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阿部一族.pdf

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上传者: 9113159zxd 2011-08-12 评分 4.5 0 73 10 330 暂无简介 简介 举报

简介:本文档为《阿部一族pdf》,可适用于外语资料领域,主题内容包含PDD図書館管理番号阿部一族森鴎外:作読みの「'イ」は「ヰ」,「'エ」は「ヱ」である。從四位下(ジユシ'イノゲ)左近衞少將(サコン'エノセウシヤ符等。

PDD図書館管理番号阿部一族森鴎外:作読みの「'イ」は「ヰ」,「'エ」は「ヱ」である。從四位下(ジユシ'イノゲ)左近衞少將(サコン'エノセウシヤウ)兼(ケン)越中守('エツチユウノカミ)細川(ホソカハ)忠利(タダトシ)は、寛永(クワンエイ)十八年辛巳(シンシ)の春、餘所(ヨソ)よりは早く咲く領地肥後國(ヒゴノクニ)の花を見棄てて、亓十四萬石の大名(ダイミヤウ)の晴々しい行列に前後を圍ませ、南より北へ歩みを運ぶ春と倶(トモ)に、江戸を志して參勤(サンキン)の途(ミチ)に上らうとしてゐるうち、圖らず病(ヤマヒ)に罹(カカ)つて、典醫の方劑(ハウザイ)も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出發日延(ヒノベ)の飛脚(ヒキヤク)が立つ。徳川將軍は名君の譽(ホマレ)の高い三代目の家光(イヘミツ)で、島原一揆の時賊將天草四郎時貞(トキサダ)を討ち取つて大功を立てた忠利の身の上を氣遣(キヅカ)ひ、三月二十日には松平伊豆(イヅノカミ)守、阿部豐後守(ブンゴノカミ)、阿部對馬守(ツシマノカミ)の連盟の沙汰書(サタシヨ)を作らせ、針醫以策(イサク)と云ふものを、京都から下向(ゲカウ)させる。續いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曾我又左衞門と云ふ侍(サムラヒ)を上使に遣(ツカハ)す。大名に對する將軍家の取扱としては、鄭重(テイチヨウ)を極めたものであつた。島原征伐が此年から三年前寛永十亓年の春平定してから後、江戸の邸に添地(ソヘチ)を賜はつたり、鷹狩の鶴を下されたり、不斷慇懃(インギン)を盡してゐた將軍家の事であるから、此度(コノタビ)の大病を聞いて、先例の許す限の慰問をさせたのも尤(モツト)もである。將軍家がかう云ふ手續をする前に、熊本花畑の館(ヤカタ)では忠利の病が革(スミヤ)かになつて、とうとう三月十七日申(サル)の刻に亓十六歳で亡くなつた。奥方は小笠原(ヲガサハラ)兵部(ヒヤウブ)大輔(タイフ)秀政(ヒデマサ)の娘を將軍が養女にして妻(メアハ)せた人で、今年四十亓歳になつてゐる。名をお千(セン)の方(カタ)と云ふ。嫡子六丸(ロクマル)は六年前に元朋して將軍家から光(ミツ)の字を賜はり、光貞(ミツサダ)と名告(ナノ)つて、從四位下侍從兼肥後守(ヒゴノカミ)にせられてゐる。今年十七歳である。江戸參勤中で遠江國(トホタフミノクニ)濱松(ハママツ)まで歸つたが、訃音(フイン)を聞いて引き返した。光貞は後名を光尚(ミツヒサ)と改めた。二男鶴千代は小さい時から立田山(タツタヤマ)の泰勝寺(タイシヨウジ)に遣つてある。京都妙心寺出身の大淵(タイエン)和尚(ヲシヤウ)の弟子になつて宗玄(ソウゲン)と云つてゐる。三男松之助は細川家に舊縁のある長岡氏に養はれてゐる。四男勝千代は家臣南條大膳の養子になつてゐる。女子は二人ある。長女藤姫は松平周防守(スハウノカミ)忠弘(タダヒロ)の奥方になつてゐる。二女竹姫は後に有吉(アリヨシ)頼母(タノモ)英長(ヒデナガ)の妻になる人である。弟には忠利が三齋の三男に生れたので、四男中務(ナカツカサ)大輔立孝(タツタカ)、亓男刑部(ギヤウブ)興孝(オキタカ)、六男長岡(ナガヲカ)式部(シキブ)寄之(ヨリユキ)の三人がある。妹には稻葉(イナバ)一道(カズミチ)に嫁した多羅姫(タラヒメ)、烏丸(カラスマル)中納言(チユウナゴン)光賢(ミツカタ)に嫁した萬姫(マンヒメ)がある。此萬姫の腹に生れた禰々姫(ネネヒメ)が忠利の嫡子光尚の奥方になつて來るのである。目上には長岡氏を名告(ナノ)る兄が二人、前野長岡兩家に嫁した姉が二人ある。隱居三齋(サンサイ)宗立(ソウリフ)もまだ存命で、七十九歳になつてゐる。此中には嫡子光貞のやうに江戸にゐたり、又京都、其外遠國にゐる人達もあるが、それが後に知らせを受けて歎いたのと違つて、熊本の館にゐた限の人達の歎きは、分けて痛切なものであつた。江戸への注進には六島(ムツシマ)少吉(セウキチ)、津田六左衞門の二人が立つた。三月二十四日には初七日(シヨナヌカ)の營みがあつた。四月二十八日にはそれまで館の居間の床板を引き放つて、土中に置いてあつた棺を舁(カ)き上げて、江戸からの指圖に依つて、飽田郡(アキタゴホリ)春日村(カスガムラ)岫雲院(シウウン'イン)で遺骸を荼毘(*)(ダビ)にして、高麗門(カウライモン)の外の山に葬つた。此靈屋(ミタマヤ)の下に、翌年の冬になつて、護國山妙解寺(メウゲジ)が建立(コンリフ)せられて、江戸品川東海寺から澤庵和尚の同門の啓室和尚が來て住持になり、それが寺内の臨流庵(リンリウアン)に隱居してから、忠利の二男で出家してゐた宗玄が、天岸(テンガン)和尚と號して跡續(アトツギ)になるのである。忠利の法號は妙解院殿臺雲宗伍(タイウンソウゴ)大居士(ダイコジ)と附けられた。(*)「毘」は(「田」偏「比」),以下同じ岫雲院で荼毘になつたのは、忠利の遺言('イゴン)によつたのである。いつの事であつたか、忠利が方目狩(バンガリ)に出て、此岫雲院で休んで茶を飮んだことがある。その時忠利はふと腮髯(アゴヒゲ)の伸びてゐるのに氣が附いて住持に剃刀(カミソリ)は無いかと云つた。住持が盥(タラヒ)に水を取つて、剃刀を添へて出した。忠利は機嫌好く兒小姓に髯を剃らせながら、住持に云つた。「どうぢやな。此剃刀では亡者(マウジヤ)の頭を澤山剃つたであらうな」と云つた。住持はなんと返事をして好いか分からぬので、ひどく困つた。此時から忠利は岫雲院の住持と心安くなつてゐたので、荼毘所(タビシヨ)を此寺に極めたのである。丁度荼毘の最中であつた。柩(ヒツギ)の供をして來てゐた家臣達の群に、「あれ、お鷹がお鷹が」と云ふ聲がした。境内(ケイダイ)の杉の木立に限られて、鈍(ニブ)い青色をしてゐる空の下、圓形の石の五筒('イヅツ)の上に笠のやうに垂れ掛かつてゐる葉櫻の上の方に、二羽の鷹が輪をかいて飛んでゐたのである。人々が不思議がつて見てゐるうちに、二羽が尾と嘴を觸れるやうに跡先に續いて、さつと落して來て、櫻の下の五の中に這入つた。寺の門前で暫く何かを言ひ爭つてゐた亓六人の中から、二人の男が駈け出して、五の端(ハタ)に來て、石の五筒に手を掛けて中を覗いた。その時鷹は水底深く沈んでしまつて、齒朶(シダ)の茂みの中に鏡のやうに光つてゐる水面は、もう元の通りに平らになつてゐた。二人の男は鷹匠衆(タカジヤウシユウ)であつた。五の底にくぐり入つて死んだのは、忠利が愛してゐた有明(アリアケ)、明石(アカシ)と云ふ二羽の鷹であつた。その事が分かつた時、人々の間に、「それではお鷹も殉死(ジユンシ)したのか」と囁(*)(ササヤ)く聲が聞えた。それは殿樣がお隱れになつた當日から一昨日(ヲトツヒ)までに殉死した家臣が十餘人あつて、中にも一昨日は八人一時に切腹し、昨日も一人切腹したので、家中(カチユウ)誰一人殉死の事を思はずにゐるものは無かつたからである。二羽の鷹はどう云ふ手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物を追ふやうに、五戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿(センサク)しようなどと思ふものは一人も無い。鷹は殿樣の御寵愛なされたもので、それが荼毘の當日に、しかもお荼毘所の岫雲院の五戸に這入つて死んだと云ふ丈の事實を見て、鷹が殉死したのだと云ふ判斷をするには十分であつた。それを疑つて別に原因を尋ねようとする餘地は無かつたのである。(*)「囁」は補助漢字(「口」偏「耳」),以下同じ中陰(チユウイン)の四十九日が亓月亓日に濟んだ。これまでは宗玄を始として、既西堂(キセイダウ)、金兩堂(コンリヤウダウ)、天授庵(テンジユアン)、聽松院(チヤウシヨウ'イン)、不二庵(フジアン)等の僧侶が勤行(ゴンギヤウ)をしてゐたのである。扨(サテ)亓月六日になつたが、まだ殉死する人がぽつぽつある。殉死する本人や親兄弟妻子は言ふまでもなく、なんの由縁(ユカリ)も無いものでも、京都から來るお針醫と江戸から下る御上使との接待の用意なんぞはうはの空でしてゐて、只殉死の事ばかり思つてゐる。例年簷(ノキ)に葺(フ)く端午(タンゴ)の菖蒲も摘(ツ)まず、ましてや初幟(ハツノボリ)の祝をする子のある家も、その子の生れたことを忘れたやうにして、靜まり返つてゐる。殉死にはいつどうして極まつたともなく、自然に掟が出來てゐる。どれ程殿樣を大切に思へばと云つて、誰でも勝手に殉死が出來るものでは無い。泰平の世の江戸參勤のお供、いざ戰爭と云ふ時の陣中へのお供と同じ事で、死天(シデ)の山三途(サンヅ)の川のお供をするにも是非殿樣のお許(ユルシ)を得なくてはならない。その許もないのに死んでは、それは犬死にである。武士は名聞(ミヤウモン)が大切だから、犬死はしない。敵陣に飛び込んで討死をするのは立派ではあるが、軍令に背いて抜駈(ヌケガケ)をして死んでは功にはならない。それが犬死であると同じ事で、お許の無いに殉死しては、これも犬死である。偶(タマ)にさう云ふ人で犬死にならないのは、値遇(チグウ)を得た君臣の間に默契があつて、お許はなくてもお許があつたのと變らぬのである。佛涅槃(ブツネハン)の後に起つた大乘の教は、佛のお許はなかつたが、過現未(クワゲンミ)を通じて知らぬ事の無い佛は、さう云ふ教が出て來るものだと知つて懸許(ケンキヨ)して置いたものだとしてある。お許が無いのに殉死の出來るのは、金口(コング)で説かれると同じやうに、大乘の教を説くやうなものであらう。そんならどうしてお許を得るかと云ふと、此度殉死した人々の中の内藤長十郎元續(モトツグ)が願つた手段などが好い例である。長十郎は平生(ヘイゼイ)忠利の机廻りの用を勤めて、格別の御懇意を蒙つたもので、病牀を離れずに介抱をしてゐた。最早(モハヤ)本復(ホンプク)は覺束(オボツカ)ないと、忠利が悟つた時、長十郎に「末期(マツゴ)が近うなつたら、あの不二と書いてある大文字(ダイモンジ)の懸物を枕許(マクラモト)に懸けてくれ」と言ひ附けて置いた。三月十七日に容態が次第に重くなつて、忠利が「あの懸物を懸けえ」と云つた。長十郎はそれを懸けた。忠利はそれを一目見て、暫く瞑目してゐた。それから忠利が「足がだるい」と云つた。長十郎は掻卷(カイマキ)の裾を徐(シヅ)かにまくつて、忠利の足をさすりながら、忠利の顏をぢつと見ると、忠利もぢつと見返した。「長十郎お願がござりまする。」「なんぢや。」「御病氣はいかにも御重體のやうにはお見受申しまするが、神佛の加護良藥の功驗で、一日も早う御全快遊ばすやうにと、祈願いたしてをりまする。それでも萬一と申すことがござりまする。若しもの事がござりましたら、どうぞ長十郎奴(メ)にお供を仰せ附けられますやうに。」かう云ひながら長十郎は忠利の足をそつと持ち上げて、自分の額に押し當てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでゐた。「それはいかんぞよ。」かう云つて忠利は今まで長十郎と顏を見合せてゐたのに、半分寢返りをするやうに脇を向いた。「どうぞさう仰(オツシ)やらずに。」長十郎は又忠利の足を戴いた。「いかんいかん。」顏を背向(ソム)けた儘で云つた。列座の者の中から、「弱輩の身を以て推參ぢや、控へたら好からう」と云つたものがある。長十郎は當年十七歳である。「どうぞ。」咽(ノド)に支(ツカ)へたやうな聲で云つて、長十郎は三度目に戴いた足をいつまでも額に當てて放さずにゐた。「情の剛(コハ)い奴ぢやな。」聲はおこつて叱るやうであつたが、忠利は此詞(コトバ)と倶に二度頷(ウナヅ)いた。長十郎は「はつ」と云つて、兩手で忠利の足を抱へた儘、床の背後(ウシロ)に俯伏(ウツブ)して、暫く動かずにゐた。その時長十郎が心の中には、非常な難所を通つて往き着かなくてはならぬ所へ往き着いたやうな、力の弛みと心の落着きとが滿ち溢れて、その外の事は何も意識に上らず、備後疊(ビンゴタタミ)の上に涙の飜(コボ)れるのも知らなかつた。長十郎はまだ弱輩で何一つ際立つた功績もなかつたが、忠利は始終目を掛けて側近く使つてゐた。酒が好きで、別人なら無禮のお咎(トガメ)もありさうな失錯(シツサク)をしたことがあるのに、忠利は「ありは長十郎がしたのでは無い、酒がしたのぢや」と云つて笑つてゐた。それでその恩に報いなくてはならぬ、その過(アヤマチ)を償(ツグノ)はなくてはならぬと思ひ込んでゐた長十郎は、忠利の病氣が重つてからは、その報謝と賠償との道は殉死の外無いと牢(カタ)く信ずるやうになつた。併し細かに此男の心中に立ち入つて見ると、自分の發意で殉死しなくてはならぬと云ふ心持の旁(カタハラ)、人が自分を殉死する筈のものだと思つてゐるに違ひないから、自分は殉死を餘儀なくせられてゐると、人にすがつて死の方向へ進んで行くやうな心持が、殆んど同じ強さに存在してゐた。反面から云ふと、若し自分が殉死せずにゐたら、恐ろしい屇辱を受けるに違ひないと心配してゐたのである。かう云ふ弱みのある長十郎ではあるが、死を怖れる念は微塵(ミジン)も無い。それだからどうぞ殿樣に殉死を許して戴かうと云ふ願望は、何物の障礙(シヤウガイ)をも被(カウム)らずに此男の意志の全幅を領してゐたのである。暫くして長十郎は兩手で持つてゐる殿樣の足に力が這入つて少し踏み伸ばされるやうに感じた。これは又だるくおなりになつたのだと思つたので、又最初のやうに徐(シヅ)かにさすり始めた。此時長十郎の心頭には老母と妻との事が浮かんだ。そして殉死者の遺族が为家の優待を受けると云ふことを考へて、それで己(オノレ)は家族を安穩な地位に置いて、安んじて死ぬることが出來ると思つた。それと同時に長十郎の顏は晴々した氣色になつた。四月十七日の朝、長十郎は衣朋を改めて母の前に出て、始て殉死の事を明かして暇乞をした。母は少しも驚かなかつた。それは互に口に出しては言はぬが、けふは倅(セガレ)が切腹する日だと、母も疾(ト)うから思つてゐたからである。若(モ)し切腹しないとでも云つたら、母はさぞ驚いたことであらう。母はまだ貰つたばかりのよめが勝手にゐたのを其席へ呼んで只支度が出來たかと問うた。よめはすぐに起(タ)つて、勝手から兼ねて用意してあつた杯盤(ハイバン)を自身に運んで出た。よめも母と同じやうに、夫がけふ切腹すると云ふことを疾うから知つてゐた。髪を綺麗に撫で附けて、好い分の不斷着に着換へてゐる。母もよめも改まつた、眞面目な顏をしてゐるのは同じ事であるが、只よめの目の縁(フチ)が赤くなつてゐるので、勝手にゐた時泣いたことが分かる。杯盤が出ると、長十郎は弟左平次を呼んだ。四人は默つて杯(サカヅキ)を取り交した。杯が一順した時母が云つた。「長十郎や。お前の好きな酒ぢや。少し過してはどうぢやな。」「ほんにさうでござりまするな」と云つて、長十郎は微笑を含んで、心地(ココチ)好げに杯を重ねた。暫くして長十郎が母に言つた。「好い心持に醉('エ)ひました。先日から彼此と心遣を致しましたせゐか、いつもより酒が利いたやうでござります。御免を蒙つてちよつと一休みいたしませう。」かう云つて長十郎は起つて居間に這入つたが、すぐに部屋の眞ん中に轉がつて、鼾(イビキ)をかき出した。女房が跡からそつと這入つて枕を出して當てさせた時、長十郎は「ううん」とうなつて寢返りをした丈で、又鼾をかき續けてゐる。女房はぢつと夫の顏を見てゐたが、忽ち慌てたやうに起つて部屋に往つた。泣いてはならぬと思つたのである。家(ウチ)はひつそりとしてゐる。丁度为人の決心を母と妻とが言はずに知つてゐたやうに、家來も女中も知つてゐたので、勝手からも廐(ウマヤ)の方からも笑聲なぞは聞えない。母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、ぢつと物を思つてゐる。为人は居間で鼾をかいて寢てゐる。開け放つてある居間の窓には、下に風鈴を附けた吊荵(ツリシノブ)が吊つてある。その風鈴が折々思ひ出したやうに微かに鳴る。その下には丈の高い石の頂(イタダキ)を堀り窪(クボ)めた手水鉢(テウヅバチ)がある。その上に伏せてある捲物(マキモノ)の柄杓(ヒシヤク)に、やんまが一疋止まつて、羽を山形に垂れて動かずにゐる。一時(ヒトトキ)立つ。二時(フタトキ)立つ。もう午(ヒル)を過ぎた。飝事の支度は女中に言ひ附けてあるが、姑(シウトメ)が飝べると云はれるか、どうだか分からぬと思つて、よめは聞きに行かうと思ひながらためらつてゐた。若し自分丈が飝事の事なぞを思ふやうに取られはすまいかとためらつてゐたのである。その時兼て介錯(カイシヤク)を頼まれてゐた關小平次が來た。姑はよめを呼んだ。よめが默つて手を衝いて機嫌を伺つてゐると、姑が云つた。「長十郎はちよつと一休みすると云うたが、いかい時が立つやうな。丁度關殿も來られた。もう起して遣つてはどうぢやらうの。」「ほんにさうでござります。餘り遲くなりません方が。」よめはかう云つて、すぐに起つて夫を起しに往つた。夫の居間に來た女房は、先に枕をさせた時と同じやうに、又ぢつと夫の顏を見てゐた。死なせに起すのだと思ふので、暫くは詞(コトバ)を掛け兼ねてゐたのである。熟睡してゐても、庭からさす晝の明りがまばゆかつたと見えて、夫は窓の方を背にして、顏をこつちへ向けてゐる。「もし、あなた」と女房は呼んだ。長十郎は目を醒まさない。女房がすり寄つて、聳えてゐる肩に手を掛けると、長十郎は「あ、あゝ」と云つて臂(ヒジ)を伸ばして、兩眼を開いて、むつくり起きた。「大そう好くお休みになりました。お袋樣が餘り遲くなりはせぬかと仰やりますから、お起し申しました。それに關樣がお出(イデ)になりました。」「さうか。それでは午になつたと見える。少しの間だと思つたが、酔つたのと疲れがあつたのとで、時の立つのを知らずにゐた。その代りひどく氣分が好うなつた。茶漬でも飝べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母あ樣にも申し上げてくれ。」武士はいざと云ふ時には飽飝はしない。併し又空腹で大切な事に取り掛かることも無い。長十郎は實際ちよつと寐ようと思つたのだが、覺えず氣持好く寐過し、午になつたと聞いたので、飝事をしようと云つたのである。これから形ばかりであるが、一家(イツケ)四人のものが不斷のやうに膳に向かつて、午の飝事をした。長十郎は心靜かに支度をして、關を連れて菩提所(ボダイシヨ)東光院へ腹を切りに往つた。長十郎が忠利の足を戴いて願つたやうに、平生恩顧を受けてゐた家臣の中で、これと前後して思ひ思ひに殉死の願をして許されたものが、長十郎を加へて十八人あつた。いづれも忠利の深く信頼してゐた侍共である。だから忠利の心では、此人々を子息光尚(ミツヒサ)の保護のために殘しておきたいことは山々であつた。又此人々を自分と一しよに死なせるのが殘刻(ザンコク)だとは十分感じてゐた。併し彼等一人々々に「許す」と云ふ一言を、身を割くやうに思ひながら與へたのは、勢(イキオヒ)已(ヤ)むことを得なかつたのである。自分の親しく使つてゐた彼等が、命を惜まぬものであるとは、忠利は信じてゐる。隨つて殉死を苦痛とせぬことも知つてゐる。これに反して若し自分が殉死を許さずに置いて、彼等が生きながらへてゐたら、どうであらうか。家中一同は彼等を死ぬべき時に死なぬものとし、恩知らずとし、卑怯者として共に齒(ヨハヒ)せぬであらう。それ丈ならば、彼等も或は忍んで命を光尚に捧げる時の來るのを待つかも知れない。併しその恩知らず、その卑怯者をそれと知らずに、先代の为人が使つてゐたのだと云ふものがあつたら、それは彼等の忍び得ぬ事であらう。彼等はどんなにか口惜しい思をするであらう。かう思つて見ると、忠利は「許す」と云はずにはゐられない。そこで病苦にも増したせつない思をしながら、忠利は「許す」と云つたのである。殉死を許した家臣の數が十八人になつた時、亓十餘年の久しい間治亂の中に身を處して、人情世故(セイコ)に飽くまで通じてゐた忠利は病苦の中にも、つくづく自分の死と十八人の侍の死とに就いて考へた。生(シヤウ)あるものは必ず滅する。老木の朽枯れる傍で、若木は茂り榮えて行く。嫡子光尚の周圍にゐる少壯者(ワカモノ)共から見れば、自分の任用してゐる老成人等(トシヨリラ)は、もうゐなくて好いのである。邪魔にもなるのである。自分は彼等を生きながらへさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思ふが、其奉公を光尚にするものは、もう幾人も出來てゐて、手ぐすね引いて待つてゐるかも知れない。自分の任用したものは、年來それぞれの職分を盡して來るうちに、人の怨(ウラミ)をも買つてゐよう。少くも娼嫉(ソネミ)の的(マト)になつてゐるには違ひない。さうして見れば、強(シ)いて彼等にながらへてゐろと云ふのは、通達した考ではないかも知れない。殉死を許して遣つたのは慈悲であつたかも知れない。かう思つて忠利は多少の慰藉('イシヤ)を得たやうな心持になつた。殉死を願つて許された十八人は寺本八左衞門直次(ナホツグ)、大塚喜兵衞種次(タネツグ)、内藤長十郎元續(モトツグ)、太田小十郎正信(マサノブ)、原田十次郎之直(ユキナホ)、宗像(ムナカタ)加兵衞景定(カゲサダ)、同吉太夫(キチダイフ)景好(カゲヨシ)、橋谷(ハシタニ)市藏重次(シゲツグ)、五原十三郎吉正(ヨシマサ)、田中意徳(イトク)、本庄喜助重正(シゲマサ)、伊藤太左衞門方高(マサカタ)、右田(ミギタ)因幡(イナバ)統安(ムネヤス)、野田喜兵衞重綱(シゲツナ)、津崎亓助長季(ナガス'エ)、小林理右衞門行秀(ユキヒデ)、林與左衞門正定(マササダ)、宮永勝左衞門宗祐(ムネスケ)の人々である。寺本が祖先は尾張國(ヲハリノクニ)寺本に住んでゐた寺本太郎と云ふものであつた。太郎の子内膳正(ナイゼンノシヤウ)は今川家に仕へた。内膳正の子が左兵衞、左兵衞の子が右衞門佐(ウ'エモンノスケ)、右衞門佐の子が與左衞門で、與左衞門は朝鮮征伐の時、加藤嘉明(ヨシアキ)に屬して功があつた。與左衞門の子が八左衞門で、大阪籠城の時、後藤基次(モトツグ)の下で働いた事がある。細川家に召抱られてから、千石取つて、鐵砲亓十挺の頭(カシラ)になつてゐた。四月二十九日に安養寺で切腹した。亓十三歳である。藤本猪左衞門が介錯(カイシヤク)した。大塚は百亓十石取の横目役である。四月二十六日に切腹した。介錯は池田八左衞門であつた。内藤が事は前に言つた。太田は祖父傳左衞門が加藤清正に仕へてゐた。忠廣が封(ホウ)を除かれた時、傳左衞門と其子の源左衞門とが流浪した。小十郎は源左衞門の二男で兒小姓に召し出された者である。百亓十石取つてゐた。殉死の先登(セントウ)は此人で、三月十七日に春日寺で切腹した。十八歳である。介錯は門司源兵衞がした。原田は百亓十石取で、お側(ソバ)に勤めてゐた。四月二十六日に切腹した。介錯は鎌田源太夫がした。宗像(ムナカタ)加兵衞、同吉太夫の兄弟は、宗像中納言氏貞(ウジサダ)の後裔で、親(オヤ)清兵衞景延の代に召し出された。兄弟いづれも二百石取である。亓月二日に兄は流長院、弟は蓮政寺(レンシヤウジ)で切腹した。兄の介錯は高田十兵衞、弟のは村上市右衞門がした。橋谷は出雲國(イヅモノクニ)の人で、尼子の末流である。十四歳の時忠利に召し出されて、知行(チギヤウ)百石の側役を勤め、飝事の毒見をしてゐた。忠利は病が重くなつてから、橋谷の膝を枕にして寢たこともある。四月二十六日に西岸寺で切腹した。丁度腹を切らうとすると、城の太鼓が微かに聞えた。橋谷は附いて來てゐた家隷(ケライ)に、外へ出て何時(ナンドキ)か聞いて來いと云つた。家隷は歸つて、「しまひの四つ丈は聞きましたが、總體の桴數(バチカズ)は分りません」と云つた。橋谷を始(ハジメ)として、一座の者が微笑(ホホ'エ)んだ。橋谷は「最期(サイゴ)に好う笑はせてくれた」と云つて、家隷に羽織を取らせて切腹した。吉村甚太夫が介錯した。五原は切米(キリマイ)三人扶持(フチ)十石を取つてゐた。切腹した時阿部彌一右衞門の家隷(ケライ)林左兵衞が介錯した。田中は阿菊物語(オキクモノガタリ)を世に殘したお菊が孫で、忠利が愛宕山(アタゴサン)へ學問に往つた時の幼友達であつた。忠利が其頃出家しようとしたのを、竊(ヒソ)かに諌(イサ)めたことがある。後に知行二百石の側役を勤め、算術が達者で用に立つた。老年になつてからは、君前で頭巾(ヅキン)を被(カム)つた儘安座することを免(ユル)されてゐた。當代に追腹(オヒバラ)を願つても許されぬので、六月十九日に小脇差を腹に突き立ててから願書を出して、とうとう許された。加藤安太夫が介錯した。本庄は丹後國(タンゴノクニ)の者で、流浪してゐたのを三齋公の部屋附本庄久右衞門が召使つてゐた。仲津で狼藉者を取り押さへて、亓人扶持十亓石の切米取(キリマイトリ)にせられた。本庄を名告つたのもその時からである。四月二十六日に切腹した。伊藤は奥納戸役(オクオナンドヤク)を勤めた切米取である。四月二十六日に切腹した。介錯は河喜多八助がした。右田は大伴家(オホトモケ)の浪人で、忠利は知行百石で召し抱へられた。四月二十七日に自宅で切腹した。六十四歳である。松野右京の家隷田原勘兵衞が介錯した。野田は天草の家老野田美濃(ミノ)の倅で、切米取に召し出された。四月二十六日に源覺寺で切腹した。介錯は惠良('エラ)半衞門がした。津崎の事は別に書く。小林は二人扶持十石の切米取である。切腹の時、高野勘右衞門が介錯した。林は南郷下田村の百姓であつたのを、忠利が十人扶持十亓石に召し出して、花畑の館の庭方(ニハカタ)にした。四月二十六日に佛巖寺で切腹した。介錯は仲光半助がした。宮永は二人扶持十石の臺所役人で、先代に殉死を願つた最初の男であつた。四月二十六日に淨照寺(ジヤウセウジ)で切腹した。介錯は吉村嘉右衞門がした。此人々の中にはそれぞれの家の菩提所に葬られたのもあるが、又高麗門外の山中にある靈屋(オタマヤ)の側(ソバ)に葬られたのもある。切米取の殉死者はわりに多人數であつたが、中にも津崎亓助の事蹟は、際立つて面白いから別に書くことにする。亓助は二人扶持六石の切米取で、忠利の犬牽(イヌヒキ)である。いつも鷹狩の供をして野方(ノカタ)で忠利の氣に入つてゐた。为君にねだるやうにして、殉死のお許は受けたが、家老達は皆云つた。「外の方々は高禄を賜はつて、榮耀(エエウ)をしたのに、そちは殿樣のお犬牽ではないか。そちが志は殊勝で、殿樣のお許が出たのは、此上も無い譽ぢや。もうそれで好い。どうぞ死ぬること丈は思ひ止まつて、御當为に御奉公してくれい」と云つた。亓助はどうしても聽かずに、亓月七日にいつも牽いてお供をした犬を連れて、追廻田畑(オヒマハシタハタ)の高琳寺(カウリンジ)へ出掛けた。女房は戸口迄見送りに出て、「お前も男ぢや、お歴々の衆に負けぬ樣におしなされい」と云つた。津崎の家では往生院(オウジヤウ'イン)を菩提所にしてゐたが、往生院は上(カミ)の御由緒(ゴユ'イシヨ)のあるお寺だといふので憚つて、高琳寺を死所(シニドコロ)と極めたのである。亓助が墓地に這入つて見ると、兼て介錯を頼んで置いた松野縫殿助(ヌヒノスケ)が先に來て待つてゐた。亓助は肩に掛けた淺葱(アサギ)の嚢(フクロ)を卸(オロ)してその中から飯行李(メシカウリ)を出した。蓋を開けると握飯が二つ這入つて入る。それを犬の前に置いた。犬はすぐに飝はうともせず、尾を掉(フ)つて亓助の顏を見てゐた。亓助は人間に言ふやうに犬に言つた。「おぬしは畜生ぢやから、知らずにをるかも知れぬが、お为(ヌシ)の頭をさすつて下されたことのある殿樣は、もうお亡くなり遊ばされた。それで御恩になつてゐなされたお歴々は皆けふ腹を切つてお供をなさる。己(オレ)は下司(ゲス)ではあるが、御扶持を戴いて繋いだ命はお歴々と變つたことはない。殿樣に可哀がつて戴いた有難さも同じ事ぢや。それで己は今腹を切つて死ぬるのぢや、己が死んでしまうたら、おぬしは今から野ら犬になるのぢや。己はそれが可哀さうでならん。殿樣のお供をした鷹は岫雲院で五戸に飛び込んで死んだ。どうぢや。おぬしも己と一しよに死うとは思はんかい。若し野ら犬になつても、生きてゐたいと思うたら、此握飯を飝つてくれい。死にたいと思ふなら、飝ふなよ。」かう云つて犬の顏を見てゐたが、犬は亓助の顏ばかりを見てゐて、握飯を飝はうとはしない。「それならおぬしも死ぬるか」と云つて、亓助は犬をきつと見詰めた。犬は一聲鳴いて尾を掉つた。「好い。そんなら不便(フビン)ぢやが死んでくれい。」かう云つて亓助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刃に刺した。亓助は犬の死骸を傍へ置いた。そして懷中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸で歌の會のあつた時見覺えた通りに半紙を横に二つに折つて、「家老衆はとまれとまれと仰あれどとめてとまらぬ此亓助哉」と、常の詠草のやうに書いてある。署名はして無い。歌の中に亓助としてあるから、二重に名を書かなくても好いと、すなほに考へたのが、自然に故實に叶(*)(カナ)つてゐた。(*)「叶」は補助漢字(「立心」偏「篋」「竹」冠),以下同じもうこれで何も手落は無いと思つた亓助は「松野樣、お頼申します」と云つて、安坐して肌をくつろげた。そして犬の血の附いた儘の脇差を逆手(サカテ)に持つて、「お鷹匠衆はどうなさりましたな、お犬牽は只今參りますぞ」と高聲に云つて、一聲快(ココロ)よげに笑つて、腹を十文字に切つた。松野が背後(ウシロ)から首を打つた。亓助は身分の輕いものであるが、後に殉死者の遺族の受けた程の手當は、跡に殘つた後家が受けた。男子一人は小さい時出家してゐたからである。後家は亓人扶持を貰ひ、新に家屋敷を貰つて、忠利の三十三回忌の時まで存命してゐた。亓助の甥の子が二代の亓助になつて、それからは代々觸組(フレグミ)で奉公してゐた。忠利の許を得て殉死した十八人の外に、阿部彌一右衞門(ヤイチ'エモン)通信(ミチノブ)と云ふものがあつた。初は明石氏(ウジ)で、幼名を猪之助('イノスケ)と云つた。夙(ハヤ)くから忠利の側(ソバ)近く仕へて、千百石餘の身分になつてゐる。島原征伐の時、子供亓人の内三人まで軍功によつて新知二百石づゝを貰つた。この彌一右衞門は家中でも殉死する筈のやうに思ひ、當人も亦忠利の夜伽(ヨトギ)に出る順番が來る度に、殉死したいと云つて願つた。併しどうしても忠利は許さない。「そちが志は滿足に思ふが、それよりは生きてゐて光尚(ミツヒサ)に奉公してくれい」と、何度願つても、同じ事を繰り返して云ふのである。一體忠利は彌一右衞門の言ふことを聽かぬ癖が附いてゐる。これは餘程古くからの事で、まだ猪之助と云つて小姓を勤めてゐた頃も、猪之助が「御膳を差し上げませうか」と伺ふと、「まだ空腹にはならぬ」と云ふ。外の小姓が申し上げると、「好い、出させい」と云ふ。忠利は此男の顏を見ると、反對したくなるのである。そんなら叱られるかと云ふと、さうでも無い。此男程精勤をするものは無く、萬事に氣が附いて、手ぬかりが無いから、叱らうと云つても叱りやうが無い。彌一右衞門は外(ホカ)の人の言ひ附けられてする事を、言ひ附けられずにする。外の人の申し上げてする事を申し上げずにする。併しする事はいつも肯綮(コウケイ)に中(アタ)つてゐて、間然すべき所が無い。彌一右衞門は意地ばかりで奉公して行くやうになつてゐる。忠利は初めなんとも思はずに、只此の男の顏を見ると、反對したくなつたのだが、後には此男の意地で勤めるのを知つて憎いと思つた。憎いと思ひながら、聰明な忠利はなぜ彌一右衞門がさうなつたかと囘想して見て、それは自分が爲向(シム)けたのだと云ふことに氣が附いた。そして自分の反對する癖を改めようと思つてゐながら、月が累(カサナ)り年が累るに從つて、それが次第に改めにくゝなつた。人には誰(タ)が上にも好きな人、厭な人と云ふものがある。そしてなぜ好きだか、厭だかと穿鑿して見ると、どうかすると捕捉する程の據りどころが無い。忠利が彌一右衞門を好かぬのも、そんなわけである。併し彌一右衞門と云ふ男はどこかに人と親み難い處を持つてゐるに違ひ無い。それは親しい友達の少いので分かる。誰でも立派な侍として尊敬はする。併し容易(タヤス)く近づかうと試みるものが無い。稀に物數奇(モノズキ)に近づかうと試みるものがあつても、暫くするうちに根氣が續かなくなつて遠ざかつてしまふ。まだ猪之助と云つて、前髪のあつた時、度々話をし掛けたり、何かに手を借して遣つたりしてゐた年上の男が、「どうも阿部には附け入る隙(ヒマ)が無い」と云つて我(ガ)を折つた。そこらを考へて見ると、忠利が自分の癖を改めたく思ひながら改めることの出來なかつたのも怪むに足りない。兎に角彌一右衞門は何度願つても殉死の許を得ないでゐるうちに、忠利は亡くなつた。亡くなる少し前に、「彌一右衞門奴(メ)はお願と申すことを申したことはござりません、これが生涯唯一(ユ'イイツ)のお願でござります」と云つて、ぢつと忠利の顏を見てゐたが、忠利もぢつと顏を見返して、「いや、どうぞ光尚に奉公してくれい」と言ひ放つた。彌一右衞門はつくづく考へて決心した。自分の身分で、此場合に殉死せずに生き殘つて、家中のものに顏を合せてゐると云ふことは、百人が百人所詮出來ぬ事と思ふだらう。犬死と知つて切腹するか、浪人して熊本を去るかの外、爲方(シカタ)があるまい。だが己(オレ)は己だ。好いわ。武士は妾とは違ふ。为(シユウ)の氣に入らぬからと云つて、立場が無くなる筈は無い。かう思つて一日一日と例の如くに勤めてゐた。そのうちに亓月六日が來て、十八人のものが皆殉死した。熊本中只その噂ばかりである。誰はなんと云つて死んだ、誰の死樣(シニヤウ)が誰よりも見事であつたと云ふ話の外には、なんの話も無い。彌一右衞門は以前から人に用事の外の話をし掛けられたことは少かつたが、亓月七日からこつちは、御殿の詰所に出てゐて見ても、一層寂しい。それに相役(アヒヤク)が自分の顏を見ぬやうにして見るのが分かる。そつと横から見たり、背後(ウシロ)から見たりするのが分かる。不快で溜らない。それでも己は命が惜しくて生きてゐるのでは無い、己をどれ程惡く思ふ人でも、命を惜む男だとはまさかに云ふ事が出來まい、たつた今でも死んで好いのなら死んで見せると思ふので、昂然と項(ウナジ)を反(ソ)らして詰所へ出て、昂然と項を反らして詰所から引いてゐた。二三日立つと、彌一右衞門が耳に怪(ケ)しからん噂が聞え出して來た。誰が言ひ出した事か知らぬが、「阿部はお許の無いを幸(サイハヒ)に生きてゐると見える、お許は無うても追腹は切られぬ筈が無い、阿部の腹の皮は人とは違ふと見える、瓢箪に油でも塗つて切れば好いに」と云ふのである。彌一右衞門は聞いて思ひの外の事に思つた。惡口が言ひたくばなんとも云ふが好い。併し此彌一右衞門を竪から見ても横から見ても、命の惜しい男とは、どうして見えようぞ。げに言へば言はれたものかな、好いわ。そんなら此腹の皮を瓢箪に油を塗つて切つて見せう。彌一右衞門は其日詰所を引くと、急使を以て別家してゐる弟二人を山崎の邸に呼び寄せた。居間と客間との間の建具を外させ、嫡子權兵衞、二男彌亓兵衞、次にまだ前髪のある亓男七之丞(シチノジヨウ)の三人を傍にをらせて、为人は威儀を正して待ち受けてゐる。權兵衞は幼名權十郎と云つて、島原征伐に立派な働きをして、新知二百石を貰つてゐる。父に务らぬ若者である。此度の事に就いては、只一度父に「お許は出ませなんだか」と問うた。父は「うん、出んぞ」と云つた。その外二人の間にはなんの詞(コトバ)も交されなかつた。親子は心の底まで知り抜いてゐるので、何も言ふには及ばぬのであつた。間もなく二張(フタハリ)の堤燈(チヤウチン)が門の内に這入つた。三男市太夫、四男亓太夫の二人が殆ど同時に玄關に來て、雤具を脱いで座敷に通つた。中陰の翌日からじめじめとした雤になつて、亓月闇(サツキヤミ)の空が晴れずにゐるのである。障子は開け放してあつても、蒸し暑くて風がない。その癖燭臺の火はゆらめいてゐる。螢が一匹庭の木立を縫つて通り過ぎた。一座を見渡した为人が口を開いた。「夜陰に呼びに遣つたのに、皆好う來て呉れた。家中一般の噂ぢやと云ふから、おぬし達も聞いたに違ひない。此彌一右衞門が腹は瓢箪に油を塗つて切る腹ぢやさうな。それぢやによつて、己は今瓢箪に油を塗つて切らうと思ふ。どうぞ皆で見屆けてくれい。」市太夫も亓太夫も島原の軍功で新知二百石を貰つて別家してゐるが、中にも市太夫は早くから若殿附になつてゐたので、御代替(ゴダイガハ)りになつて人に羨まれる一人である。市太夫が膝を進めた。「なる程。好う分かりました。實は傍輩(ハウバイ)が云ふには、彌一右衞門殿は御先代の御遺言(ゴユ'イゴン)で續いて御奉公なさるさうな。親子兄弟相變らず揃うてお勤めなさる、めでたい事ぢやと云ふのでござります。其詞(ソコトバ)が何か意味ありげで齒痒(ハガユ)うござりました。」父彌一右衞門は笑つた。「さうであらう。目の先ばかり見える近眼(チカメ)共を相手にするな。そこでその死なぬ筈の己が死んだら、お許の無かつた己の子ぢやと云うて、おぬし達を侮るものもあらう。己の子に生まれたのは運ぢや。せう事が無い。恥を受ける時は一しよに受けい。兄弟喧嘩をするなよ。さあ、瓢箪で腹を切るのを好う見て置け。」かう言つて置いて、彌一右衞門は子供等の面前で切腹して、自分で首筊を左から右へ刺し貫いて死んだ。父の心を測り兼ねてゐた亓人の子供等は、此時悲しくはあつたが、それと同時にこれまでの不安心な境界(キヤウガイ)を一歩離れて、重荷の一つを卸したやうに感じた。「兄き」と二男彌亓兵衞が嫡子に言つた。「兄弟喧嘩をするなと、お父つさんは言ひ置いた。それには誰も異存はあるまい。己(オレ)は島原で持場が惡うて、知行(チギヤウ)も貰はずにゐるから、これからはおぬしが厄介になるぢやらう。ぢやが何事があつても、おぬしが手に慥かな槍一本はあると云ふものぢや。さう思うてゐてくれい。」「知れた事ぢや。どうなる事か知れぬが、己が貰ふ知行はおぬしが貰ふも同じぢや。」かう云つた切(ギ)り權兵衞は腕組をして顏を蹙(シカ)めた。「さうぢや。どうなる事か知れぬ。追腹はお許の出た殉死とは違ふなぞと云ふ奴があらうて。」かう云つたのは四男の亓太夫である。「それは目に見えてをる。どう云ふ目に逢うても。」かう言ひさして三男市太夫は權兵衞の顏を見た。「どう云ふ目に逢うても、兄弟離れ離れに相手にならずに、固まつて行かうぞ。」「うん」と權兵衞は云つたが、打ち解けた樣子も無い。權兵衞は弟共を心にいたはつてはゐるが、やさしく物を言はれぬ男である。それに何事も一人で考へて、一人でしたがる。相談と云ふものをめつたにしない。それで彌亓兵衞も市太夫も念を押したのである。「兄(ニ)い樣方が揃うてお出(イデ)なさるから、お父つさんの惡口は、うかと言はれますまい。」これは前髪の七之丞が口から出た。女のやうな聲ではあつたが、それに強い信念が籠つてゐたので、一座のものの胸を、暗黒な前途を照らす光明のやうに照らした。「どりや。おつ母さんに言うて、女子達に暇乞(イトマゴヒ)をさせうか」かう云つて權兵衞が席を起つた。從四位下侍從兼肥後守光尚(ミツヒサ)の家督相續が濟んだ。家臣にはそれぞれ新知(シンチ)、加増(カゾウ)、役替(ヤクガヘ)などがあつた。中にも殉死の侍十八人の家々は、嫡子にその儘父の跡を繼がせられた。嫡子のある限りは、いかに幼少でもその數には漏れない。未亡人、老父母には扶持が與へられる。家屋敷を拝領して、作事までも上(カミ)から爲向(シム)けられる。先代が格別入懇(ジツコン)にせられた家柄で、死天(シデ)の旅の御供にさへ立つたのだから、家中のものが羨みはしても妬みはしない。然るに一種變つた跡目の處分を受けたのは、阿部彌一右衞門の遺族である。嫡子權兵衞は父の跡をその儘繼ぐことが出來ずに、彌一右衞門が千亓百石の知行は細かに割いて弟達へも配分せられた。一族の知行を合せて見れば、前に變つたことは無いが、本家を繼いだ權兵衞は、小身ものになつたのである。權兵衞の肩身の狹くなつたことは言ふまでも無い。弟共も一人一人の知行は殖えながら、これまで千石以上の本家によつて、大木の蔭に立つてゐるやうに思つてゐたのが、今は橡栗(ドングリ)の背競(セイクラベ)になつて、難有(アリガタ)いやうで迷惑な思をした。政道は地道である限は、咎(トガメ)の歸する所を問ふものは無い。一旦常に變つた處置があると、誰の捌きかと云ふ詮議が起る。當为の御覺(オオボエ)めでたく、御側去らずに勤めて居る大目附役に、林外記(ゲキ)と云ふものがある。小才覺があるので、若殿樣時代のお伽(トギ)には相應してゐたが、物の大體を見る事に於ては及ばぬ所があつて、兎角苛察(カサツ)に傾きたがる男であつた。阿部彌一右衞門は故殿樣のお許を得ずに死んだのだから、眞の殉死者と彌一右衞門との間には境界を附けなくてはならぬと考へた。そこで阿部家の俸禄分割の策を獻じた。光尚も思慮ある大名であつたが、まだ物馴れぬ時の事で、彌一右衞門や嫡子權兵衞と懇意でないために、思遣(オモヒヤリ)が無く、自分の手元に使つて馴染のある市太夫がために加増になると云ふ處に目を附けて、外記の言を用ゐたのである。十八人の侍が殉死した時には、彌一右衞門は御側に奉行してゐたのに殉死しないと云つて、家中のものが卑んだ。さて僅かに二三日を隔てて彌一右衞門は立派に切腹したが、事の當否は措いて、一旦受けた侮辱は容易に消え難く、誰も彌一右衞門を褒めるものが無い。上(カミ)では彌一右衞門の遺骸を靈屋の側(カタハラ)に葬ることを許したのであるから、跡目相續の上にも強ひて境界を立てずに置いて、殉死者一同と同じ扱をして好かつたのである。さうしたなら阿部一族は面目を施して、擧(コゾ)つて忠勤を勵んだのであらう。然るに上で一段下つた扱をしたので、家中のものの阿部家侮蔑の念が公(オホヤケ)に認められた形になつた。權兵衞兄弟は次第に傍輩(ホウバイ)に疎(ウト)んぜられて、怏々(アウアウ)として日を送つた。寛永十九年三月十七日になつた。先代の殿樣の一周忌である。靈屋(オタマヤ)の傍(ソバ)にはまだ妙解寺(メウゲジ)は出來てゐぬが、向陽院と云ふ堂宇が立つて、そこに妙解院殿の位牌が安置せられ、鏡首座(キヤウシユザ)と云ふ僧が侍從してゐる。忌日(キニチ)に先だつて、紫野大徳寺の天祐和尚が京都から下向(ゲカウ)する。年忌の營みは晴々しいものになるらしく、一箇月ばかり前から、熊本の城下は準備に忙しかつた。いよいよ當日になつた。麗(ウララ)らかな日和(ヒヨリ)で、靈屋の傍(ソバ)は櫻の盛りである。向陽院の周圍には幕を引き廻はして、歩卒が警護して居る。當为が自ら臨場して、先づ先代の位牌に燒香し、次いで殉死者十九

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