02追跡
遥かに快晴な午後、ピンクのベンツが日光街道を走っていた。
渋滞が捌けて交通は流暢に流れている。清らかな川の水が大橋を抜けてゆく。陽の光が大梁を透かして風防ガラスに反射される。車の中の女性は奇妙に感付くようなことが浮かんだが、すぐ両岸の風致に気を取られた。
穏やかな天気だった。二月とは思えない霞がかった春らしい景色。大空に向かって思い切り背伸びしたくなる陽気となった。春の息吹きを吸って、細胞が動き出すのを感じる。
十字路を通り掛る際にふと何かを見逃した未来はそれを確かめるつもりでブレーキを踏んだ。何処かで見たようなローソンの看板だったので、彼女はすぐ方向を変えた。
ローソンに面してあるのは、あの日見知らぬ青年に送って貰った道だった。車のナビには小文字で千住間道と書いてある。ちゃんと名前もあるんだ…と言っても、地球儀にピンを立てて当たる確率は零に近い。すっかり見過ごすところだった。昼間から見ると、両脇の建物は時代外れの感じがする。東京市内にこんな隅もあるんだ。関西は三都合わせれば、何とか東京と並べるようだと今まで思っていた彼女だった。
凸凹になっているアスファルトの舗道は時折分かれながら段々と狭くなる。そして町も高層ビルから段違いに低くなって、積み木のような古い家屋に変わる。目立つものと言えば南千住警察署、スポーツセンター、角のセブンイレブンの看板だった。
道の脇を沿って西へと緩慢に進みながら傾いてゆく太陽と向き合った状態になっていた。
通行人も少なく、車も指折りの数しか通らない。犬を連れて散歩する二人の老人が遠くから呼び交わしている。野球のグローブをした男の子がボールを精一杯壁にぶつけている。その後ろを回って、単輪に乗った気弱そうな女の子が封筒を手に持って郵便局のポストーに向かっている。
安らかな町だった。
ミニストップを過ぎると前方から警笛が鳴った。目の真先に見えるのは赤信号で、行き止りだった。二両の都電が反対側から擦れ違っている。
踏切はすぐ開き始めたが、彼女は車をUターンした。郵便局まで戻って時計を見ると午後四時だった。
お腹も減った。最近ダイエット気味でお昼は控え目に済ましている。この辺りの料理店と言えば三つ叉の所の中華料理屋と寿司屋位だった。
野菜炒めでも食べよう。裏の駐車場に車を止め、サングラスを掛けて外へ降りた。車がちょっと派手過ぎて注目を浴びる。
一階は魚屋路で、二階はバーミヤンである。階段を登っていると、店の中から恋人二人が騒ぎ立てながら出てきた。人を見ると会話が中断され、男のほうは未来のために扉に手を添えておいたので、彼女は軽くお礼を示してすぐ足を踏み入れた。後ろからその二人は夫婦漫才のような笑い戯れる声を復元した。
迎えた猫背の女の子は未来より頭一つは抜けていた。髪の毛をクリップでまばらに留め、「いらっしゃいませ」と挨拶しながら顔は下向いてエプロンを直している。
未来は黙って一本指を立てて見せると窓辺の隅っこに向かった。後ろで女の子は間延びした声で一名様と厨房に報告している。
両面とも窓が嵌っていて街筋が眺めれる。暮色溢れる街頭は、黄ばんだような街燈が次々と点り行き、薄暗い光を歩道に放射している。
青菜炒めと野菜サラダ、鱶鰭ご飯、半分ほど解決した所でお腹は膨らみ、これ以上箸が進まない。
典型的な中華の雰囲気だった。書道の掛け軸、茶色の机と壁の枠、カウンタ後ろのバイトを募集する広告など、サングラスからは茶色の世界だった。未来は青汁りんごジュースを追加した。店も込み始め、店員も二人増えた。猫背の女の子も元気を出して走り刷り回っている。
急に見掛けたような人影が未来の眼界を通った。
それは驚異の出来事だったので、未来をはっとさせた。見間違いじゃないかとすぐサングラスを下ろしたが、その姿はもう裏に入ってしまった。ストローをしゃぶったまま出入り口の方を眺めていると、いつの間にか残りグラス三分の一のジュースも吸い尽くして、ジャリジャリという氷のぶつかる音だけがする。
カウンタに向かうお客さんが居て、その猫背の女の子が出て来ると同時にほぼ同じ身長の青年が後ろに現れた。
間違いなくあいつだ。あの日道を教えた人。
今日は上下ぴっちりとしたジーンズ姿でだった。黒いマフラが胸の前で見えたり隠れたりする。黒い手袋、黒いオールスター、筋が通ってこざっぱりしていた。
カウンタの辺りで勘定が終わるのを待ってから、彼は女の子の前に行って私語を始めた。女の子は返答なしで、下向きのまま唯カウントを整理していた。
バッグを片付け、明細を抜き取って未来は席を立った。
近くまで行くと女の子の声が聞こえてきた。
「まだ高校生だから駄目です」そして顔を未来に差し向けた。「有り難うございます」
彼は後ろも見ないで、女の子に「後で電話するから」と言葉を残して店を出て行った。
女の子は彼の後ろを打ち見たが、すぐ会計に入った。
外から眺め渡すと、彼は階段口を回って横断歩道を渡っていた。それを眼で追いながら階段を降りた頃、彼は最早向こう側の道を西に進んでいる。
赤信号になったので未来は道を渡るのを止め、こっちの道端を沿って追い始めた。
青白い夜光灯に照らされた彼の姿はすいすいと前を進んでゆく。逃さないようにその速さに合わせていたら、胃液が溯ってくるようにげんなりした。
車が次々と横を流れながら視線を邪魔している。ミニストップのほうに曲がって行くのを呼び掛けようとしたが、バスが一両停留して前を遮った。
若干惜し気がした。諦めて戻ろうとする時、バスが立った。店の前にまだ彼の姿が残っていることに未来は歓喜を感じた。
店内の照明を背にして、彼は洒落た格好の何人かの若者たちと立ち話をしていた。未来はさっさと手前の電話ボックスの中に入った。そして隣の自動販売機から零れる光を避けようと顔を横向きにした。
ミニストップの専用駐輪場だった。ミニカーが一両だけ止まっていたので残りの空間は若者たちの集会場になっている。若者達には誰一人も目にない様子だった。出入りするお客さんも出来るだけ遠くに避けるようにしていた。
彼は手を振りながら分かれようとしていたが若者たちに引き止められていた。彼は仕方ないと言う風に手袋を取って店の中に入った。他の人はのらくらと壁の角に居座ってビールを飲んで、煙草を吸って、何人かは前に出てバレーボールを始めていた。
これからどうしようかと迷っている頃、彼がビールの缶を持って店の中から出てきた。嗄れ気味の叫び声が彼をバレーボールを誘っていた。
後でしようという風に、彼は缶を開けようとしていたが、向こうから「行くぞ」と一声と共にボールを投げてきた。
彼はビールの缶を片手に持ち替えて右足のズボンを少し引き上げると、空中飛びして頭上に落ちるボールをダッと蹴り返した。それは大人の人が跳躍してやっと手が届く高さだった。
肝を潰すような場面だった。皆が異口同音に喝采する。「出た!」そして荒げた声を張る。「反則だぞ」
驚いた余り未来はサングラスを外した。
彼は缶を開けて窓の下に座った。
広場は元の状態に戻った。ボールを投げたり、お酒を飲んだり、叫んだりしている。引きも切らず走行する車が視線を立ちはだかる。彼は一人でビールを啜っていた。
遠くから見眺めていると少し目を疑いそうになる。これはどう見ても不良だろう。あの日の洋服の青年と同一人物であるとはとても思えなかった。
電話ボックスを出ると、夕方で既に氷点下という尋常ではない寒さと変わった。街中の誰もが無口で足早で、風の音だけが轟く異様な世界だった。
夕闇の静かな街路。慣れない寒波に身の置き所がなくて、淋しさが一入身にしみた真冬のひとコマだった。
帰り道を探して歩きながら未来は思考回路を整理してみた。不良であろう、女誑しであろう、午後の間自分は一体何をしていたんだろう。一回会っただけでまともに話も交わしていない人の後を付けていたのだ。
嗚呼、退屈。人生の半分を損したような。
ショーウィンドウの明かりが行き来する歩行者たちの顔に映っている。月は姿を消したかのようで西空の縷々たる雲の切れ間から宵の明星だけがきらきらと瞬き出す。桃の看板や寿司屋の旗が見え、早くも料理店の方に戻っていた。
駐車場は満タンになるところで、周りの照明が車体に照らされとても明るかった。魚屋路の門灯の下で電話をしている若者が同じ言葉を繰り返しながら方向音痴だと相手を叱っている。階段の上ではお客さんが譲り合いながら櫛の歯挽くように登り降りしている。バイトを終えた二人の女子高校生がお客さんに関する話をしながら階段の下にある自転車を止めた場所に向かっていた。その一人の女の子が「じゃあね」と言い残し、道を渡って曲がり角のほうに消えていくと、残りの一人はまだそこに立ったままメールをしていた。
思い付いたことがあったので、未来はバッグから携帯を出して受信履歴を探した。
短い映像、それは親指を啜る赤ちゃんの石像と、その前を通る都電、そして遠くに見える黄色く熟れたオレンジだった。あの日彼が撮ったのを自分の携帯に送ったものだ。
自分が撮った写真と比べると、彼のほうがより自然的で生気に溢れている。写真と映像の差よりも、多分未来が撮ったものは偶然出会った見知らぬ人で、それほど感情を注いでないのだ。
あの時彼は石像の前に真っ直ぐ立って、物を忘れるほど専念していた。淡々とした表情、そして撮った後は子供のように嬉しがっている姿。今日目撃しなかったならば一生の宝物になれったんだろう。
子供にお帰りを知らせる呼び音楽が鳴り響く。
感動を与えるものはその背景により極端へと走り飛ぶ。だからこそ知り尽くさずに想像の余地を残すのも良いかもしれない。今日見てしまったことで未来は自分を恨むところだった。
角を曲がってこなければ、ご飯を食べなければ、あるいは窓を眺め続けていれば、避ける可能性は幾らでもあったはず、そしてこの町、この人、この写真は美しい記憶として心の奥にしまう。
分かった以上、やっぱり消そう。さよなら、知らない人よ。
最後として短く「あなた何をしているの?」とメールを送って、履歴も消した。車の中に入って未来はエンジンを掛けた。
堕落してしまったんだろうか。自分に道を教えてくれた人、もし良ければ彼に人生の道を教えたい。
早くも返信が来た。
「誰?」
多分ビールを飲んでいるところ、ボケットからの振動に面倒臭そうに声を荒げながら叫んだのだろう。
「煩いな、どいつだ?」
そして周囲の若者たちは詰まらない冗談混じりの悪ふざけをしているに違いない。
このまま切ったって、聞き出そうとはしないんだろう。適当に「石像」と返事した。子供に対する善良な心だけは捨てないで欲しいという意味もあって、逃げを打つ手段としても曖昧な返事で良い。彼だって石像なんかとっくに忘れてしまったかもしれない。
車をバックしているとまたメールが届いた。何て早いんだろう!
「本当ですか?何処に居るんです?」
鋭い奴。敬語に変わってしまったということは、相手が誰だってことを嗅ぎ出したのだ。戦慄が走ってしまう。その日のことはずっと覚えていたのか?
このまま対話を終わらせようとしたが、ちょっと虫が納まらない所がある。何処?ここに居ないよ、東京じゃないぞ。そしたら何故そんな遠くから電話掛かってくるんですか、と多分あいつは言うだろう。
心を鬼にして未来は「今日高校生をナンパした場所」と送った。
「ちょっと待って貰えますか」
何てことだ。自ら狼を差し招いたことになっているんじゃないの。
踵を接して店を訪れるお客さんたち、数多い車の中で未来のが一番目立っている。信号のほうから向こうのセブンイレブンの前でおでんを食べながら煙草を吸っているがさつそうな男たちが見える。ゆったりとした鼠色のズボンに、汚れたジャケット、そして頭に纏った白いタオル、多分仕事終わりに立ち寄りしたんだろう。バスや、タクシーやトラックなどが推し進めるように前を通り、三叉路の信号も緑から黄色へ、そして赤に変わる。
急にひょろ長い姿が視界を遮った。
彼だった。手に持った携帯は開けたまま、階段に向かっている。
「車の中」と送った時には、最早彼は二階に登って店に入ってしまった。
そしてすぐドアが開き、再び彼は外に跳ね出す。携帯を眺めながらお客さんの間を滑り抜けながら階段を下りた。そして何か悟ったかのように真っ直ぐ未来の車の方へ向かってくる。夜中の猫みたいにすばしこい。
魂は打ち震え、手は踊り、足は宙に舞う。けど、ここまで来た以上、後戻りはできない。彼が車のガラスを叩く頃、恐怖を隠して怒った表情でガラスを降ろした。
満面の笑みで彼は言った。「僕って付いていますね、これで死んでも良いなあ」
酒の匂いがぷんぷんと掛かってくる。未来は何も言わず開けていた窓ガラスをぴったりと閉め直した。
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