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八幡太郎.pdf

八幡太郎.pdf

上传者: 9113159zxd 2011-08-12 评分1 评论0 下载9 收藏0 阅读量311 暂无简介 简介 举报

简介:本文档为《八幡太郎pdf》,可适用于外语学习领域,主题内容包含PDD図書館管理番号新字新かなに変換している反復記号は文字の重複使用に一部改めた()はひらがなのルビ【】は傍点つき八幡太郎巌谷小波:作大将と云(イ)符等。

PDD図書館管理番号新字新かなに変換している反復記号は文字の重複使用に一部改めた()はひらがなのルビ【】は傍点つき八幡太郎巌谷小波:作大将と云(イ)うものは、只(タダ)強いばかりでもいけません。只賢いばかりでもいけません。戦争(イクサ)が上手で、知恵(チエ)があって、其(ソノ)上に又、人を憐(アワレ)む情愛(ナサケ)やら、義を好む勇気やら、国を思う真情(マゴコロ)やら、事に堪える辛抱やらが、みんなちゃんと備って居なければ、真個(ホントウ)の大将とは云われません。我が日本国には、往古(ムカシ)から立派な大将が、随分沢山居(オ)りました。中にも一番名高いのは、此(コ)の八幡太郎(ハチマンタロウ)義家(ヨシイエ)でありましょう。義家は、源(ミナモト)の頼義(ヨリヨシ)の長男です。阿父(オトッ)さんの頼義が、或晩(アルバン)八幡大神(ダイジン)から、立派な剣(ツルギ)を頂いた夢を見まして、これは実(マコト)に吉(ヨ)い夢を見た、屹度(キット)吉い事があるだろうと、内々喜んで居りますと、程なく此の義家が生まれました。源氏(ゲンジ)の家の長男ですから、初は源太(ゲンタ)と云う名でしたが、七才(ナナツ)の時に、石清水(イワシミズ)の八幡様の前で、元服をしましたので、それから八幡太郎と呼ばれました。幼稚(チイサ)い時分からまことに活発(カッパツ)な怜悧(リコウ)な、児(コ)で、阿父さんに教わる事は、武芸でも学問でも、何一つ覚えないと云う事は無く、中にも弓を弾く事は、一番上手であったそうです。其頃(ソノコロ)奥州(オウシュウ)に、安部(アベ)の貞任(サダトウ)宗任(ムネトウ)と云う、兄弟の者が居(オ)りましたが、常から政府(オカミ)の命令(イイツケ)を聞かず、勝手な事ばかり為(シ)ますので、とうとう政府から兵隊を遣(ヤ)って、征伐をする事になりました。其時阿父さんの頼義は、其大将でありましたから、義家も亦(マタ)一所に行って、貞任と戦争(イクサ)をしましたが、或日(アルヒ)如何(ドウ)した機会(ハズミ)であったか、散々に敗かされて、しまいには自分と家臣(ケライ)と、たった六人になってしまいました。敵の方は勝利(カチ)に乗って、四方から押取巻(オットリマ)き、鏖殺(ミナゴロシ)にしようと思います。味方は死物狂(シニモノグルイ)に戦います。けれども、多勢に無勢の事ですから。流石(サスガ)の義家も、余程危険(アブナ)くなって来ましたが、其中(ソノウチ)に敵の方でも、義家の居るのに気が付きますと、「やア、八幡太郎だぞ。」「八幡が居る、八幡が居る。」と、急に戦慄(フルエ)上って、一同(ミンナ)引揚げてしまったと云う事です。八幡太郎の強いと云う名は、此の通り、もう奥州の果(ハテ)までも、鳴り響いて居たものと見えます。そうかと思うと、又或時(アルトキ)は、敵の大将の貞任と、衣館(コロモノタテ)という処(トコロ)で、一騎討をやりましたが、貞任は迚(トテ)も敵(カナ)わないと思って、一生懸命に逃げ出しますのを、後(ウシロ)から追駈(オッカ)けながら、声を揚げて、ころもの館(タテ)は綻(ホコロ)びにけりと、歌の下の句を詠(ヨ)みました。すると貞任は、それを聞いて振り向きながら、年を経し糸の乱れの苦しさにと、直(ス)ぐに上の句を付けました。これは場所(トコロ)が衣館でしたから、貞任の身の上を衣に譬(タト)え、「綻(ホコロビ)が切れたから、もう駄目(ダメ)だよ。」と云いましたのを、貞任の方では、「それも仕方がありません。此の通り古くなって、糸も緩んでしまいましたから。」と答えたのです。これを聞くと義家は、如何(イカ)にも気の毒に思いまして、討取るのは訳もありませんが、今日に限った事もあるまいと、其儘(ソノママ)見免(ミノガ)してやったという事です。こう云う風で、凡(オヨ)そ九年程戦って居(オ)ります中(ウチ)に、貞任は殺されてしまい、其弟の宗任は、とうとう降参してしまいまして、これで奥州も、一時穏(オダヤカ)に治まりましたが、此(コノ)戦争(イクサ)が丁度(チョウド)九年かゝりましたので、前九年の役と云いました。其処(ソコ)で義家は、又阿父(オトッ)さんの頼義と一所に、都へ引揚げて参りましたが、奥州で降参した宗任の、いかにも正直で強いのを見て、其儘(ソノママ)自分の家臣(ケライ)にしてやりました。他(ホカ)の家臣共はこれを見て、「あんな謀反人を側(ソバ)に置いて、危険(ケンノン)な話じゃないか。」と、一同(ミンナ)心配をして居りましたが、案の定宗任は、主人の義家をば、兄貞任の仇敵(カタキ)と思いますから、如何(ドウ)かして其首を取って、遺恨(ウラミ)を晴らし度(タ)いものだと、隙(スキ)を狙(ネラ)って居ります中(ウチ)、或晩(アルバン)宗任は、たった一人お伴(トモ)をして、義家の車に付いて参りましたが、「今夜こそ一番思い切って、義家の首を取らなけりゃならない。」と、刀の柄(ツカ)へ手を掛けながら、そウっと車の中を見ますと、中では一向平気な顔で、さも心地(ココロモチ)快(ヨ)さそうに、コクリコクリと居眠りをして居ります。これを見た宗任は、直(ス)ぐに切ってかゝるかと思いの外、「これは如何(ドウ)だ。乃公(オレ)がこうして狙(ネラ)って居るのに、何とも思わないで睡(ネ)て居らっしゃるとは、何と云う度胸の好(イ)い方だろう?」と、却(カエ)って感心してしまい、もう仇敵討(カタキウチ)は思い切(キリ)まして、それから後は、神妙(シンビョウ)に奉公することにしました。其後義家は、関白(カンパク)頼通(ヨリミチ)と云う人の処(トコロ)へ参りまして、奥州の戦争(イクサ)の話を、いろいろ噺(ハナ)して聞かせました。すると、其時大江匡房(オオエノマサフサ)と云う人が、丁度次の間で、義家の話を聞いて居りましたが、傍(ソバ)に居た者に向かいまして、「あゝ義家は豪(エラ)い大将だが、惜(オシ)い事には、まだ兵法を知らないようだ。」と云いました。兵法とは戦争の仕方を教える学問です。すると又此事を、例の宗任が聞き付けまして、大層腹を立て、直ぐ義家に告訴(イイツ)けまして、「彼奴(アイツ)失敬な奴(ヤツ)ですから、酷(ヒド)い目に遭わしてやりましょう。」と云いましたが、義家はそれを聞いて、「馬鹿(バカ)な事を云うな、全く大江の云う通りだ。」と、却(カエ)ってお小言で。やがて匡房の帰るのを待って、初めて其人に会って見ますと、いかにも立派な、学問のありそうな人ですから、直ぐに頼(タノン)で弟子にしてもらい、それから戦争の学問をば、此(コノ)匡房に教わって、一生懸命に勉強致しました。程なく義家は、鎮守府(チンジュフ)将軍と云う、今で云うと丁度師団長のような役に成って、又奥州の方へ参りました。尤(モット)も其前に、清原武則(キヨハラタケノリ)という男が、貞任の戦争の時に、頼義の味方に付いて、大分功労(テガラ)を致しましたので、其(ソ)の御褒美(ゴホウビ)に、鎮守府将軍に任ぜられて、此の奥州に居りましたが、人と云うものは、少し自分が出世して来ると、さア直きに増長してしまって、終(シマイ)には身の程を忘れた、自分勝手な事をやり出すもので、此の武則の子の、家衡(イエヒラ)だの武衡(タケヒラ)だのという者が、お互いに喧嘩(ケンカ)を始めまして、終(シマイ)には義家にまで、抵抗(テムカイ)するようになりましたから、其処(ソコ)で又戦争が始まりました。此の戦争(イクサ)の時でありました。或る日義家は、兵隊を大勢連れまして、広い野原を通りかゝりましたが、不図(フト)彼方(ムコウ)を見ると、いままで行儀よく列(ナラ)んで行った雁(ガン)が、俄(ニワカ)にばらばらに成って飛び出しました。義家はこれを見て、「まてよ。此の先に伏勢(フセゼイ)があるぞ。早く行って反対(アベコベ)に追払え!」と、号令をかけながら、兵隊を分配(テワケ)して、其の草原を探させますと、案の定、敵の伏勢が大勢居(オ)りましたが、みんな見付かって、鏖殺(ミナゴロシ)にされてしまいました。此時(コノトキ)義家は、家臣(ケライ)の者に向いまして「これ、其方達(ソチタチ)もよく心得て置け、鳥の乱れて飛ぶ処には、屹度(キット)伏勢があると云う事を、大江先生に聞いて居(オ)ったが、案の定今の通りだ。若(モ)し乃公(オレ)が先生に、こう云う事を教わって置かなかったら、どんな目に遭ったかもしれない。それだから兵法というものは、実に知って居(オ)らなければならないものだ。」と、云って聞かせましたので、大勢の家臣(ケライ)共も、みんな成る程と、感心しないものはありませんでした。又此の戦争(イクサ)の最中に、新羅三郎(シンラサブロウ)義光(ヨシミツ)と云う人が、わざわざ京都から加勢に参りました。此人(コノヒト)は義家の実(ホント)の弟で、今度の奥州征伐には、是非兄と一所に行(ユキ)たいと思いましたが、どうも御許可(オユルシ)が出ませんので、とうとう官を辞職してしまって、自分一人で奥州までやって参りました。此(コノ)義光は笙(ショウ)の名人で、豊原時元(トヨハラノトキモト)という人の、一番弟子でありましたが、此の時元はもう死んでしまいましたけれども、其(ソノ)子の時秋(トキアキ)と云うのが、何と思ったか義光の後から付いて、とうとう相模(サガミ)の国まで参りました。是(コレ)が軍人(イクサニン)ならば知らぬこと、軍人でもない時秋に、こうしてくっ付いて来られては、却(カエッ)て邪魔になるばかりですから、種々(イロイロ)に云って帰そうとしましたけれども、時秋は中々聞きません。其処(ソコ)で義光は、大方其の心を察しまして、或晩(アルバン)足柄山(アシガラヤマ)の絶頂へ連れてゆき、丁度月明(ツキ)の好(ヨ)いのを幸い、其(ソノ)下で笙を吹いて、時元から教わった、大切(ダイジ)の秘伝を、残らず時秋に聞かせますと、時秋はそれを一心に聞いて居りましたが、やがて其秘伝をば、みんなよく覚えてしまいますと、初めて気が済んだと見えまして、頻(シキ)りにお礼を云いながら、大喜悦(オオヨロコビ)で帰って行きました。これは全く、義光の察しの通り、其の秘伝が教わり度(タ)い斗(バカ)りに、わざわざ付いて参りましたので、義光も亦(マタ)、その熱心に感じまして、大切(ダイジ)の秘伝を残らず教えてやったのです。茲(ココ)に又義家の家臣(ケライ)に、鎌倉権亓郎(カマクラゴンゴロウ)景政(カゲマサ)と云う、年は漸(ヨウヨ)う十六でしたが、滅法強い男が居りました。何時(イツ)でも真先に進んで行って、敵を酷(ヒド)い目に遭わして居りましたが、或時(アルトキ)戦争(イクサ)の最中に、其の右眼(ミギノメ)を射られました。けれども景政は【びく】ともしません。「おのれ小癪(コシャク)な事をしやがる。よし覚えて居ろ。屹度(キット)此の讐(カタキ)を討(ウッ)てやるから。」と、射られた矢は抜きもせず、猶(ナオ)敵陣へ暴れ込んで、其(ソノ)敵手(アイテ)を取捕(トッツカマ)え、其奴(ソイツ)の首を叩切(タタキキ)って、それから初めて自分の陣屋へ帰り、朋友(トモダチ)に頼んで矢を抜いて貰(モラ)いましたが。其時も、何分深く這入(ハイ)って居(オ)りますから、朋友も容易に抜かれませんので、景政を横に臥(ネ)かし、額の処(トコロ)へ足を掛けて、其力で抜こうとしましたら、「此奴(コイツ)失敬な!人の顔へ足をかける奴(ヤツ)があるものかッ!」と、大層怒り出(ダシ)たと云う事です。此(コノ)景政の社(ヤシロ)は、今も鎌倉にございますが、何と、随分我慢の強い人も、あればあるもので御在(ゴサイ)ます。こう云う風で、大将の八幡太郎は、好(ヨ)く兵法を心得て居るし、弟の新羅三郎は加勢に来るし、又家臣の中(ウチ)には、鎌倉権亓郎などゝ云う、強い武士(サムライ)が居りますので、今度の合戦も亦(マタ)大勝利、戦争(イクサ)が始まってから三年目には、家衡も武衡も、みんな捕虜(トリコ)に成ってしまいました。其時義家は、此両人(コノフタリ)に云いますには、「其方の父武則は、乃公(オレ)の父様(トウサマ)のお蔭(カゲ)で功労(テガラ)をして、立派な官職まで頂いて置きながら、其方達はそれを忘れて、乃公に向って戦争を仕掛けるとは、恩を仇(アダ)で返すというものだ。」と、酷(ヒド)く叱(シカ)りつけまして、とうとう首を斬ってしまいました。此時武衡は、「命ばかりは何卒(ドウカ)お助け下さいまし!」と、泣きながら願いましたので、又義光も、「降参するなら許しておやりなさい!」と、云いましたけれども、義家は聴きませんで、「いや、降参というのは、あの宗任の様に、全く今迄(イママデ)の罪を悔(クイ)て、謝罪(アヤマ)って来るのが降参だ。捕虜(トリコ)になってから助けてくれと云うのは、真個(ホント)の降参とは云われない。」と、とうとう殺してしまいました。けれども今度の戦争は、政府(オカミ)の御命令(オイイツケ)ではありませんでしたから、こう云う風で勝ちましたけれども、別に御褒美(コホウビ)も出ませんでした。前の戦争を前九年と云うのに対して、今度の戦争を後三年というのも、矢張り三年掛かったからであります。これから後と云うものは、別に戦争もございませんでしたが、八幡太郎義家の名は、ますます天下に鳴り響きまして、田舎の小供や、山の中の老爺(オヤジ)まで、其名を知らないものは無い位でしたが、それは人間ばかりでは無く、目に見えない魔物までも、義家の威光には恐れて居たと見えて、或時白河(シラカワ)法皇の、何か魔物に襲われ遊ばして、毎夜々中にお苦痛(クルシミ)のあった時、此の義家が御所へ上って、御枕下(オマクラモト)近くで弓の弦を鳴らしましたらば、法皇の御苦悩(オナヤミ)は、直ぐにお平癒(ナオリ)に成ってしまいました。又ある時義家は、広い野原へ狩に出ましたが、彼方(ムコウ)を見ると、狐(キツネ)が一匹やって参ります。義家はそれを見て、「彼奴(アイツ)殺しては面白くないから、一番驚かしてやろう。」と、やがて弓を引き絞って、わざと其(ソノ)狐の眼(メ)の前の、地上(ジベタ)へ矢を突き立てました。すると其の狐は、当たりもしないのにコロリと転覆(ヒックリカエ)って、とうとう死んでしまいましたとさ。これも全く其(ソノ)狐が、八幡太郎の威光に恐れて、其矢に当らないでも、矢張(ヤッパ)り死んでしまったのです。此(コノ)通り、義家は強い大将でありましたが、又まことに優しい処もあって、武芸に秀でゝ居るばかりでなく、又文学にも達して居(オ)りました。或時義家は、奥州の勿来関(ナコソノセキ)を通りかゝりましたが、丁度春の末の事で、関所の側(ソバ)の桜の花が、往来一杯に散って居りますのを見て、こう云う歌を詠(ヨ)みました。吹く風を勿来(ナコソ)の関(セキ)と思えども道も狭(セ)に散る山桜と。これは其(ソノ)関の名が勿来ですから(勿来とは来るなと云う事です)「あゝ、風は来るなと思っても、矢張り来るから仕方ない、折角咲いた山桜の花が、道も狭いほど、一杯に散ってしまう事じゃ」と云う歌です。又こう云う話もあります。或日義家は、御堂(ミドウ)の関白という人の御邸(オヤシキ)へ参りました。其時矢張りそのお邸(ヤシキ)に、解脱寺(ゲタツジ)の観修(カンシュウ)と云う坊さんや、安部の晴明(セイメイ)と云う陰陽師(ウラナイシ)や、忠明(タダアキラ)と云う医者の名人などが、一所に居合わせて居(オ)りましたが、丁度其前に、奈良から献上に成った瓜(ウリ)が、沢山出して在(ア)りました。晴明はこれを見て、一つ易占(ウラナイ)をして見ましょうと云いながら、暫(シバ)らく考えて居りましたが、やがて中から一個(ヒトツ)取り出して、「只(タダ)今占って見ました処(トコロ)が、この中にどうも毒があるように思われます。一つ御祈祷((ゴキトウ)をして御覧なさい!」と、云いました。其処(ソコ)で解脱寺の観修は、「よろしい」と、云いながら其(ソノ)瓜を前に置いて、何だか暫らく祈って居りますと、不思議にも其瓜が、ムクムクムクと動き出しました。するとお医者の忠明は、急いで自分の持って居る鍼(ハリ)を出して、其瓜をポンと刺しますと、また元の通り動かなくなりました。これを見て義家は、「成る程これは怪しい瓜だ。どれ、正体を現わしてやろう。」と、云いながら刀を抜いて、其瓜をズブリと切りましたら、中には一匹の小さな蛇が、目は忠明の鍼に刺され、首は義家の刀に切れて、とうとう死んで居りましたとさ。これは是丈(コレダケ)のお話ですけれども、初め占(ウラナイ)をした晴明と云い、次に御祈祷をした観修と云い、鍼で眼(メ)をさした忠明と云い、最終(シマイ)に首を切った義家と云い、皆それぞれに名高い人ばかりでありましたから、外からは眼にも見えない、瓜の中の蛇までも、見事に殺してしまって、其毒にも中(アタ)らなかったのだと、此(コノ)話を聞いたものは、みんな感心したと云う事です。さて、八幡太郎義家は、実に名高い大将でありましたから、一生涯の中(ウチ)に、こう云う面白いお話が、随分沢山御在ましたが、とうとう六十八の時に、病気で死んでしまいました。けれども其の威光というものは、死んでも中々消えるものではありません。其後(ソノノチ)二三代目になって、あの頼朝(ヨリトモ)と云う大将が、驕(オゴ)る平家を亡ぼして、とうとう鎌倉に幕府をかまえ日本六十余州をば、残らず源氏の配下(テシタ)にしてしまったのも、矢張りその元因(モト)を糺(タダ)せば、此の八幡太郎のお蔭(カゲ)であります。めでたしめでたしめでたし以上

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