学報』と「百日維新」 1897年、張謇が朝廷に農業・農学を振興する趣意の上奏文を呈し、その中 に羅振玉らの務農会、『農学報』のことを、「中国有志農学者、頗不乏人、近 日上海設立農学会、専譯東西洋農法農書、未始非中国農政大興之兆。」(「請 興農会奏」、『張季子九録・實業録』巻1、5~7頁)と誉め称えていた。今 まで知っている限りでは、これは務農会・『農学報』のことが朝廷への上奏 で言及された最初の例だと推測される。 1898年6月11日(光緒24年4月23日)、光緒皇帝が「詔定国是」の詔書を 下し、「百日維新」が始まった。6月20日(旧暦五月初二日)、御史の曽宗彦 が張謇に続いて、更に務農会の例を挙げて農業の振興と農学購求の奨励を光 緒帝に向かって、次のように奏した。 査江浙紳士,邀集同志於上海創設農学会,兼採中西各法,以樹藝畜牧, 倡導海内,在興利之中,最有實際,毫無流弊,行之一年,尚稍稍有應 之者。惟以二三人士,主持其間,志願無窮,而功力有限,極漸擴充, 則曠日難俟,始勤終怠,則或廢半途。非得明詔鼓舞,藉以風動四海, 区々一農学会,亦恐徒労鮮功,無益大計,……乞明降諭旨,将上海農 学会,亟予激励,或飭地方官,力為保護,或恩賞銀両,不論多寡,以 示特施。(「掌江南道監察御史曽宗彦摺」、『戊戌変法档案史料』、中華書 局、1958年、386頁) それに対して、総理衙門が、検討を経たうえで、7月4日(旧暦5月16日)、 次のように光緒皇帝に転呈した。 所称上海農学会,由江浙紳士創設,行之有効,是風氣業已漸開。惟該 学会何人經理,一切章程未經呈報,無案可稽。應請旨飭下南洋大臣, 査明該紳等姓名,及該会章程,咨送臣衙門備覈。(「總理各国事務奕Æ 羅振玉における「新学」と「経世」 89 等摺」、同上、388頁) その時、変法にある程度の熱意をもっていた光緒帝は、この上奏文を見て、 頗る関心を示し、その日のうちに回諭を下した。 農務為富国根本,亟宜振興,……上海近日創設農学会,頗開風氣,著 劉坤一査明該学会章程,咨送總理各国事務衙門査覈頒行。其外洋農学 諸書,並著各省学堂廣為編譯,以資肄習。(光緒24年5月16日、『農学 報』37冊「上諭五月十六日」;『大清徳宗景皇帝實録』(六)巻420、 3827頁、台湾華文書局) 朝廷・皇帝の注目を受けたことは、羅振玉にとって、言うまでもなく大き な励みとなったであろう。彼がその時父に宛てた手紙には、「農会於上月奉 到南洋傳諭,索取会章,欲頒行各省,中国農事轉機将在於是,不僅草野小臣, 私衷欣慰也」(羅継祖前掲書17頁)と、欣喜の情があふれ出ている。 1898年8月21日(旧暦7月5日)、康有為の提議が採納され、農工商総局 が開設されるようになった。従って、羅振玉らの務農会及び『農学報』の経 験は、ごく自然のうちに、新しく設立された農工商総局の身近なモデルにな ったのである。新設された農工商総局の計画には、農務学校、農学総会、農 学官報の設立や外国の農業機械の購入・外国の技師の招聘・耕種の実験など といった、ほとんど羅振玉らの務農会が出した一連の章程に書かれた内容で ある。これは、「百日維新」期間に督理農工商総局大臣である端方をはじめ とする一連の上奏から窺われる。例えば、「開農学官報」一項においても、 上海前已設有農報,創展風氣,獨具匠心。茲開農学官報,意在與上海 農報館相輔而行。該館獨力經営,備極艱苦,並当力加保護,且可借鏡 得失,互相觀摩。(「督理農工商總局大臣端方等摺」、光緒24年7月19日、 90 銭     鴎 『戊戌変法档案史料』、中華書局、1958年、391頁) と、明らかに計画中の官報が、「創展風氣」の羅振玉らの『農学報』と「借 鏡得失、互相觀摩」せよとの意を示している。このことについて、『集蓼編』 にはさらに 方戊戌新政挙行, 陽端忠敏公,任農工商大臣,鋭意興農,移書問下 手方法,予謂欲興全国農業,当自畿輔始,……因寄畿輔水利書,附以 長函,公閲之欣然,乃先議墾張家湾荒地,(11頁) と記されている。それと農工商総局開設当初における端方の一連の上奏とあ わせてみると、新しく農工商総局の「大臣」になった、しかし農学に全く素 人の端方は、その運営企画を羅振玉に負うところが少なくなかったことは想 像に難くない。 これまで見てきたように、務農会及び『農学報』は、まず維新運動の一環 として発足し、やがて科学技術の発展につれて農業近代化の重要性も広く認 識されていった歴史的背景のなかで、成長していったのである。「百日維新」 の行われた時期に、務農会と『農学報』は一気に頭角を現し、羅振玉は近代 農学を切り開く先駆者として名を朝野に広く知られていく。これは後に彼の 前に仕途の門が開く契機にもなったのである。1900年、羅振玉は張之洞の招 聘に応じて湖北農務局総理兼農務学堂監督の任に就いた。更に1907年、清政 府の留学生の選考に当たって、当時すでに體仁閣大学士・軍機大臣・学部の 主管の任にあった張之洞によって選考官に推薦され、農科及び各科の国文の 試験の採点をしたという(羅継祖『永豊郷人行年録(羅振玉年譜)』32頁、 江蘇人民出版社、1980年)。1909年、中国の最初の農科大学――京師大学堂 農科大学が北京に設立された際、羅振玉は恰も当然のように、あっさりとそ の初代の監督(学長)になった。地方の一「秀才」にすぎなかった無名の青 羅振玉における「新学」と「経世」 91 年が、変動の時流の波に乗ったかのように、一気に駆け上がり、近代農学界 の第一人者として名実ともにその地位を確立したのである。 第三章 羅振玉の早期活動に対する評価をめぐって 羅振玉の『農学報』を基礎とした農業科学技術の啓蒙における功績は、当 時においてその実績が認められたのみならず、中国農学史または農業科学技 術史においても、ことにこの十数年間において、大いに評価されるようにな った。 農学の領域においてのみならず、20世紀中国の四大発見(甲骨文、敦煌学、 漢晋木簡、大庫明清資料)それぞれにおける羅振玉の偉大な業績が高く評価 されている。ところが奇妙なことに、その総体であるところの羅振玉自身に ついては、いまだに評価はかんばしくない。かくも広い分野にまたがってそ のいずれにおいても高く評価されながら、彼自身は評価されないというのは、 どういうことなのか。それには、羅振玉という人の人格、人間性に問題があ るためだろうか。しかしながら、その人となりのいかんによって、学術史、 文化史における評価を決定してしまうというのは、正しい態度とは思われな い。彼の生涯になした多くの仕事を綿密に検討し、その内容・意義・事実関 係を明らかにし、内部と外部における全体関係を十分に理解することは、学 術史そのものの解明にとって必要なことではないか。各分野における成果は、 羅振玉という人間あっての達成であり、羅振玉の全体を対象としてこそ、そ れぞれの分野における意義も理解できるはずだ。 一方でまた、従来の近代史研究においては、維新派 ・洋務派・保守派と いった「派」を単純に図式化しすぎたきらいがある。その判断基準のもとに なっているのは、現在における価値体系を唯一の価値として絶対化する態度 である。「近代」の目からみて、近代のみが絶対の価値であり、近代に合わ ない要素は否定される。それが単純に過ぎる図式化をうながした。具体的に いえば、中国は西洋の近代をいかに受け入れたか、それのみが追跡されてき 92 銭     鴎 た。しかしこうした従来の基準で中国の近代化の本質を捉えきることができ るだろうか。少なくとも、いわゆる革命派・維新派でもなく、保守派・頑固 派ともいいきれない、つまりは「図式」に収まらない、しかしともかく近代 的改革を現実に遂行していた張之洞から羅振玉に至る人々は、評価の目から こぼれ落ちてしまうことになる。たとえば張之洞は梁啓超・孫文とは異なる もう一つの近代のありかた、中国の基本的な伝統を生かしながら西洋を受容 していこうという方向を意図していたが、そうした考え方は従来の近代史研 究においては十分には評価されていない。羅振玉の複雑な思考体系も近代絶 対化の視点では捉えにくいものであった。羅振玉は幼い頃から、中国の正統 的伝統教育を受け、「経史」の学を学んだ世代であった。しかし、彼は新し い時代に眼を向け、世の中の変化を鋭敏にとらえて、諸外国の学問、思想及 び技術を取り入れ、精力的に教育の近代化、農業の近代化を図った。のみな らず、彼の「経史」の学問は、「新古典学」と呼ばれるように、学問の近代 化を内的に実現したものであった。例えば、殷墟甲骨及び内閣大庫史料の発 見、保存、研究は、史学の新たな視点ともっとも深く関わっている。このよ うに、教育などの近代化をめざし、学問の新しい潮流を切り開いたにもかか わらず、彼は革命にあくまで反対し、最後まで君主制を擁護しつづけた。羅 振玉の世代が経験した近代に対して、それが進歩か保守か判断する根拠を 我々は今日まだ見出していないのである。新と旧、西洋と東洋両者の価値と その変容を相互の関連のもとに同時に展望しない限り、中国近代の真の姿を 解明することはむずかしく、ひいては東洋近代のほんとうの歴史的意味も理 解できないのではなかろうか。さらには近代に続く次の文明発展のあるべき 姿を構築することもできるとは思われない。これは中国近代化の研究に課せ られた大きな問題である。 第一節 「百日維新」・「戊戌政変」を経て 『農学報』の発刊当初は、以上のような大きな反響を呼んだのだが、政治 羅振玉における「新学」と「経世」 93 状況のめまぐるしい変化は安穏な日々を与えはしなかった。政変の影響がこ こにも及んだのである。 「百日維新」は文字通り、はなはだ短いものであった。続いて起こった 「戊戌政変」によって、維新派のリーダは虐殺されたり、海外に亡命したり、 官を奪われたりしただけではなく、維新運動に同情した中央から地方までの 多くの官吏も連座した。政変の後、政府が学会・新聞雑誌の設立に対して禁 止令を下し、日清戦争後に雨後の竹の子のようにあらわれてきた各種の学 会・新聞雑誌は、やがて閉鎖されたり、自ら解散したりするような結末を余 儀なくされた。そのことについては、『集蓼編』の中でも「方是時朝旨禁学 会、封報館、海上志士、一時雲散」と言及されている。『農学報』は閉鎖さ れなかったものの、やはりそうした情況の中で衝撃と動揺を経験することに なる。政変後の『農学報』の処置について、『集蓼編』には次のように書か れている。 農報未經査封,予與伯斧商所以處之,伯斧主自行閉館散会,然是時館 中欠印書資,不可閉。予乃具牘呈江督,請将報館移交農工商局,改由 官辧,並託亡友儀徴李鶴儕大令(智儔)面陳劉忠誠公。公曰,農報不 干政治,有益民生,不在封閉之列,至農社雖有乱党名,然既為学会, 来者自不能拒,亦不必解散。……大令為言,雖制軍意在保全,奈財力 不継何,忠誠乃親批牘尾,令上海道撥款維持,滬道發二千元。(10頁) 『農学報』は閉鎖されなかったが、その発起人の一人の蒋黼が、「感於時危」 (上記の引用文)のためであろうが、自ら解散すると主張した。しかし印刷 費の借金がまだ残っているため、羅振玉が両江総督の劉坤一に『農学報』を 官辧に引き渡したいという申し出をした。劉坤一は、『農学報』創刊の当年 に所属の地方に「購閲」の命令を発しており、「百日維新」の時、務農会の 章程・状況を調査して朝廷に報じるよう光緒帝に命じられた人である。彼は 94 銭     鴎 張之洞と共にそれぞれ両江・両湖を統領する実力派地方大臣で、しかも一般 的には張之洞よりずっと頑固な保守派と見られている。この劉坤一は、羅振 玉に対して「政治に干せず、民生に有益、封閉の列に在らず」と『農学報』 の性質を規定しただけでなく、補助金交付の令も下した。羅振玉が最初に掲 げた「政治に関与しない」方針が、この時になって功を奏したのである。ま た劉坤一が農工商鉱などの学校設立に関する件を上奏した時、「更就上海之 農学報館改為農務總会、由臣籌款項、重訂章程、與各省聯絡協助、」(「両 江總督奏立農工商礦各学堂片」、『農学報』49、1898年11月)と述べ、自分の 指導する範疇の中に納めようともしていた。『農学報』はこういう厚遇を受 けて、まず政変後の第一の難関をなんと
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