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土屋太祐:玄沙师备的三句纲宗

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土屋太祐:玄沙师备的三句纲宗 インド哲学仏教学研究 16, 2009. 3 玄沙師備の三句の綱宗 土屋 太祐 はじめに 筆者はすでに別稿1で洪州宗「作用即性」説に対する玄沙師備の批判を考察した.「作用 即性」説は,「仏性」と「作用」を等置し,「作用」の中に「仏性」を見いだそうとした. 一方,玄沙はこの両者を区別して,「作用」に還元されない「性」が存在することを主張 し,「作用即性」説を批判した.しかし,これは決して玄沙の思想のすべてではない.「作 用」と「性」を区別するのは,玄沙の思想全体における中間段階に過ぎず,その後にはさ...

土屋太祐:玄沙师备的三句纲宗
インド哲学仏教学研究 16, 2009. 3 玄沙師備の三句の綱宗 土屋 太祐 はじめに 筆者はすでに別稿1で洪州宗「作用即性」説に対する玄沙師備の批判を考察した.「作用 即性」説は,「仏性」と「作用」を等置し,「作用」の中に「仏性」を見いだそうとした. 一方,玄沙はこの両者を区別して,「作用」に還元されない「性」が存在することを主張 し,「作用即性」説を批判した.しかし,これは決して玄沙の思想のすべてではない.「作 用」と「性」を区別するのは,玄沙の思想全体における中間段階に過ぎず,その後にはさ らなる展開がある.そこで,本稿では玄沙の全体的思想を考察するため,その体系を最も よく代 关于同志近三年现实表现材料材料类招标技术评分表图表与交易pdf视力表打印pdf用图表说话 pdf すると見られる「三句の綱宗」を取り上げて,考察を試みることとする. 玄沙師備の三句の綱宗は百丈懐海の三句の思想2の変奏である.その内容は仏性のとら え方と関わり,第一句から第三句へと進むにつれて,仏性に対する理解は徐々に深まって いく.このように,三句の綱宗は玄沙の思想の中心命題を体系的に説くものであり,また その漸進性という点から言えば,玄沙の修証論を代表しているとも言える.『宋高僧伝』 巻十二『唐福州雪峰広福院義存伝・系』には次のようにいう. ……一には則ち玄沙,三句を安立し,群見を抉擇すは,極めて洞過と成るや.今,江 表は多く斯の學を尚ぶ.3 この記述から,三句の綱宗が広く禅林に知られ,また宋初にいたるまでその影響力を保っ ていたことが知られるだろう. 玄沙の三句綱宗に関する系統だった記述は『玄沙広録』(以下『広録』と略す)巻中の 初めの部分4(これを(A)とする)と末尾の部分5(これを(B)とする)に見られる.ま た,このほかに,慧洪『禅林僧宝伝』巻四『福州玄沙備禅師』および『玄沙語録』(以下 『語録』と略す)巻上にも三句の綱宗に関する記載が見られる6.『僧宝伝』の内容は(A) の後半部分を承けたもので,(A)との間にやや大きな文字の出入りがある.慧洪『石門文 字禅』巻二十五『題玄沙語録』は宋代の孫覚が編集した玄沙の語録,つまり現行『広録』 の底本となった版本に言及しており,慧洪が(A)の原版本を読んでいたことが分かる. 『僧宝伝』の記述はここから取られたと考えてよいだろう.文字の異同はあるいは慧洪の 手によるものかもしれない.『語録』は『広録』とは全く異なる版本で,明代の林衍弘に よって編集されたものである.その中の三句の綱宗に関する記載の文字はほとんど『僧宝 1 「玄沙師備の昭昭霊霊批判再考」,『東洋文化研究所紀要』第 154冊,2008年. 2 百丈懐海の三句の思想に関しては,拙文「百丈懐海の「三句」の思想について」,『印度学仏教学研 究』第 57巻第 1号,2008年を参照. 3 賛寧撰,范祥雍点校『宋高僧伝』,北京:中華書局,1987年,288頁. 4 『卍続蔵経』第 126冊,368頁下–371頁下. 5 『卍続蔵経』第 126冊,385頁下–387頁上. 6 『玄沙広録』および『玄沙語録』の書誌に関しては,鈴木哲雄「玄沙師備と福建の禅宗」,『宗教研 究』第 224号(第 49巻第 1輯),1975年.西口芳男「玄沙の伝記」,入矢義高監修,唐代語録研究 班編『玄沙広録』上巻,237–264頁,京都:禅文化研究所,1987年を参照した. – 83 – 土屋 太祐 伝』と一致するが,その序には,「旧に大小の録有りて世に行わるるも,今は存する者有 る無し.余,山居の暇に諸集を蒐覧し,彙めて三巻と為す」7と言い,林衍弘が『広録』を 見ていなかったことが知られる.つまり『語録』の記載は『僧宝伝』をそのまま受け継い でいるのである.以上のことから,『語録』の資料価値は低いことが分かる.そこで本稿 では,最も古い形態を留める資料と見られる(A)と(B)を主な対象として玄沙の三句 の綱宗を考察する.ただし,『僧宝伝』の文字は(A)よりも読みやすい所があり,参考に することができる. 一,第一句 はじめに,第一句の内容と馬祖「見色便見心」の思想8の類似を考察する.(A)の第一 句を解説する部分には次のように言う. も し 若是,第一句の綱宗ならば, しばら 且く自ら承當し,成現具足す.盡什方世界は更に他の 故無く,只だ是れ仁者のみ.更に誰をしてか見せしめ,誰をしてか聞かしめん.・都・て ・只・だ・是・れ・你・の・心・王・心・所と全成不動佛なり.只だ自ら承當するを欠くのみ.喚びて開方 便門と作す.9 (B)には次のように言う. 盡什方世界は只だ是れ當人自己の本體にして,恒然如是にして,更に他の故無し.喚 びて本智の佛性と作す.或いは隱れ或いは顯れ,應用自在なり.一日相應せば,一日 の佛性,一時相應せば,一時の佛性.・諸・法・の・所・生・は・唯・心・の・所・現・に・し・て,・凡・そ・見・る・所・の ・境・は,・唯・だ・是・れ・心・を・見・る・の・み.10 (B)中の「諸法の所生は,唯心の所現」という言葉から,この第一句の立場のよりどころ となるのは,やはり「三界唯心」の思想であると分かる.上の二つの文章にはまた,「 すべ 都て 只だ是れ なんじ 你の心王心所」,「凡そ見る所の境は,唯だ是れ心を見るのみ」などと言い,第 一句の立場が,馬祖「見色便見心」の思想と基本的に同類のものであることが分かる.前 稿ですでに述べたことであるが,玄沙は一方で馬祖の学説を批判し,もう一方でそれを方 便として受け入れている.この第一句はまさしく馬祖の思想を継承したものと言えよう. 『広録』巻上に収める次のような問答は,この第一句の立場をよく表している. 道怤上座,夜靜に室に入り,名を稱えて禮拜す.「 それがし 某 ,特に與麽に來りて,和尚の慈 悲を乞う.箇の入路を指されよ.」師云く,「你,還た偃溪の水聲を聞くや?」進みて 云く,「聞く.」師云く,「者裏 よ 從り入れ.」11 7 『卍続蔵経』第 126冊,407頁下. 8 馬祖は「三界唯心」,つまり世界中のあらゆる現象=「色」は,「心」が作り出したものであるとす る考え方にもとづき,「心」は独立して存在することができず,「色」に依存してはじめて存在でき, 「色」もまた「心」に依って存在するとし,したがって「見色」(現象を見ること)はすなわち「見 心」(自らの心を見ること)なのだと言うのである.詳しくは上掲拙文「玄沙師備の昭昭霊霊批判再 考」を参照. 9 『卍続蔵経』第 126冊,370頁上.また『玄沙広録』の書き下しに関しては,全編にわたって入矢 『玄沙広録』を参照した. 10 『卍続蔵経』第 126冊,386頁上. 11 『卍続蔵経』第 126冊,358頁下–359頁上. – 84 – 玄沙師備の三句の綱宗 「入路」とは悟入の路を言う.悟りの契機を表す言葉であり,決して高遠な悟境を意味し ない.玄沙は,「おまえはいま水音を聞いただろう? この認識活動と認識対象こそが悟り の契機なのだ」と言うのである.このような言葉は我々に,馬祖の「作用即性」説を連想 させる.このような方便説法は第一句に属するものと言える. 次に,第一句のキーワードとして「真常流注」12という言葉を考察したい.(A)の第一 句の部分にいわく, 且く你ら諸人が一分の・真・常・流・注有るを信ぜんことを要す,……所以に道く,一切の羣 生類は皆な此の恩力を承く.且く自信作佛せんことを要す.若し與麽に解せば,方め て喚びて一句の・真・常・流・注と作す.鐵輪と位を齊しくし,十信の初心なり.13 (B)の第一句の部分にいわく, 若是,一分具足の・真・常・流・注ならば,亙古亙今なり.……此の如き理論,喚びて一分の ・真・如・流・注,平常自通自解と作す.14 これらの用例において,「真常流注」という言葉は,万人が具有するある種の真理性をさし ている.しかし,「流注」という言葉は,一般には心識の起滅相続を表す.『金剛三昧経・ 無相法品第二』にいわく, 若し思慮無くんば,則ち生滅無く,如實にして起こらず,諸識は安寂にして,流注は 生ぜず,五法の淨を得ん.是れを大乘と謂う.15 これに対し,元暁『金剛三昧経論』巻上は,「二種の生滅,究竟息む時,八種の識動,皆な 静に帰するを得.六染の流注は永えに滅して起こらず.故に言う,諸識安寂として,流注 生ぜず,と」16と解釈する.また,四巻本『楞伽経』巻一には次のような例がある. 佛,大慧に告ぐ,「諸識に二種の生住滅有り,思量の所知に非ず.諸識に二種の生有 り,謂く流注生,及び相生.二種の住有り,謂く流注住,及び相住.二種の滅有り, 謂く流注滅,及び相滅.……」17 ここに言う「流注」のサンスクリット原語は prabandha18であり,連続を意味する.北魏 菩提留支訳『入楞伽経』19,唐実叉難陀訳『大乗入楞伽経』20はともにこれを「相続」と訳 している.またその後には「山林に宴坐し下中上修し,能く自心の妄想流注を見る」21とい う句もあるが,ここでの原語は「水流」を意味する dha¯ra¯22であり,やはり妄想の連続を 12 入矢義高監修『玄沙広録』中巻「真常流注」の項には「真常は真如が常住した覚りの境位.そこに 安住し膠着すると,そこから新たな迷妄が浸み出して流れ出す」(22頁)と解釈するが,いまだ穏当 ではないだろう. 13 『卍続蔵経』第 126冊,370頁上–下. 14 『卍続蔵経』第 126冊,386頁上. 15 『大正蔵』第 9巻,366頁下. 16 『大正蔵』第 34巻,970頁上. 17 『大正蔵』第 16巻,483頁上. 18 南條文雄校訂『梵文入楞伽経』,京都:大谷大学,1923年,37頁. 19 『大正蔵』第 16巻,521頁下. 20 『大正蔵』第 16巻,593頁中. 21 『大正蔵』第 16巻,484頁中. 22 『梵文入楞伽経』,45頁. – 85 – 土屋 太祐 表している.また,隋の慧遠の『大乗義章』巻三には次のように言う. 第七識中に體有り,用有り.其の體を論ずるや,・無・常・の・流・注にして,前を藉りて後を 生ず.23 これらの資料から,「流注」は本来,否定的なニュアンスで用いられ,無常で虚妄な,識 の起滅相続を意味していたことが分かる.しかし,ここで我々が注意しなければいけない のは,玄沙の言葉の体系において,「真常流注」が「流注」の伝統的用法と異なり,肯定的 ニュアンスで使われているということである.上に引いた用例では「你ら諸人の一分の真 常流注有るを信ずるを要す」と言い,また「真如流注」という言葉も見られる.ここから, 玄沙の使う「真常流注」という言葉は,「個人存在における真如の活動」といった意味合 いを有していると考えられる.つまり,心識は起滅相続しているが,その背後には真如や 仏性といった真理性が存在し,心識の相続の基礎をなしている.言葉を換えて言えば,識 の起滅相続は,真如から現れ出たはたらきにほかならない.玄沙の言う「真常流注」の重 点は,まさにこの起滅相続の中にあって,その基礎となっている真如の存在にあるのであ る.しかし玄沙にとって,これは決して最高の境地ではない.玄沙はその思想の第一段階 として見聞覚知を本性とする馬祖的な思想を受け入れたが,しかしそれはあくまで方便説 法に過ぎず,このような考え方は,やがて第二句,第三句において乗り越えられることに なる.彼は見聞覚知を起滅相続する妄識であると捉えているが,方便としてその中の部分 的な真理性を認めた.このような複雑な事情が「真常流注」という奇妙な言葉の背景にあ るのである. では,玄沙は「真常流注」の否定的性質を具体的にどのように見ているのだろうか? い ま,簡単に結論を述べれば,玄沙は以下のように考えている.個人存在における心識は, 一分の真理性を具有するとはいえ,畢竟,それは起滅相続する個人意識に過ぎない.それ は自我に対する執着を生じるおそれを常に持ち,またその真理性は個人存在の中に局限さ れていて,決して世界に充満する真理とはならない. このような限界が存在するため,玄沙は第一句の成立に付帯条件をつけている.以下に この付帯条件に対する考察を通して,「真常流注」の欠点に対する玄沙の考えを見ていき たい.まず(A)にいわく, イ龍侗の見を作さず,斷常の解を作さず,若し是の如きを得ば,唯だ自己の真如は不生 不滅にして,且く其の宗旨を知る.……如今,若し出格の量を知らば,心魔の所使を 被る莫く,・我・性・に・執・す・る・莫・く,手中に入らば便ち須く轉換落落地として,言は大道に 通じ,平懷の見を生ぜざるべし.此れは是れ第一句の綱宗なり.24 ここで玄沙は「イ龍侗の見を作さず,断常の解を作さず」という条件の下に,「唯だ自己の真 如,不生不滅なり」と認めているのである.また傍点部分より,「真常流注」にとって「我 執」が一つの問題となることも分かるだろう.以上の付帯条件に現れる「イ龍侗」という言 葉は,第一句の内容を批判する文脈でしばしば現れ,術語化の傾向を持っている.では, この言葉は,具体的にはいかなる状況を指しているのだろうか?『広録』巻上にいわく, 23 『大正蔵』第 44巻,532頁上. 24 『卍続蔵経』第 126冊,370頁下. – 86 – 玄沙師備の三句の綱宗 更に一般の人有りて好惡を識らず,便ち道く,「總て説き了われり.人人具足し,人 人成現す.尽十方世界は す べ 都来て只だ是れ我が去処にして,更に青黄赤白,明暗色空, 及び地水火風無し.更に什麽を説かば即ち得ん」と.若し與麽の見解ならば,且喜す らくは勿交渉,只だ・イ龍・侗の真如を成すのみ.吉凶を辨ぜず,什麽の用處か有らん.25 ここに言う,「人人具足し,人人成現し,尽十方世界は す べ 都来て只だ是れ我が去処なり」等の 字句は,上に引いた第一句の内容とほぼ一致するが,ここでは批判の対象となっているこ とに注意しなければいけない.問題は,このような邪見に陥った人は,この世界で「我」 だけが真理性を有すると考え,「青黄赤白」等の現象26の存在を無視してしまうという所に ある.このような傾向を持つ考え方を,玄沙はイ龍侗と呼ぶのである.また以下のような言 葉もある.『広録』巻上にいわく, 我,今,你に問う,還た面前の青山を見るや? 還た好と惡とを見るや? 還た猫兒, 狗子,一切の鳥獸を見るや? 若し見ずと道わば,只だ箇の・イ龍・侗と成る.若し見ると 道わば,你,便ち説道う,「者箇は只だ是れ色.者箇は多少に分明なり.者箇は是れ 什麽ぞ.者箇は與麽に可憐生なるを得る.都來て只だ是れ我のみ,更に什麽の處にか 去らん」と.若し此の如く説話せば,喚びて・イ龍・侗・中・の・又・た・更・に・イ龍・侗,緇素を辯ぜず, 吉凶を識らざる寄褐生の俗人と作す.27 ここに批判する内容もまた第一句の立場と一致する.玄沙によると,もし「我」だけが真 理性を有すると考え,「青山」,「好悪」等の各現象を見なければ,それは「イ龍侗」である. そして,たとえ現象を見たとしても,これらの人々は「あらゆる現象は『我』から派生し てきたものである.したがって『我』だけが真理なのである」と考える.このようなこと では「イ龍侗中,又た更らにイ龍侗」だ,と言うのである.これらの資料における共通の問題 は,ただ自己の内部の真理だけを認め,外在世界の真理性を認めないことにある.馬祖 は,自己内部の真理性は見聞覚知を通して世界に拡大されると考えたが,玄沙は,見聞覚 知とはあくまで個人の身上に限られた真如のはたらきに過ぎず,その真理性は外在世界に 拡張されないと考えている.上に引く資料に「我執」を警戒するのも同様の問題によるも のであろう.「見聞覚知」はあくまで個人の身上に限られた真如の現出であり,真如その ものではない.これにこだわれば,それは「我執」にほかならない.このような真理性の 限界こそ,第一句の立場,さらに言えば馬祖「作用即性」説に対して,玄沙が感じた問題 だったのである. まとめるに,第一句とは覚りの境地に入るための方便法門であり,その目的は人々に自 己の内部にある一分の真如を信じさせることであった.とはいえ,第一句における「真常 流注」は個人の心識上に局限された真理性でしかない.それは,外在的現象界にまで延長 25 『卍続蔵経』第 126冊,358頁下. 26 ここにおいて「明暗」等の語はすべて感覚対象,現象を表している.ここでは『楞厳経』の例をい くつか紹介する.巻三にいわく,「此の見,彼の明暗二塵を離るれば畢竟無体なり.」(『大正蔵』第 19 巻,114 頁下)巻四にいわく,「世尊,若し復た世間一切の根,塵,陰,処,界等,皆な如来蔵 清浄本然なれば,云何が忽ち山河大地,諸有為相を生じ,次第に遷流して,終して復た始まるや?」 (119頁下) 27 『卍続蔵経』第 126冊,364頁下–365頁上. – 87 – 土屋 太祐 する能力を欠き,現象の真理性を保証することが出来ない.このような問題があるため, 第一句の内容を語る際に,玄沙は細かな注意をはらって,真常流注の局限性を表現して いる.上に引いた「唯だ自己の真如,不生不滅」という言葉もそうであるが,このほかに (B)には以下のような言葉も見られる. 人人如是にして,人人自ら作佛を信じ,人人自ら具足するを信ず.・是・れ・我・が・一・真・法・界 ・に・し・て,更に別法無し.……是の如き理論は,・一・分・の・真・如・に・し・て,十信に入る初門の 行相なり.且く此に依りて修せば,因中に・一・分・具・足・す.28 「真常流注」はあくまで「我」に限られた法界であり,それは一分の真如に過ぎないとい う玄沙の語気をよく感じさせる部分である.では,如何にすれば,「我執」を克服し,内 在的な真如と外在的な現象を結びつける能力を獲得できるのであろうか? 以下に第二句, 第三句の内容を見ていきたい. 二,第二句 第二句の段階で,まず始めに克服されるのは,第一句における「価値の固定化」,つま り「真常流注」や「三界唯心」といった概念に対する執着である29.すでに上にも引いた 箇所であるが,(A)の第一句を説く部分には次のように言う. イ龍 侗の見を作さず,斷常の解を作さず,若し是の如きを得ば,唯だ自己の眞如のみ不生 不滅にして,且く其の宗旨を知る.由お是れ前を明らむるも後を明らめず,一箇の平 實にして,法身を分證するの量なり.・未・だ・出・格・の・句・有・ら・ず,・一・句・の・下・に・在・り・て・死・し, 未だ自由分有らず.30 また,(A)の第二句部分には次のように言う. も し 若是,第二句ならば,因を迴して果に就き,平等一如の理に・著・せ・ず,方便して喚びて其 の投機を轉ずと作す.生殺は自在にして,奪換は機に隨い,生を出で死に入り,……31 ここに言う「平等一如の理」とは「すべては我である」とする第一句の思想内容を指して いる.また,(B)の第二句部分にいわく, も し 若是,轉側明後底の句ならば,機鋒32到らず.二分の法性・元・常は有ならず無ならず, 應用自在にして,真如平常の見,光應の量を・奪・下し,一概心法を總て皆な・奪・下・す.生 機轉側して,唯心平實一眞法界,因中の因,死中の句に・座・せ・ず,……33 「奪下す」,「座せず」といった言葉から,第一句の境界に対する執着を取り除こうとする 意図が見てとれる.これはちょうど百丈の三句における,「若し祇だ一句を説かば,衆生 をして地獄に入らしむ」という考えと同様であろう. 28 『卍続蔵経』第 126冊,386頁上. 29 入矢『玄沙広録』中巻,24頁,“死在一句之下”の条を参照. 30 『卍続蔵経』第 126冊,370頁下. 31 『卍続蔵経』第 126冊,370頁下. 32 入矢『玄沙広録』中巻,219頁は,文意が通らないため「機鋒無不到」と「無」の字を補っている. この説には道理があると考えるが,校勘の 材料 关于××同志的政审材料调查表环保先进个人材料国家普通话测试材料农民专业合作社注销四查四问剖析材料 がないため,いまは参考として挙げるに留める. 33 『卍続蔵経』第 126冊、386頁下。 – 88 – 玄沙師備の三句の綱宗 ただし,第一句と第二句,二つの立場の違いはこればかりではない.両者の間には真如 に対する見方の根本的な差異が存在するのである.簡単に結論だけを言えば,第二句の立 場は,第一句の「真常流注」を妄想と考え,その背後に汚染を受けない真正の真如が存在 すると考える34. 上の引用には「元常」という言葉が見えるが,この「元常」こそ第二句のキーワードで ある.この言葉に関して言えば,上に引いた例の他に,(B)の第三句部分に「元常は未だ 曽て生滅せず,出没自在にして,広く一切の衆生を利する」と言う.また(A)の第三句 部分にも二回使われ,そのうちの一つは次のように言う.「海印三昧,一時に現前し,群 生の一念の中において十種華蔵世界海会を具足し,四輪の応用に同ず.喚びて・元・常不動の 智,仏性大海の本心と作し,円明を広く照らし,性相自在なり.」これらの例から,「元常」 が人の本心,本性を指し,「仏性」や「如来蔵」などと同類の概念であることが分かる.そ して,その根拠となるのは,『楞厳経』巻一の次のような言葉である. 佛,阿難に告ぐ,「此は是れ前塵虛妄の相想にして,汝の・眞・性を惑わす.汝,無始よ り今生に至るまで賊を認めて子と爲し,汝の・元・常を失うに由るが故に輪轉を受く.」35 この一文によれば,「元常」とは「前塵虚妄の相想」とは異なるレベルに属する「真性」に ほかならない.玄沙は『楞厳経』のこの概念を援用しているのである.また,ここで我々 が注意しなければいけないのは,(A)(B)ともに第一句部分には「元常」という言葉が 使われておらず,第二句以降において,はじめてこの言葉によって仏性を表現していると いうことである.このことから,第一句と第二句の違いがまさに「真常流注」と「元常」 の間にあることが分かるだろう. さて,以上のような論理の構造は玄沙の「昭昭霊霊」批判と相通じるものがある.すで に前稿に述べたとおり,上に引いた『楞厳経』の一文は,玄沙が「昭昭霊霊」を「妄想」 として批判し,「前塵」を離れてなお変わらざる「秘密金剛体」の存在を主張する際の根 拠でもあった.もし,いま「真常流注」と「元常」の違いを「昭昭霊霊」批判の構造に比 するならば,「真常流注」は「昭昭霊霊」,つまり妄想に相当し,「元常」は「秘密金剛体」, つまり真正の真如に相当する,と言えるだろう. (A)の第二句部分には「四住煩悩」を述べる段があり,当該部分の中心的内容となって いる.この叙述を考察することによって,我々は第二句の立場をよりよく理解できるだろ う.いわく, ……廣く三天下を利し,現在の衆を度し,諸佛と道同じく,色,欲,見,愛の現前の 諸煩惱を除く.你,今,什麽を喚びて煩惱と作すや? 若し知得せんと欲せば,我,你 ら諸人の爲に説破せん.汝,今,眼に好と惡とを見て,色のために使われ,身のため に拘繋せらるるを,喚びて色愛住と作す. か 他の色愛煩惱は,色有らば便ち欲有って, 妄心を起こす.貪欲堅固なるを以て,名づけて欲愛住と爲す.他の欲愛煩惱は,貪欲 に因るが故に,便ち種種の見愛を起して,虛妄分別し,其の父の精と母の血を貪り, 我人に係著し,能所攀縁するを,名づけて見愛住と爲す.他の見愛煩惱は,生滅現前 34 このような論理は、玄沙の「昭昭霊霊」批判と完全に一致していることに注意すべきである。 35 『大正蔵』第 19巻、108頁下。 – 89 – 土屋 太祐 して,一切處に於いて有に執し無に滯り,一切の顛倒を起す.所以に四住煩惱は,一 念無明と和合して,共に三界苦樂の因と成り,日夜纏縛して自由なるを得ず.此れ從 り其の道眼を迷わし,常に輪迴に困じ,解脱するを得ず.36 四住煩悩は本来,見一処住地煩悩,欲愛住地煩悩,色愛住地煩悩,有愛住地煩悩を言い, 欲界,色界,無色界の一切の見惑と思惑を指す.その説は『勝鬘経』に説かれ37,吉蔵『勝 鬘法窟』に解説がある38.しかし,玄沙の説はそのような伝統的解釈を離れ,独自の思想 を展開している.ここで色愛住,欲愛住,見愛住,一切顛倒の四項は連鎖的発生の関係に ある.つまり,色愛が欲愛を生み,欲愛が見愛を生み,見愛が一切顛倒を生み出す.そし てこの四住煩悩が無明と和合して三界苦楽の因となる.つまり玄沙はここで,現世におけ る苦楽の生成過程を説明しようとしているのである.そして,この後に続けて玄沙は以下 のように言う. 今,你ら諸人は會せんと欲得すや? ・但・だ・此・の・無・明・虛・妄・の・元・由・は・自・然・に・色・欲・見・愛・四・住 ・の・所・拘・を・被・ら・ざ・る・を・識・れ・ば,・方・に・喚・び・て・三・界・を・頓・超・す・る・の・佛・性・と・作・す.39 ここで玄沙は,上のような三界の苦楽が発生する前の「元由」こそ「仏性」であると述べ ている.これを上述の説と総合すれば,「元常」は一切の現象の根源的本質であると言え るだろう.この「元常」は「秘密金剛体」と同様,あらゆる現象が発生する以前の状態で あり,また起滅相続する「真常流注」とは異なる次元に属する,認識作用と自我意識のな い本質的存在なのである.第二句の目的は,まさにこの「元常」を発見することにある. ここに再び『楞厳経』の文章を引いて,以上の考察の傍証としよう.その巻四にいわく, 阿難よ,若し因地に於て生滅心を以て本修因と爲し,而して佛乘の不生不滅を求むれ ば,是の ことわり 處 ,有ること無し.……阿難よ,汝,今,見聞覺知をして遠く如來の常樂 我淨に契せしめんと欲さば,應當に先に死生根本を擇び,不生滅に依りて圓湛性を成 じ,湛を以て其の虛妄滅生を旋し,元覺に復還し,元明覺無生滅性を得て因地心と爲 し,然る後に果地の修證を圓成せよ.40 ここでは,生滅心によっては如何に修行しようとも成仏することは出来ない,もし悟りを 得たければ,生滅のない本性によって修行しなければいけない,と説いている.玄沙の言 う「真常流注」,「元常」もちょうど「生滅心」,「本性」と同様の関係を持っている. 以上から分かるように,第二句の趣旨は「真常流注」に対する執着を打破し,更に進ん で,その背後にある恒常不変の「元常」を発見することにある.そして,このような思想 のよりどころとなるのは『楞厳経』である.また,第一句の「真常流注」の問題は,その 真理性を現象界に押し広げられないことにあったが,『楞厳経』は如来蔵が縁起を通して 一切の現象となり,世界に充満していることを説いている.このため,「元常」の段階に いたって,その真理性ははじめて外在世界に拡張していく条件を備えるのである.では, 36 『卍続蔵経』第 126冊 370頁下–371頁上. 37 『大正蔵』第 12巻,220頁上. 38 『大正蔵』第 37巻,50頁下–51頁下. 39 『卍続蔵経』第 126冊,371頁上. 40 『大正蔵』第 19巻,122頁中. – 90 – 玄沙師備の三句の綱宗 真理性が外在世界に拡張するとは,具体的にはいかなる事か,以下に第三句の内容を見て みよう. 三,第三句 第三句の重点は,第二句で確認された「元常」の真理性を現象世界に押し広げることに ある.(A)にいわく, も し 若是,第三句ならば,本智性相の本然有ることを知る.其の越量の知見に通じ,陰を 明らめ陽に つう 洞じ,・沙・界・に・廓・周・す.41 玄沙にとって外在世界の真実性を認めることは,一貫した主張である.『広録』巻上にい わく, 上堂して云く,「諸上座よ,言に實ならざるは無く,理に是ならざるは無し.應處妙 用して,量は言趣を超ゆ.六道人天,明暗區分,人は是れ人,天は是れ天,脩羅は是 れ脩羅,魚龍は是れ魚龍,地獄,畜生,乃至十方世界,一一皆な是の如し.諸上座よ, 且らく作麽生? す な わ 便即ち一向に道う,『只だ是れ自家に信取せば便ち是なり. い ず く 那裏にか 更に如許多般の人天六道の往還,四生九類有らんや』と.諸上座よ,若し與麽に會せ ば,什麽の救處か有らん,什麽の共に語る處か有らん!……」42 また,次のような言葉もある.やはり『広録』巻上にいわく, 師,雪峰に在りて上堂し,示衆して云く,「諸上座,・好・山・好・水,・言・と・し・て・中・ら・ざ・る・無 ・く,・理・と・し・て・實・な・ら・ざ・る・無・く,・行・と・し・て・圓・か・な・ら・ざ・る・は・無・し.・道・體・は・無・方・に・し・て,・機 ・に・應・じ・て・説・法・し,・其・の・形・相・に・隨・い・て,・一・一・區・分・あ・り・て,・是・な・ら・ざ・る・處・無・く,・非・な・ら・ざ ・る・處・無・し.・古・を・通・じ・今・を・通・じ・て,・顯・現・す・る・こ・と・自・在・な・り.所以に道く,小身は其の小 音を現わして,其の爲に説法す.……諸上座,此の如き理論,且らく い か 作何に説き得る や? 便ち請う,衆に對して出で來りて明取せんことを.若し只だ與麽に道理を説い て,『盡什方世界は都來て只だ是れ我が者箇の道理,何ぞ曾て更に四生九類有らん』 と,若し與麽に説話せば,還た曽て佛法を夢見せんや.……」43 玄沙の言語体系において,「四生九類」は「多様な現象」を指す概念である.これらの例 において,玄沙は一方で現象の真実性を否定する不良傾向を批判し,もう一方で真如が現 象世界に充満していることを主張しているのである.また,『広録』巻中にいわく, 上堂して云く「・大・地・虛・空・は・皆・な・心・に・因・り・て・體・を・成・す.諸人,且らく作麽生か因心成體 の道理を説く? 又た且らく作麽生か『心法は無形にして,十方を通貫す』ことを説 く?……大地虛空は皆な是れ慈定の門の顯現なり.所以に道く,『・心・法・は・無・形・に・し・て, ・十・方・に・通・貫・す』と.……」44 また,同じく『広録』巻中に,次のようにも言う. 師云く,「……大地虛空は・咸・な・是・れ・妙・明・真・心・の・所・現・に・し・て,應用自在,廣く十方法界 41 『卍続蔵経』第 126冊,371頁上. 42 『卍続蔵経』第 126冊,361頁下. 43 『卍続蔵経』第 126冊,364頁下. 44 『卍続蔵経』第 126冊,373頁上. – 91 – 土屋 太祐 の衆生を利し,大いに佛事を作す.……」45 以上の内容をまとめて言えば,玄沙は「心法」が世界を貫き,真如が「沙界を廓周」し, 「大地,虚空は皆な心に因りて体を成し」ている事を主張している.世界は真如の表れで あり,真如は世界に充満して,現象に真実性を付与するのである. ここでは再び「心」という言葉が現れており,一見したところ馬祖の主張や第一句の立 場と非常に類似しているように思われる.しかし両者の間にはやはり大きな違いが存在 している.馬祖の思想において「心」と「現象」の関係を保証するものは「見聞覚知」で あった.しかし,玄沙は「見聞覚知」の真理性を完全には認めていない.それはあくまで 自己内における真如の表れであり,世界に充満する真理そのものではない.それでは,第 三句とはいかなる思想なのだろうか? 玄沙の言葉は非常に晦渋であるが,以下のように 考えることができるだろう.つまり,自己内の真如は,見聞覚知の個人性を克服したと き,始めて世界に充満することができる.言葉を換えれば,見聞覚知の個人性を生滅させ たとき,我々ははじめて自己を含む世界に充満する真如に目覚めることができる,と.森 羅万象は個人の認識に因ってではなく,この,本来的に「沙界に廓周」している真如の威 光をうけて,個物でありながら同時に円成しているのである.これは,馬祖「作用即性」 説を乗り越えて,玄沙が再び到りついた現象界肯定の思想であると言えよう. 以上のような思想の教理学的下支えとなっているのは,『楞厳経』の如来蔵思想と,華 厳の哲学である.『楞厳経』は如来蔵が縁起を通して世界に充満することを説くが,これ は「元常」を現象と直接結びつける根拠の一つとなっている.『楞厳経』の玄沙に対する 影響はすでに述べたので,これ以上は論じないこととする. 華厳思想に関しては,第三句の思想を述べる部分に「華蔵」,「華蔵世界」等の言葉がし きりに現れ,玄沙がこれらの思想の影響を受けていたことが分かる.上に引く(A)の第 三句部分にも,「海印三昧」,「十種華蔵世界の海会」といった言葉が見え,また(B)第三 句部分には次のように言う. 然れども真如法界は自無く他無し.所以に喚びて一如性相と作し,智悲の量に座せ ず,慈定の門を通明す.現行三昧,華藏海會,十方重重の家風なり.46 これらの用例中には,華厳哲学の影響をはっきりと見ることができる.そして,このよう な傾向は後の法眼宗に受け継がれ,宋代の智昭『人天眼目』に至っては,華厳六相義が法 眼宗の思想的特徴であるとしている47.そこに引く『宗鏡録』の文章は法眼宗の思想傾向 に対する格好の脚注であると言えよう.『宗鏡録』巻四十六にいわく, 若し究竟して斷常邊邪の見を免れんと欲さば,須く華嚴六相義門を明かすべし.…… 是の故に・真・如・の・一・心・は・總・相・爲・り・て,能く世出世間の一切法を攝めるが故に.諸法を約 攝するは總の名を得,能く諸縁を生ずるは別の號と成る.法法皆な齊しきは同相爲り て,相に隨いて等しからざるは異門と稱す.境界を建立するが故に成と稱し,自位を 45 『卍続蔵経』第 126冊,385頁上–下. 46 『卍続蔵経』第 126冊,387頁上. 47 『大正蔵』第 48巻,324頁上. – 92 – 玄沙師備の三句の綱宗 動かざれば壞と爲す.48 ここから,華厳の思想によって禅の境地を表すことが,法眼宗の一つの特徴となっていた ことがわかるが,このような傾向は,まさに法眼の師翁である玄沙において萌芽していた のである.以上の考察をまとめるに,「心法無形,十方に通貫す」という思想を経て「法 法恒然として皆な是くの如し,四生九類は体中に円かなり」という境地,つまりあらゆる 個別的存在の真実性に対する承認にいたること,これが第三句の趣旨であると言える. 四,結び 以上,我々は玄沙の三句綱宗の論理構造を考察した.まとめると,玄沙の思想は,第一 句の段階で,三界唯心の思想に基づき,自己内部の「真常流注」を認識し,第二句の段階 で「真常流注」の虚妄性をあばき,汚染を受けない「元常」を発見し,第三句の段階で, この「元常」の真理性を外在的現象界へと押し広げた. 玄沙の三句綱宗の全体的構造は,百丈懐海の三句の思想と類似している.つまり,第一 句の段階で馬祖的な思想を認め,第二句では「本来性」(つまり「元常」)によって第一句 の立場を打ち破り,第三句の段階では,ふたたび「現実性」の段階へと回帰してくる.と はいえ,玄沙の思想は独自の内容も持っている.最も大きな違いは,三句の綱宗が真如, 仏性のあり方について明確な認識を持っていることである. 以上の思想は,馬祖「作用即性」説を乗り越えて形成された,玄沙の思想の全体的体系 を代表するものであるが,しかし,それは玄沙個人にとってだけでなく,唐代の禅宗に とっても,一つの結論であったと言えるだろう.馬祖「作用即性」説が登場してから,唐 代の禅思想は新たな,そして大きな展開を見せた.「作用即性」説は急速に禅の修行者に 受け入れられるが,その一方で,大きな批判も引き起こした.馬祖以降の唐代禅林はこの ように,「作用即性」説に対する理解をめぐってその議論を展開させていったのである. それはまさに「ポスト馬祖」の時代であったと言うべきだろう.玄沙はこれら馬祖以降の 禅林における議論を吸収し,自己の思想を高度に体系化した.そして,その思想は,宋初 に到るまで影響力を保ち,宋代における禅思想の新たな展開の出発点となる.玄沙の思想 は禅宗史全体においても重要な位置を占めていると言えるだろう. 2009.1.9稿 つちや たいすけ 東京大学大学院人文社会系研究科グローバル COE「死生学の展 開と組織化」特任研究員 48 『大正蔵』第 48巻,690頁上–下. – 93 – Xuansha Shibei’s Theory of The Three Phrases Taisuke Tsuchiya In this paper, I argue that Xuansha Shibei’s (玄沙師備) Theory of The Three Phrases (sanjugangzong 三句綱宗), which is a variation Baizhang Huaihai’s (百丈懷海) Theory of The Three Phrases, is representative of his doctrinal system. In this theory, enlightenment deepens through three stages (or phrases): the first, second, and third phrase. With the first phrase, Xuansha argues that we come to know Buddha Nature — which exists inside of our minds — through cognition. With the second phrase, we find that Buddha Nature actually exists on a level di�erent from that of cognitive activity. In the third and final phrase, we come to see that Buddha Nature permeates the phenomenal world. As I will show, this theory was formed against the background of Chan (Zen) teachings in the Tang dynasty. – 101 – ib016006 土屋.pdf
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