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清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関

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清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 143 清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 松 浦   章 Zhapu in Zhejiang as a Trading Port for Japan and Domestic Coastal Region During Qing Era MATSUURA Akira The relationship between Qing Dynasty China and Japan continued over an extended period of time through Chinese...

清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関
143 清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 松 浦   章 Zhapu in Zhejiang as a Trading Port for Japan and Domestic Coastal Region During Qing Era MATSUURA Akira The relationship between Qing Dynasty China and Japan continued over an extended period of time through Chinese ships sailing to Nagasaki. Representative of the ports of departure for these Chinese sailing ships was, in the early stages, Ningbo in Zhejiang Province, with Zhapu, also in Zhejiang Province, also focused on from around the end of the 17th century to the beginning of the 18th century. Later, from the end of the fi rst half of the 18th century to the 1860s, Zhapu can in fact be considered the Chinese port that was the main base of trade with Japan. The function of Zhapu as a port of trade with Japan in this way is emphasized in conventional research, but its important function as a port for coastal trade within China has been overlooked. Therefore, this paper begins the discussion of the relation between Zhapu and Japan starting from the Middle Age era of the Japanese pirates. It describes the fact of Zhapu not only functioning as a trade port with Japan during the Qing Dynasty but also that it was an important port for coastal trade in China, and, as one example of this, illustrates the relation between Zhapu and Chinese coastal trade as a method of clarifying why typical China-made sugar exported to Japan was stockpiled in Zhapu. キーワード:清代中国、乍浦、日本貿易、沿海貿易、中国帆船 1  緒  言  清代において康煕二十三年(1684)に海禁令の“遷界令”が解除されると、中国大陸沿海の海上貿易 は極めて活発化した。その典型的な港市の一つが浙江省の寧波であった。1)しかし、寧波は甬江口から 上流部分にあり、甬江と上流から流れ来る奉化江と大運河に連なる余姚江の三江が合流する河港であっ て、沿海の港ではなかった。それに対して浙江省における沿海に接した港として注目すべきは嘉興府平 1) 松浦章「寧波出帆、寧波帰帆:清代寧波帆船の航跡」、『東アジア海域交流史 現地調査研究~地域・環境・心性~』 第 1号、平成17年度~21年度 文部科学省特定領域研究― 寧波を焦点とする学際的創生― 現地調査研究部門、 2006年12月、63~84頁 Kansai University NII-Electronic Library Service 東アジア文化交渉研究 創刊号 144 湖縣にあった乍浦である。乍浦はこれまで対日貿易に関係する港として注目されてきた。2)  清の張之洞撰『張文襄公奏議』卷三十六、奏議三十六、光緒二十一年(1895)二月初四日付の「布置 江南防務摺」に、 竊查、倭寇滋擾以來、沿江戒嚴、江南本省防軍、及安徽江西協防之、軍疊經奉旨飭調北上先後已數 十營……浙江之乍浦、相接距松江・蘇州甚近、尤關緊要。 とされるように、乍浦は、清代における最大の商品市場の一である蘇州とは水運によって比較的近距離 にあり、商品の集散には適した港市であった。しかし近代以降はあまり注目されることはなかった。 乍浦(浙江省嘉興市)の埠頭(2001年 8 月撮影)  清代における沿海貿易において台頭してきた浙江省の乍浦であるが、乍浦に関する記録には、乾隆 二十二年(1757)『乍浦志』、乾隆五十七年(1792)『乍浦志續纂』、道光二十三年(1843)補刻本『乍浦 備志』3)などの鎭志の存在が知られるが、沿海貿易や対日貿易に関してはその実績ほどに詳細には記録 されていない。しかし雍正年間(1723~1735)頃より、寧波にかわって対日貿易の中心的な貿易港とな ったのが乍浦である。その最大に理由は、大型帆船が接岸するに容易な港であっただけでなく、清代前 期における最大の商品市場であった蘇州にも内陸河川を利用した水運の便利である地理的な条件も包含 されていたためと考えられる。その乍浦は対日貿易の基地であったばかりでなく、中国大陸沿海の貿易 にも優れた港であったと考えられる。それは、江戸時代の長崎に輸入された商品に乍浦近郊ではほとん ど生産されない大量の砂糖があったことによる。砂糖製品の多くは、福建省の南部から広東省において 生産されており、それら砂糖製品が沿海の貿易船によって乍浦にもたらされ、対日貿易船に積み込まれ て日本の長崎にもたらされたと考えられるからである。 2) 松浦章「乍浦の日本商問屋について―日清貿易における牙行―」、『日本歴史』第305号、1973年10月。松浦章『清 代海外貿易史の研究』朋友書店、2002年 1 月、98~117頁。 劉序楓「清代的乍浦港與中日貿易」、張彬村、劉吉石主編『中國海洋發展史論文集』中央研究院中山人文社會科學 研究所、1993年 2 月、187~244頁。 徐明徳『論明清時期的対外交流與邊治』浙江大学出版社、2006年 7 月、200~217頁。 3) いずれも『中国地方志集成・郷鎭志専輯20』(江蘇古籍出版社、上海書店、巴蜀書社、1992年 7 月)に所収されて いる。 Kansai University NII-Electronic Library Service 清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 (松浦) 145  そこで本稿は、清代における乍浦の対外貿易と沿海貿易が連繋する港市としての機能を文化交渉学の 視点から、海外貿易の帆船の出港地として海外交渉の一基点であると同時に内国沿海貿易のための沿海 帆船が寄港する国内交渉の一基点であり、両者がリンクする港との観点から一つの港市の機能について 考察してみたい。 2  明代の乍浦  乍浦が歴史上注目されるのは明代以降である。『古今圖書集成』方輿彙編、職方典、嘉興府部、彙考二、 嘉興府城池考に、 明洪武十九年、倭寇海鹽、詔徙縣舊城、城乍浦。天順中、知縣王輿立四門為障。嘉靖三十四年、倭 入寇。…… 乍浦城 在縣東南二十七里、明洪武十九年、命信國公湯和、濬池築城周圍六里。 とある。乍浦は洪武十九年(1386)に、倭寇が海鹽を襲撃して縣治を乍浦に移した頃から知られるよう になったようである。その城郭の建設は湯和の命によっていた。  さらに『古今圖書集成』方輿彙編、職方典、嘉興府部、彙考三、嘉興府公署考に、 布政分司 在縣南一百五十步、明正統七年、倭寇乍浦、敕浙江參政一員、提督海道而設。嘉靖 三十五年、改為浙西參將府。 巡檢司二 獨山一白沙灣、一乍浦河泊所。元曰市舶司。明洪武十四年開設、後廢。 とあり、正統七年(1442)に、倭寇が乍浦を襲撃したことを契機に布政分司を設け、浙江參政を一員、 提督海道を置いている。巡檢司の一カ所を乍浦河泊所に設けているが、それはもと元時代の市舶司が置 かれた所であった。これが設けられたのは洪武十四年(1381)のことである。  『古今圖書集成』方輿彙編、山川典、海部、彙考九、皇清に海防の要地として、 按蘇松瀕於大海、自吳淞江口以南、黃浦以東、海壖數百里、一望平坦、皆賊徑道明不能禦之於海、 致倭寇深入二府一州九縣之地、無不創殘其禍慘矣。吳淞江有海塘、而無海口。則上海之川沙・南匯、 華亭之青村・柘林、賊據為巢、而金山界於柘林・乍浦之間、尤為江浙要衝。…… とある。江南の蘇州から松江の一帯は一望平坦にして、賊の侵入しやすい地域である。特に、上海では 川沙や南匯、華亭の青村や柘林が賊の巣窟となる地であり、浙江の金山地域は柘林や乍浦の一帯が江浙 地域で最も重要な地とされていたのである。このように、乍浦は海防上においても重要地であった。  その乍浦がしばしば倭寇の襲撃を受けている。  明実録『世宗実録』嘉靖三十五年(1556)三月庚申朔、丙戌(二十七日)の条に、 倭船四十餘艘、至乍浦登岸、流刦松江・嘉興等處。 とある。倭寇の船団40隻余りが乍浦から上陸して松江や嘉興府等の地域を襲撃していったことが記録さ れている。  さらに『世宗実録』嘉靖三十六年(1557)三月甲寅朔、戊午(五日)の条には、 江南自乍浦沈莊捷後、浙直之倭悉靖、唯寧波府・定海・舟山・倭據險結巢、我兵環守之不能克。是 時土兵狼兵及北兵葫兵、悉已遣歸、而川貴所調麻寮大剌鎮溪桑植等兵六千人、始至。…… Kansai University NII-Electronic Library Service 東アジア文化交渉研究 創刊号 146 とあり、倭寇が江南を襲撃する際の重要な起点の一つが乍浦であったことがわかる。  また『世宗実録』嘉靖三十八年(1559)四月壬寅朔、戊申(七日)には、 錄三十四年、王江涇・乍浦・杭州北關等處、斬獲倭寇、…… とあり、嘉靖三十四年(1555)にも乍浦が杭州の北関と同様に倭寇の襲撃を受けている。  『神宗実録』萬曆二年(1574)正月丁丑朔 乙酉(九日)には、 故事一編(言魚)、甲邊海之人、南自溫台寧紹、北至乍浦蘇州、每於黃魚生發時、相卒赴寧波洋山 海中、打取黃魚、旋就近地發賣。其時正值風汛、防禦十分、當嚴合將漁船盡數、查出編立甲首、即 于捕魚之時、資之防寇、仍照舊規、徵收稅銀、以為修船養兵之費、漁事既畢、即聽回生理從之。 とあるように、北の乍浦から南の温州一帯の海域は黄魚が発生する最適の海域であったように、好漁場 に乍浦も近かった。  『神宗実録』萬曆四十五年(1617)五月甲子朔 己卯(十六日)には、 以壯敵愾、金山衛介于柘林・乍浦之間、為浙直要衝、而本衛水營兵夫、日漸汰減。見在沙船十五隻、 每隻捕柁兵夫十八名、唬船十隻、每隻十四名、唬船差小。已難撐駕、而沙船尤藉、以衝犂賊舟、堵 拒倭寇者。…… とあり、先に触れた『古今圖書集成』と同様に、ここでも柘林と乍浦の間の地域は江南の要衝であった。 そこでの防備、特に海防において明朝末期には手薄な状態であった。  以上のように、明代後期の記録に乍浦は倭寇の襲撃する港市として登場する。それは乍浦が地理的に も経済的にも魅力を持った港市と考えられていたからであろう。 3  清代の海港としての乍浦  清代の乍浦は、史料にどのように記録されていくのであろうか。  『聖祖實錄』卷二百一、康熙三十九年(1700)九月辛丑(十二日)の条に、 會同江蘇巡撫宋犖疏言、臣等率監督舒胡德等、閱看金山衛南青龍港等處、自該衛海塘外四十里、有 金山頭。凡商船皆聚此處。候潮徃西、則至浙江平湖縣之乍浦。徃東北、則至漴缺、與上海縣之吳淞 江。雖據舒胡德疏稱、於金山衛青龍港地方挑河、商船可以就近駐泊、稅額可以加增。 とあり、金山衛付近の近海は商船の参集する最適の地とされ、浙江の乍浦から上海の呉淞口付近が最適 と見られ、乍浦も商船の碇泊に適する海域に属していたことが知られていた。  『聖祖實錄』卷二百三十二、康熙四十七年(1708)春正月乙丑(十七日)に、康煕帝の上諭が見える。 上諭大學士等曰、聞內地之米販往外洋者甚多、勞之辨條陳甚善。但未有禁之之法其出海商船。何必 禁止洋船行走俱有一定之路當嚴守上海、乍浦、及南通州等處海口、如查獲私販之米、姑免治罪、米 俱入官、則販米出洋者自少矣。 とあり、中国国内の産出米を海外に搬出する商船が多いため、それらの米穀の搬出を禁止する法律が無 かったので、それを米穀の海外への搬出を禁止するために、注目される主要な港の一つとして乍浦が位 置づけされていた。  『聖祖實錄』卷之二百六十九、康熙五十五年(1716)六月甲申(十六日) Kansai University NII-Electronic Library Service 清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 (松浦) 147 前張伯行曾奏、江南之米、出海船隻、帶去者甚多。若果如此亦有關係。洋船必由乍浦、松江等口出 海、稽查亦易、聞臺灣之米、尚運至福建糶賣。由此觀之、海上無甚用米之處。朕理事五十餘年、無 日不以民生為念。直隸今年米價稍昂、朕發倉糧二十萬石、分遣大臣。巡視散賑米價即平小民均沾實 惠。若內而九卿科道外而督撫提鎮悉體朕軫念蒼生至意、則天下無不理之事矣。 とあるように、江南の産出された米穀がなお商船によって搬出されていて、特に海外に赴く外国貿易船 が、乍浦や松江などの港から搬出されていたことが知られる。  『聖祖實錄』卷二百七十九、康熙五十七年(1718)六月丁未(三十日) 以原任江蘇按察使焦映漢、為廣西按察使司按察使。吏部議覆、福建浙江總督覺羅滿保疏言、沿海各 處口岸各派弁兵防守、撥文官查驗。獨浙江嘉興府屬乍浦地方、為各處商漁船隻聚泊之區雖設有守備、 千總、而文職止一巡檢、不足以資彈壓。請移嘉興府同知、駐劄乍浦、協同武職盤驗船隻、嚴拏奸匪。 應如所請。從之。 とあり、乍浦は商船や漁船の出入の絶えざる港として海防のための重要な地として武職の専門官の配置 が必要と見られていた。  この乍浦の港としての最大の機能は、諸地域の様々な物資が陸揚げされ、また積込まれていくことで あった。そのことに関して道光二十三年(1843)補刻本『乍浦備志』巻六、關梁、海關税口に、 各船所帯之貨、自日本・琉球・安南・暹羅・爪哇・呂宋・文郎・馬神等處來者、則有金・銀・銅・ 錫・鉛・珠・珊瑚、瑪瑙……自閩・廣隔省來者、則有松・杉・楠・靛青・蘭……、自浙東本處來者、 則有竹・水・炭・鐡・魚鹽。4) とあるように、乍浦の港に陸揚げされる物資の産地として外国は日本・琉球・安南・暹羅・爪哇・呂宋・ 文郎・馬神など、日本をはじめ琉球やベトナムやさらに東南アジアの諸地域のものがあった。さらに国 内では福建や廣東などから、浙江省内からももたらされていたのである。このように乍浦は海外との結 びつきのみならず省内に限らず沿海地域からの帆船によって様々なものがもたらされていたのである。  具体的には同書に、乍浦に連繋する沿海の地域や港市が見える。 浙江巡撫帥承瀛有記 乍浦距平湖邑城三十里。北達禾郡、南濱巨海、商賈輻輳、人民殷軫爲浙西一 巨鎮焉。5) とされるように、乍浦は上級治所の平湖縣から三十里のところにあり、北は江南の経済圏に連なり、南 は大海原に面して商人達が輻輳し、人々によって賑あう浙西の巨大市鎮として知られていた。道光『乍 浦備志』巻十二、兵制、満洲水師によれば、 査浙省沿海之地、惟嘉興府属平湖縣之乍浦地方、係江浙接壌、東與江南松江之提臣海道、遙遠南隔 寧波提臣海道、四百餘里、此地間于二處之中與省城海口之鼈子門甚近。6) とあるように、乍浦は江蘇省の松江府にも近く、杭州湾をはさんで南は海上を経て寧波にも近い立地に あった。 4) 『中国地方志集成・郷鎮志専輯20』江蘇古籍出版社、上海書店、巴蜀書社、1992年 7 月、148頁。 5) 『中国地方志集成・郷鎮志専輯20』186頁。 6) 『中国地方志集成・郷鎮志専輯20』200頁。 Kansai University NII-Electronic Library Service 東アジア文化交渉研究 創刊号 148  その乍浦にもたらされる沿海各地の物資を道光『乍浦備志』巻六、關梁には次のように記している。 笋乾來自福建。靛及炭有來自福建者、有來自本省温台者。冰鮮醃貨蕃茹等類、則來自本省寧波居多。7) とあるように、乍浦との繋がりのある地域は福建省や浙江省の温州や台州そして寧波などがその最大の 結びつきの強い沿海港市であった。  それでは次に海外貿易と沿海貿易がリンクする港市である乍浦の状況に述べてみたい。 1 )海外貿易港としての乍浦  海外貿易の港としての乍浦が最も関係の深かった海外の港市は日本の長崎であった。  江戸時代の長崎に来航した中国船の中で、明らかに乍浦から出帆してきた商船として知られるのは享 保年間(康煕55~雍正13、1716~1735)以降である。そこで長崎に入港した中国船の内、乍浦から出帆 したものをあげてみることにする。  享保十年(雍正三、1725)五番東京船は「寧波のうち乍浦にて仕出し」8)とあり、また十五番廣南船 が「寧波のうち乍浦にて仕出し」9)、そして同十七番東京船も「寧波のうち乍浦にて仕出し」10)とある。 享保十一年(雍正四、172)四十番厦門船も「寧波のうち乍浦において厦門出産の荷物積添へ唐人 四十六人乗組候て」11)とあるように、乍浦において厦門産の荷物を積載して乍浦を出帆してきた。同年 の四十二番廣東船は、 寧波のうち乍浦において廣東出産の荷物積添へ唐人数五十人乗組候て12)、 とあり、上記の例にもあるように乍浦は寧波の一地域として見られる程度であった。この寧波の意味は 浙江省とほぼ同意味として理解されていたとことは確かであろう。この場合も乍浦において廣東の産品 を搭載して長崎に来航している。また享保十三年(雍正六、1728)十一番寧波船も「寧波のうち乍浦に て仕出し」13)と、寧波からではなく乍浦から長崎に来航した。  これ以降の長崎へ来航した中国商船の幾艘かが乍浦から来航し、十八世紀の中頃から幕末までのおよ そ100年間は、乍浦が対日貿易の中心地となった。14)そのことは、道光『乍浦備志』巻十四、前明倭變に、 清代の乍浦と日本との結びつきを明確に記している。 以彼國(日本)銅斤、足佐中土鋳錢之用、給發帑銀、俾官商設局、備船由乍浦出口、放洋採辧15)。 とあるように、日本産の銅が中国国内の鋳造貨幣のために必要であり、その銅を購入するために、官商 を設けて乍浦から東を目指して日本へ赴いた。さらに同書には、船舶の運航形態に関し、 7) 『中国地方志集成・郷鎮志専輯20』149頁。 8) 大庭脩編著『唐船進港回棹録・島原本唐人風説書・割符留帳』関西大学東西学術研究所、1974年 3 月、106頁。 9) 同書、111頁。 10) 同書、112頁。 11) 同書、123頁。 12) 同書、124頁。 13) 同書、139頁。 14) 松浦章『清代海外貿易史の研究』朋友書店、2002年 1 月、98~1117頁。 15) 『中国地方志集成・郷鎮志専輯20』江蘇古籍出版社、上海書店、巴蜀書社、1992年 7 月、229頁。 Kansai University NII-Electronic Library Service 清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 (松浦) 149 尋分官・民二局、局各三船、毎歳夏至後小暑前、六船装載閩・廣糖貨、及倭人所需中土雜物、東抵 彼國。16) とあり、官局と民局が設けられ各局が三隻の船を毎年の夏至のあと小暑前に、計六隻の船に福建や廣東 産の砂糖や日本人の求める中国の様々な品々をもって東の日本へ赴いたとされる。対日貿易船の運航の 時期である夏至から小暑まで、現在の 6月20日前後から 7月上旬までの時期に相当する。この20日間の 頃に乍浦から日本に向けて出帆した。その航行の日程について、さらに同書に、 西風順利、四五日即可抵彼。否則十餘日三四十日不等。17) とあり、西風が順調であれば四日か五日で日本に到着した。しかしそうでなければ10餘日から 3、40日 を要することもあった。そしてこれらの船の帰帆は、同書に、「九月中、従彼國装載銅斤、及海帯・海参・ 洋菜等物回乍浦」18)とあるように、九月中に帰帆するのが恒で、日本産の銅や昆布や干し海鼠などの海 産乾物を積載して戻ってきたのであった。  そして、再び日本に赴く。同書に、 起貨過塘訖、仍復装載糖貨等物、至小雪後大雪前、放洋抵彼、明年四・五月間、又從彼國装載銅斤 及雜物回乍。通年一年兩次、官辧銅斤共以一百二十萬觔爲額、毎一次各船分載十萬觔。19) とある。日本から帰帆して積荷の荷卸しが終わると、再び砂糖などの貨物を積載して小雪後から大雪前 に、即ち現在の11月下旬から12月上旬までの20日間ほどの間に日本に向けて出帆し、翌年の四、五月頃 にまた乍浦に戻るとの運航形態であった。この場合も日本から銅や様々な物を乍浦にもたらした。この ように一年に二回の帆船航運が行われていた。そして日本から中国へもたらされる銅は、一年に120万 觔であり、一艘当たり十万觔であったことを記している。  清代末期に乍浦から日本貿易に赴いた中国帆船豊利船の乗員が記録した「豊利船日記備査」が残され ている。その咸豊二年(嘉永五、1852)末の記事に、中国商船の豊利船、得寶船、源寶船、吉利船20)の 四艘が、乍浦から長崎へ出帆する様子が記されている。 〔咸豐二年〕十二月……(唐山作十一日)初十日、晴。辰刻外面有信、云一艘在羊角峙、一艘在米澳、 兩艘在五島、但王府尚皆未報。至戌正、豐利船有信寫來矣。 豐利補船 楊少棠 陶梅江楊亦樵 顏心如 周少亭 醫生 沈寄梅 陳吉人      伙長 傅全使 買辦 毛五      舵工 傅鞍使陳強使 總哺 蔣順      總管 鄭行攀 剃頭 周文才         十一月廿八,乍開。 得寶船 項挹珊顧子英  顏亮生 徐熙梅 楊友樵 居廷璋 16) 同書、229~230頁。 17) 同書、230頁。 18) 同書、230頁。 19) 同書、230頁。 20) 吉利船:嘉永四年亥三番船、嘉永五年子五番船。官商王氏派遣了商船。 Kansai University NII-Electronic Library Service 東アジア文化交渉研究 創刊号 150 項慎甫     伙長 高煒第 買辦 周長生     舵工 傅俊使治使  總哺 鄒双     總管 林德奇 剃頭 蔣喜     十一月廿八日、乍開。 源寶船 江星畬錢少虎  戴萊山 王安槎 江吟舫    伙長 陳九係 總管 林莪輝      十二月初四、乍開。 吉利21)船 江星畬鈕春杉 汪松坪王蘭亭    伙長 陳凤池 總管 林莪燦      十二月初四日、乍開。 春幫四艘回棹、吉利船于五月初二日首先進港、其余三船于初八日啣尾平順抵乍。 (唐山十五日)十四日、晴。巳刻館內各殿拈香。22) とあるように、「乍開」とあるのは乍浦からの開船即ち出帆の意味であり、その乍浦から長崎へ向け貿 易船が出帆した。豊利船、得寶船、源寶船、吉利船は、長崎に入港してそれぞれ嘉永五年の子二番船、 子三番船、子四番船、子五番船23)としなった。  このように、乍浦は清朝の雍正年間頃から長崎貿易への出帆地として注目され、乾隆年間以降はその 中心としての地位が不動のものとなっていった。  乍浦から帰帆した中国帆船によってもたらされた1828年の長崎暴風雨の情報が、広州で刊行されてい た英語紙“The Canton Register”に掲載された24)ことが知られるように、乍浦と日本との繋がりは極 めて深かった。  その乍浦の重要性は、乍浦における海防問題とも密接に関係していたのである。さかのぼれば雍正時 代に行き当たる。『世宗實錄』卷七十二、雍正六年(1728)八月己丑(十一日)には、 查平湖縣乍浦地方、係江浙海口要路、通達外洋諸國。且離杭州、止有二百餘里、易於照應、請挑選 水師兵丁二千名、駐劄乍浦。杭州八旗滿洲蒙古內、挑選餘丁八百名。或於京城江南、挑選八百名。 再於浙省沿海水師各營兵丁內、選諳練水性船務者四百名、為捕盜頭舵水手之用、共合二千名之數、 分為左右二營。 とあり、乍浦は江南、浙江の重要な海港であると同時に、海外特に日本への港として注目された。そこ で乍浦に杭州八旗の内800名を選抜するなどして、合計2,000名の兵丁を乍浦に常駐させ海防の任に就か せることになったのである。 21) 吉利船:嘉永四年亥三番船、嘉永五年子五番船。官商王氏派遣了商船。 22) 松浦章編著・卞鳳奎編譯『清代帆船東亞航運史料彙編』樂學書局(台北)、2007年 2 月、214~215頁。 23) 松浦章『清代海外貿易史の研究』326、332、333、334頁。 24) 松浦章「The Canton Registerに掲載された1828年長崎暴風雨」『アジア文化交流研究』第 2号、2007年 3 月、73~ 89頁。 Kansai University NII-Electronic Library Service 清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 (松浦) 151 2 )沿海貿易港としての乍浦  海港乍浦が沿海貿易において注目されたのには、乍浦から各地へ搬出されるものがある。『聖祖實錄』 卷二百九十三、康熙六十年(1721)六月甲辰(十四日)条に見られるように、 諭大學士等曰、聞得米從海口出海者甚多、江南海口、所出之米尚少、湖廣江西等處米、盡到浙江乍 浦地方出海雖經禁約、不能盡止、福建地方、正在需米之時、以派浙江兵二千、往閩駐防、恐米價益 貴、米到乍浦、價值必賤、交與浙江巡撫、提督、嚴禁私買、不許出海、動帑買米三萬石、預備海船 裝載、提督派官兵護送押運、從海運至厦門收貯、自福寧州直至福州府、不過十數日之內、即可達廈 門、斯事甚屬緊要、嗣後出海米石、交與江南浙江總督、巡撫、提督總兵官、嚴行禁止。 とあり、江南産の米や長江の水運で搬出される湖北、湖南、江西などの米が乍浦に集荷され海上輸送で、 米穀が恒常的に不足する福建などに運ばれる状況が見られる。  しかし、乍浦の海防は容易でなく、『高宗實錄』卷二百十五、乾隆九年(1744)四月丁丑(三十日) 条によれば、 浙省從無禁遏、不應溫、處、之與江蘇、獨有彼此之分也。若云海禁、查浙省乍浦海船出入、必由內 河起剝過壩、與別省沿海內河、直接大洋者不同、自乍至溫、斷難飛越、凡商運米船、先令地方官、 查選土著、驗明商本、取具印保各結、開明年貌籍貫、通詳給照、赴江買運、乍口官驗符合、於照內 填註鈐印、移會經過汛防、查驗放行、一面咨會給照地方官、米船進口、查驗數目相符、然後銷照、 是浙省稽查之法。 とあり、乍浦における海船の出入は多く、さらに内陸部とは水路で結ばれるため乍浦における検査を重 視することになる。  『高宗實錄』卷二百六十六、乾隆十一年(1746)五月壬寅(七日)条に、 兵部議准、浙江巡撫常安奏稱、乍浦地方、通達外洋、為濱海要區、駐防滿兵一十六百名、又有熟練 船務綠旗兵四百名、會同滿兵、演習水操、一切營制事宜、俱照天津水師例辦理、此項綠旗兵丁、係 由本省沿海各營、抽撥前往。 とあり、乍浦は外洋に通じる重要な海港として満洲兵160名と、熟練の緑旗兵400名を配置し、水軍の訓 練を施すなどの体制が取られることになる。  海港乍浦が日本と関係の深い交易港としての問題は、『高宗實錄』卷四百十九、乾隆十七年(1752) 七月甲戌(十六日)条に、 尋尹繼善、莊有恭等奏、寛永錢文、乃東洋倭地所鑄、由內地商船帶回、江蘇之上海、浙江之寧波、 乍浦、等海口、行使尤多、查寛永為日本紀年、原任檢討朱彝尊集內、載有吾妻鏡一書、有寛永三年 序、又原任編修徐葆光中山傳信錄、內載市中皆行寛永通寳、是此錢本出外洋、並非內地有開鑪發賣 之處、但既係外國錢文、不應攙和行使、臣等現飭沿海各員弁、嚴禁商船私帶入口、其零星散布者、 官為收買、解局充鑄。報聞。 とあるように、清朝国内の流通銅貨の不足からか、日本で鋳造された銅貨である「寛永通宝」が乍浦な どに違法に持ち込まれていたのである。このような違法な通貨は、その後も見られ、乍浦はそれらの通 貨が流通する窓口となっていた。『高宗實錄』卷八百三十五、乾隆三十四年(1769)五月丙午(二十五日) 条に次のように見られるように乍浦において広東の潮陽人が違法な小銭を持ち込んでいる。 Kansai University NII-Electronic Library Service 東アジア文化交渉研究 創刊号 152 諭軍機大臣等、據永德奏、浙省查獲小錢案犯內、有陳茂榮等、係廣東潮陽縣人、現住縣城南門外海 邊嶺口、於上年十二月內、裝載小錢、從粵省航海、帶至乍浦等語。……  また、同様に続いて『高宗實錄』卷八百三十七、乾隆三十四年(1769)六月甲戌(二十四日)条に、 諭曰、永德奏、浙省查獲小錢一案。據供、有廣東潮陽縣人陳茂榮、於上年十二月、從粵省航海帶至 乍浦等語。已傳諭李侍堯、鐘音、照該撫咨開住址、實力嚴行查緝、徹底根究矣。但廣東距浙甚遠、 陳茂榮所有小錢、無難就近行使、何必遠涉海洋、赴浙銷售、此必吳七事發到官、捏招遠省無賴之人、 希圖狡飾、亦未可定、且積錢至數百千之多、其中必有本地奸徒、夥局私鑄、並銷燬官錢情事、江浙 地面犯案最多、則銷鑄之犯、自必潛匿該處、即如去年江蘇巡撫彰寶、查辦私鑄案犯、供出行家舖戶、 俱在浙江海寧縣長安鎮、翁家埠等處。 とあり、廣東の潮陽縣人が海上航路を利用して乍浦に上陸し、違法な通貨で問題を起こすなどの事態と なっていたのである。  乍浦は商船や漁船の出入する港としての様相だけではなく、海賊船も出入する港でもあった。『高宗 實錄』卷一千四百四十三、乾隆五十八年(1793)十二月乙亥(十六日)条に、 又拏獲石板殿焚搶逸犯數十名、從重審辦各摺、可見該省盜風仍未能盡息、不知現在各海口、有無似 康熙年間洋盜情形、著傳諭伍拉納、即留心訪查、實力整頓、並直抒所見、據實陳奏、毋稍匿飾、又 諭、浙江寧波乍浦溫台等處、均係瀕海地方、時有海洋盜刦之案、近日如石板殿被賊焚搶、雖首夥各 犯、均已拏獲正法、但浙江水師營汛、廢弛已久、究恐一時不能整飭、盜風未盡斂戢、有無似康熙年 間洋盜情形、著傳諭吉慶、將現在浙江洋面、詳加察看、並將如何防範整飭緝盜之處、直抒已見、據 實奏聞。 とあり、海港は単なる良民が運航する船舶の出入だけではなく、「洋盗」と呼称された海盜も出入して いたのである。乍浦もその例に漏れない港であった。  そして、これらの海盜は、乍浦に出入するのみならず、乍浦からまた他の港へと進出している。『高 宗實錄』卷一千四百八十五、乾隆六十年(1795)八月乙巳(二十七日)条によれば、 山東巡撫玉德奏、前飭登萊將弁、出洋巡哨、據報並無賊船、隨親至膠州海口、據南來各商船均稱、 六月間浙江乍浦、江南羊山、有賊匪滋擾、過大沙尖迤北、實無賊匪。…… とあり。山東の膠州の海口に現れた海船は、 关于同志近三年现实表现材料材料类招标技术评分表图表与交易pdf视力表打印pdf用图表说话 pdf 面上は乍浦から来航した商船と称していたが、現実は商 船に扮装した海盜船であったことが明らかにされている。  『仁宗實錄』卷九十五、嘉慶七年(1802)三月戊寅(八日)条には、 諭軍機大臣等、阮元奏、乍浦汛口外委郎廷槐、率同兵役盤獲盜船一隻、搜出私硝八百餘斤、並獲犯 沈大庭、訊出私販硝斤、欲賣給海匪蔡牽等情、盜匪在洋行劫、所得贓物、總須上岸銷售、况一切食 用之物、若非有奸民暗中接濟、盜匪必不能在洋面存身、是欲靖盜源、總在嚴查濟盜奸民、方為有裨、 如售買硝黃、本干嚴禁、果能實力查拏、盜匪何從得有火藥、而糧米為口食所必需、若能禁止出洋、 則盜夥立形飢窘、至上岸銷贓、必有一定處所、更當密為訪察、偵探蹤跡、自必易於擒捕、著傳諭該 撫、督飭近海各口岸地方營汛各官弁、認真巡察、嚴拏濟盜奸民、務期絕跡。 とあり、乍浦の海防官が拿捕した海盜船を捜索したところ、硝石800余斤も搭載していたのである。硝 石は周知のように火薬の材料として利用される危険なものである。海防の重視を高揚された。この船は Kansai University NII-Electronic Library Service 清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 (松浦) 153 嘉慶年間の海盜蔡牽に関係していたと見られた。  海防の重視からか『仁宗實錄』卷三百十九、嘉慶二十一年(1816)六月条に、 諭內閣、直省沿海地方、如廣州、福州、浙江之乍浦、江南之京口、俱設有水師駐防、其綠營在各沿 海省分者、設有外海水師、歲時操演、按期會哨、定制周詳。 とあるように、広州、福州、乍浦などに水軍を配備して日々の訓練を怠らないように嘉慶帝が厳命して いる。  『宣宗實錄』卷三十九、道光二年(1822)八月甲寅(十三日)条には、清代後期から国内だけではな く海外まで需要が高まった茶葉の輸送の窓口として乍浦が注目されていたことが見られる。 諭、帥承瀛奏、浙省溫州等府茶船、請仍由海道販運一摺。上年江海關出口茶船、經孫玉庭等查明、 船身與閩廣浙省之船、可以利涉深洋者不同、舵水人等、亦不諳南洋沙綫、勢難逾越、因降旨准其出 口、北赴山東天津奉天等處、其向由內河行走輸稅者、照舊禁止出洋、不容紊越、茲帥承瀛復以浙省 溫州土產麤茶、向由平陽江口出海、進乍浦口、運赴蘇州、定海縣歲產春茶、亦由海運至乍浦、轉售 蘇州、自飭禁海運以後、均從內河行走、盤費浩繁、未免生計維艱、懇請仍由海道販運、浙省毗連閩 粵、洋面遼闊、稽察難周、雖據該撫奏稱、提驗查對、各口岸均有稽覈、恐日久懈弛、茶船出口後、 該商民等貪圖厚利、任意駛赴南洋、私售外夷、並守口員弁得規徇縱、任令攜帶違禁貨物、致滋偷漏、 其流弊實不可勝言、所有該撫奏請由海販運之處、著不准行、溫州定海各茶船、仍著由內河行走、以 昭禁令而重海防。  清代において海外へ搬出された重要な産品であった茶葉は、産出地域によって、輸送形態が主として 内陸路や内陸河川によって輸送するように定められていた。ところがそれを無視した人々が、輸送糧の 拡大と輸送費の低廉を目途として海上輸送を行ったのであった。特に浙江省南西部の温州附近で産出さ れた茶葉が内陸の行程では無く、海上航路を利用して乍浦に陸揚げし、乍浦から水路で蘇州へとの輸送 量の増大と時間短縮をはかっている。  道光五年以(1825)以降、大運河が決壊すると税糧輸送のための海運が求められ、『宣宗實錄』卷 二百三十一、道光十三年(1833)二月壬寅朔の条によれば、 委員前赴寧波、乍浦、或行文江蘇於上海雇備海船、迅速運往、以資接濟。 とあるように、乍浦も海運のための船舶調達の港と目されるようになっていた。  沿海航運で言えば、『宣宗實錄』卷二百三十六、道光十三年四月丙寅(二十六日)条に、 臺灣之商、既困於閩中海口、勢必遠載謀利、其運至浙江乍浦・江蘇上海者、尚可寛裕民食、或接濟 重洋、勾通盜賊、為害不可勝言等語、臺米為福建民食所需、况荒歉之區、米船到關、例得免稅、該 地方官何得任聽胥吏橫索、致令商販不前、近年兵米何以多改折價、以致進口米少、如果屬實、不可 不嚴行飭禁、至江浙亦係連年荒歉、一經採買、其困更甚、自係實在情形、著程祖洛、魏元烺、會同 悉心妥議、出示曉諭、廣為招徠、臺商運米到口、可否免其船稅、照驗放行。 とあるように、台湾からの船舶も乍浦に来航するようになる。これに関して同治『淡水廳志』卷十一、 風俗考、風俗にも、 曰商賈、估客輳集、以淡為臺郡第一。貨之大者莫如油米、次麻豆、次糖菁。至樟栳、茄籐、薯榔、 通草、籐、苧之屬、多出內山。茶葉、樟腦、又惟內港有之。商人擇地所宜、僱船裝販、近則福州・ Kansai University NII-Electronic Library Service 東アジア文化交渉研究 創刊号 154 漳・泉・厦門、遠則寧波・上海・乍浦・天津以及廣東。凡港路可通、爭相貿易。所售之值、或易他 貨而還。 とあるように、台湾の淡水から寧波、上海、乍浦を目指して貿易のために航運してくる商船も見られる ようになったのである。  そして『宣宗實錄』卷二百三十八、道光十三年六月乙巳(六日)条に、 浙江省寧波乍浦一帶、海舶輻輳、前赴廣東貿易者、難保其不以紋銀易貨、著該撫即將刑部奏定條例、 出示徧行曉諭、嗣後內地民人赴粵貿易、祇准以貨易貨、或以洋銀易貨、不准以紋銀易貨、外洋夷人 在粵貿易、亦祇准以貨易貨、或以紋銀易貨、不准以洋銀易貨、洋銀塞其來源、其用不禁而自絀、紋 銀斷其去路、其價不減而自平、儻奸商仍前情弊、一經查出、即照刑部新定罪名懲治、俾知儆畏、至 私鑄私販、既壞錢法。 とあり、乍浦から広東への貿易に赴く船舶が見られようになった。その典型的な例が、海商が、「以紋 銀易貨」と紋銀を使って交易を行う事例がしばしば見られ、清朝の貨幣体系を崩壊するものとして厳罰 で臨むべきとされた。  その乍浦が沿海貿易で繁栄していたことは、中国のみならず外国船にも注視されている。  『宣宗實錄』卷三百三十六、道光二十年(1840)七月己丑朔の条に、 據長喜馳奏、夷船直逼乍浦海口該副都統率兵堵禦、互相轟擊傷斃兵丁十餘名等語、該處夷船、現在 雖祇一隻難保不陸續而至、乍浦兵力較單、亟須撥兵赴援該將軍現在省城防守、不可輕動、著即遴委 將弁、選派兵丁、星夜赴乍浦海口接應、相機堵逐、毋稍延誤、將此由四百里諭令知之。又諭、本日 據長喜由驛馳奏、夷船直逼乍浦海口情形一摺。…… とあり、アヘン戦争による英国軍艦が乍浦を攻撃する事態に至り、注目されたのである。 Thomas Allom, China in a Series of Views, 〔1843] Vol.Ⅲ, p.49にみる イギリス船の乍浦攻撃の図  『宣宗實錄』卷三百五十六、道光二十一年(1841)八月己亥(十八日)条に、 諭、本日據劉韻珂奏、逆夷分擾各嶴、業已擊退、現在撥兵防堵要口、及籌衛省垣一摺、覽奏均悉、 Kansai University NII-Electronic Library Service 清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 (松浦) 155 此次逆夷在浙洋盛嶴石浦地方、分船滋擾、雖經該處文武督兵擊退、尚未大加懲創、難保不伺隙復來、 昨據裕謙奏到、已有旨飭令嚴加防範、茲復據該撫奏稱、逆船現在各洋遊奕、誠恐竄入乍浦、亟須豫 為籌備、該處本係通商馬頭、閩省遊民、聚集甚多、其中之強壯馴良者、固可挑募以資捏衛、而獷悍 之徒、既難全行收養恐不免別生事端、該撫請添兵彈壓、及令該道挑充鄉勇之處、均著照所議辦理、 至尖山口為省垣門戶、該處水陸既無可以堵截、現經該撫團練鄉勇、豫備陸戰、尤以多多為善、如該 夷一經登岸、即行奮力痛勦、務殲醜類而靖海氛、將此由四百里諭令知之。 とあり、英国軍艦が乍浦に侵入するが、何とか撃退するために、臨時的ではあったが、乍浦に参集する のは多くは福建の遊民とされ、その戦力に彼らを利用しようと考えられたのであった。  『宣宗實錄』卷三百六十二、道光二十一年(1841)十一月丁丑(二十七日)の条に、 諭軍機大臣等、據劉韻珂奏、海口封閉日久、商民失業、請照舊開港、並酌定稽查章程等語、浙江省 乍浦等處各海口、商船出入、貨物流通、貧民得資餬口、既據該撫奏稱、該處舵水人等、屢次籲求開 港、自宜俯順輿情、所有乍浦及溫台等處商漁船隻、均著准其照舊出入。…… とあるように、多くの商人が沿海貿易の港として人々の出入が多く見られた。  道光『乍浦備志』巻六、関梁に、「福省之南臺鎮、為木植湊集総所」25)とあるように、福州の南台は木 材の集散地として繁栄していた。南台からの船舶は沿海を利用して、清代において商業の中心地でもあ った蘇州にも近い浙江省の東北沿海にある乍浦にも木材を輸送していたのである。その福州の南台には 福建より北の海域を交易圏とする海商がいた。上海の『国民日日報』第15号、1903年 8 月21日(光緒 二十九年六月二十九日)付の「中国警聞」に「閩商破産」の記事が掲載されている。それには、 南台張禮記閩之巨商也、家有帆船数艘、専往来膠州・牛荘等処。……閩省具有数十萬商、本者已寥々、 今又復破壊一家矣。26) とあるように、福建省福州の閩江に隣接する南台に張禮記と云う巨商がおり、彼の家業は数隻の帆船を 山東省の膠州や遼寧省の牛荘などとの間に航行させる沿海航運業者であった。しかし、その帆船の乗員 が違法の武器など搭載していて張家が官憲に追われることになり、張家は香港に逃れ財産が没収された のであった。この他にも福州の『閩報』第1424號、1910年 5 月 7 日、宣統 2年 3月28日、「省會要聞」 の「商船被劫」に、 商船金順益、由閩装運木植各貨、前往上海、於本月初八日、駛至金駟門洋面、突遇賊船十餘艘、四 面兜圍。… とあり、福建の福州から木材を搭載した商船金順益が上海へ航行途中に海賊に襲撃されている。また『閩 報』第1511號、1910年11月26日、宣統 2年10月25日、「三山雑記」の「商船沈没」に、 日前有大商船新源成、由福州載貨、前往膠州卸售後、即由該処、装運豆餅・各貨來閩、不料該船纔 行、至膠州海外之洋面、遇風沈没、計損失資本不下三萬餘金云。 とあり、大商船新源成が福州から貨物を搭載して山東省の膠州に赴き、膠州でそれを売却して豆餅等の 貨物を積載して福州に帰帆する際に膠州沖の海域で海難に遭遇して沈没したのである。その損失は三萬 25) 『中国地方志集成・郷鎮志専輯⑳』江蘇古籍出版社・上海書店・巴蜀書社、149頁。 26) 『國民日日報』台湾学生書局、1979年 5 月、145~146頁。 Kansai University NII-Electronic Library Service 東アジア文化交渉研究 創刊号 156 餘金を下らないと見られていた。  これらの事例からも知られるように福州から上海、膠州などの北洋方面への沿海貿易が積極的に行わ れていたのである。福州からみた北洋貿易には当然のことながら乍浦も視野に入っていたことは、先に 掲げた道光『乍浦備志』の記事からも類推できる。  日本の領事報告である『通商報告』明治19年(光緒12、1886)第 2回に「清式帆船貿易概況」として 次のように記されている。 ……清式帆船ノ重モナル航路ヲ舉ケンニ、分テ三区トナシ、其一ハ遼東ノ錦州府・天津・芝罘等ノ 諸港ノ間トシ、稱シテ大北ト曰フ。其二ハ上海・寧波・乍浦等ノ諸港ノ間トシ、稱シテ小北ト曰フ。 其三ハ厦門及其近傍ノ間トシ、稱シテ厦郊ト曰フ。就中寧波ハ全國中清式帆船ノ出入最モ頻繁ノ港 ニシテ、南北ニ回航スル者ハ概ネ該港ニ寄航セザル者ナシ。其寧波ヨリ福建ニ航行スル帆船ノ如キ ハ、北地ヨリ該港ニ輸入シタル豆餅、豆類、曹達、木綿等ノ品ヲ搭載シ、其福建ヨリ寧波ニ來ル帆 船ハ砂糖、唐紙、橄欖、密柑、材木等ヲ回漕ス。又寧波ヨリ鎮江ニ往復スル帆船ハ毎年二百余艘ヲ 下ラス。 と記しているように、中国式帆船の主要な海港として江南附近では上海・寧波・乍浦であったことは周 知の事実であった。  乍浦から日本への貿易帆船の底荷物として注目されるものに砂糖があるが、道光『乍浦備志』巻六、 關梁に、 進口各貨……乾隆朝、廣東糖約居三之二、比來多汎至江南之上海縣収口、其収口乍浦者比較之福建 糖轉少、其半廣東糖商、皆潮州人、終年坐庄乍浦、糖船進口之時、各照包頭斤兩、經過塘行家、報 關輸税。27) とあるように、乾隆年間において広東省産の砂糖の三分の二は乍浦において陸揚げされていた。ところ が道光年間になるとその多くが上海において陸揚げされるようになった。しかしまだ福建産の砂糖は乍 浦において陸揚げされていた。広東産の砂糖を取扱う商人はほとんどが潮州人で、一年を通して乍浦に 滞在していた、砂糖を積載した商船が入港してくると過塘行に行って進口税を収めていると記されるよ うに、乍浦には砂糖だけを専門に扱う「糖商」がいて、その多くが産地である潮州商人であり、一年に わたり乍浦で起居し交易を行っていたのである。 4  小  結  上述のように、海港乍浦は清朝の雍正年間(1723~1735)には日本の長崎へ出港する港の一として知 られるようになり、乾隆年間(1736~1795)以降は対日貿易の基地となった。それには、沿海貿易とし て、中国沿海各地から集荷される産品が陸揚げされ、対日貿易船に積み替えられていた。そのことは、 先に指摘したように『島原本唐人風説書』にも見られ、「寧波のうち乍浦において厦門出産の荷物積添 27) 同書、149頁。 Kansai University NII-Electronic Library Service 清代浙江乍浦における日本貿易と沿海貿易の連関 (松浦) 157 へ唐人四十六人乗組候て」28)とか「寧波のうち乍浦において廣東出産の荷物積添へ唐人数五十人乗組候 て」29)のように長崎において中国商船の乗員から報告されたように、乍浦には沿海とりわけ乍浦以南の 海域から来航する福建や広東からの商船が積載してくる砂糖が多量に日本にもたらされた。このことは 『乍浦備志』にも「装載閩・廣糖貨、及倭人所需中土雜物、東抵彼國」とあることからも証明される。 さらに乍浦から、江南の運河によって内陸の大市場である蘇州などの後背地に物資が搬出され、また搬 入された。これらの物資は、乍浦から長崎への貿易船によって海外へと搬出され、また日本からの物資 がもたらされた。  このように、清代の乍浦は中国大陸沿海における物流の基点の一であると同時に、対日貿易における 貿易基地であった。乍浦は沿海貿易と海外貿易の分岐点であった。乍浦を通じて沿海貿易と海外貿易が 有機的に分岐する港市であり、そこでの典型的な貨物が福建や広東産の砂糖であった。 【附記】本稿は、2007年 7 月17日に寧波大学文学院において開催された“以寧波爲中心的浙江海上交 通學術研討會”で報告した原稿をもとにまとめたものである。 28) 大庭脩編著『唐船進港回棹録・島原
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